▼ 37 告白
父が怪我をしてから、一ヶ月半が経った。手術の傷跡は落ち着いてきたけれど、まだプレートが入っていて、完治までは時間がかかる。
介護タクシーには今まで長くお世話になった。だが僕はバスを使うという目標を捨てきれず、父に相談したら、自分も付き添うといって協力してくれた。
出発は、混雑している時間の後の便にした。支援学校へはぎりぎりの時間帯になってしまうが間に合う。
緊張しながらまばらに人がいる中で、二人でバス停の列に並んだ。
バスがやってきたと同時に、前と後ろのドアが開き、人々は前から乗り込む。運転手さんは車イスの僕の姿が目に入ったのか、後ろのドアの階段部分が自動でスロープに変化する操作をしてくれて、思ったよりもスムーズに乗り入れることが出来た。
父は後ろからついてきて車イスに手を添えて支えてくれ、ちょうど二人で中央部のスペースに停まれた。あらかじめ買ってもらった定期券を掲げれば、料金も支払い済みだと示せる。
僕は近くのバーに掴まって、車内の様子を眺めた。リュックを背負った学生や、中年の男女、お年寄りまで座席に座り、揺られている。
時々目が合ったけれど、誰も僕のことはとくに気にしていなくて、この距離感なら、そんなに邪魔になってもいない。
「お父さん、大丈夫そうだね。これなら一人でも通えそうだよ」
「……まあ、そうだな」
少しため息混じりに僕の肩に手を置き、じっと見下ろしてくる。やっぱり、不安にさせてるかな。そう思ったけれど、いつかは一人での行動が僕にも必要になる。ちょっとずつ出来ることを増やすんだ、ということも父が教えてくれたことだ。
それを分かっていたのか、父もやがて納得してくれた。
「連絡は怠るなよ。いつでもいいから、俺を呼べ。分かったな、ロシェ」
「うんっ。ありがとう。……あっ、お父さんが降りる駅だよ」
「いや、今日はお前と一緒に学校前で降りる。あとで引き返すよ」
会社まで数駅だから大丈夫だ、と言ってくれた優しい父は、言った通り僕と一緒に降車し、校門を通り抜けるまで見送ってくれた。
そしてなんと帰りの時間も、初めてだからということで迎えに来てくれた。そうして一緒にバスで帰る。朝よりも人も時間帯も余裕があって、ゆったりと過ごせた。
いつも見守って助けてくれる父が本当にありがたいと思う。こうして僕はまた新しいことがひとつ、出来るようになった。
通わなきゃいけないのは、学校以外にもある。月二回ほど週末に行われる体操教室への参加は、通常より行動に手間がかかってしまうため、父が完治するまでお休みにしていた。
週一度のリハビリ施設へは介護タクシーをまた使わせてもらって、放課後にそのまま一人で通っていた。
一通りのメニューをこなし、休憩時間になると担当のレイさんとともに、ジュースを片手に人気のない廊下のベンチでお話をした。
「それでね、バスの通学も慣れてきたんだ。今のところまだヘマしてないし、順調だよ」
「うんうん。よかったロシェ君、俺も嬉しいよ。ほんとはちょっと心配してたから。でも最初は何事も勇気がいるもんな。ロシェ君やったね!」
「へへ。お父さんが助けてくれたからだよ」
若干にやけてしまうと、前に立っていた作業衣姿のレイさんも腕を組んだまま満悦した様子だった。
そこで僕はふと質問を思いつき、あたりを見回す。誰もいないことを確認し、「レイさんここに座って」と頼んだ。
目を見開いた彼は言う通りにした。こっそり耳打ちをすると「ロシェ君?」と慌てていた。
「あの、叔父さんとどう? 何かあった?」
「え!?」
ものすごい大きな声で驚かれ、しーっと指を立てる。気づけば体育会系の大柄な彼は、耳まで赤くなっていた。
大きなお世話だと思ったけれど、今まで彼に恋愛相談のようなことを行ってきた身として、僕はやたらと気になっていた。
「いや、あの……友達として、仲良くさせてもらってるよ。前にちらっと話したとおり。……ええと、実はこの間、一緒にサーフィンに行ったんだよ」
「えっ、うそー!」
今度は僕が大袈裟に驚く。話を聞くと、ギル叔父さんはレイさんのサーフィン姿を撮りたいと言い出し、カメラをもって付き添い、海でモデルのようなことをしてもらっていたのだという。
裏でそんなことが進んでいたとは、僕もびっくりだった。
「そうなんだね。じゃあ仲良くなってるんだ。よかったぁ」
無邪気に話した僕の様子を、レイさんは気にしていた。少し言いづらそうに「もしかして、俺の気持ちにちょっと気づいてる?」と問われたので、普通に「うん」と頷いた。
でも彼は、自分の感情がよくないことだと思っているらしかった。
「あのね、俺、確かにギルさんのことすごくいいなって思ってるんだけど、無理矢理気持ちを伝えたりとか、迫ったりとか、そういう彼が嫌がることは絶対にしないから。安心してね。……って、何言ってるんだろう俺、担当の子に。ごめんーー」
焦って右往左往しているレイさんだけど、僕に謝ることなんてないって首を振ったら、少しほっとしたように力が抜けていた。
「大丈夫だよ。叔父さんの気持ちは確かに僕も分からないんだけど、好きになるのは悪いことじゃないよ。レイさんも僕が相談したとき、そう言ってくれたでしょう?」
「……うん。優しいな、ロシェ君。ありがとう。……でも、前に公私混同しないって言ったのに、めちゃくちゃしちゃってるな。俺」
茶髪に手を伸ばして、乱雑にかいている。そして床に視線を落としたまま、あることを教えてくれた。
「俺ね、今までストレートの人しか好きになったことなくて、当然全部うまくいかなくてさ。だから両思いになったことないんだ。今回もそうだって分かってるんだけどね」
そう言って顔を上げ、無理矢理元気を出したような笑みを見た僕は、驚き、途端に胸がきゅっと苦しくなる。
同性愛者の彼の恋は、今まですべて片思いで終わってきた。それを知ってなんとも切ない気持ちになった。
「レイさん、叔父さんのこと凄く好きなんでしょう」
「……うん。……まあ、正直切ないね。すっげえ優しくていい人なんだよ、ギルさん」
「うん。僕も知ってる」
二人でしみじみとした空気になってしまった。レイさんの恋がうまくいって、笑ってほしいなって思った。恋愛は二人でするものだって、分かっているけど。
片思いは切ないけれど、楽しくて、どきどきする。両思いになるのは、難しい。それが奇跡的なことなんだってことは、僕は身をもって知っていた。
そして両思いになれたとしても、その人の一番になれるかどうかということだって、本当は分からないのだ。
恋ということを考えたとき、普通ではないと思うけど、この人の顔を見たときも時々思い浮かんでしまう。
それはもう七年の付き合いになる、三つ年上の親友ニルスくんだ。
彼は支援学校を卒業してから父親が経営するスポーツジムで働いているが、もうすぐ二十歳になろうかというときに、大きな変化が起きた。
『どうだ、ロシェ! 格好いいだろう!』
胸を張って僕の家の前に停まってある車を見せる。ちょっとスポーティーで、トランクの上には羽までついている。
そう、なんと親友は最近運転免許を取得し、貯金で車を購入したのだそうだ。
「わぁ、すごい! これニルスくんの車なの? ぴっかぴかだねえ!」
僕も興奮して車イスで近寄り、中を覗きこんだ。聴力障害があっても、車体にマークをつけて補助ミラーも設置すれば、条件付きの運転が可能なのだ。
けれどやはり一般の人より取得にも苦労したはずだし、ニルスくんの努力は本当にすごいと思った。
その日は父もまだ仕事から帰ってなかったから、僕は彼を居間に招きいれて、二人でゆっくり近況を話し合っていた。父の怪我具合や僕達の生活を気遣ってくれていたニルスくんだったが、話はまた車のことに戻る。
二人の筆談ノートを使い、彼の綺麗な文字がすらすらとペンから走っていく。
『これで俺ももっとロシェのこと助けられるなー。そう思わねえ!?』
「えっ? そんな、ニルスくん。ありがとう。でも、ニルスくんも楽しんでよ、色々好きなこと」
いつも優しい彼の好意を嬉しく思いながらも、ソファ下の床にあぐらをかく彼に笑いかける。すると彼は、すくっと立ち上がり、僕の隣に腰を落とした。益々ガタイのよくなった上半身を向けられて、どきっとする。
『半分ロシェのためなんだけど。重い?』
手話を使いやたらと真面目な顔で問われて、僕は空気に押されて首を横に振る。
『だってさ、前に言ったろ? 俺が卒業したら、もっとお前のこと支えられるって。俺がそうしたいんだよ。ダメ?』
赤髪のニルスくんが、そばかすを照れくさそうにかいて、僕をじっと見つめる。胸がとくとくと、自然に鳴っていった。
「どうしてそんなに優しいの?」
『これも前に言った。好きだからだよ、ロシェのこと』
今度は真剣な眼差しで、ぐっと顔を寄せてくる。僕は目が勝手に潤んでいた。こんなときに自分でもよくないって分かってるけど、台詞が父の言葉と重なる。彼の気持ちが強いものなんだって、余計に感じ始めた。
嬉しいけれど、少し苦しいような、切ない気持ち。
この前のレイさんの気持ちを聞いたときのような、はっきりとは説明できない感情。
「ニルスくん……」
『あー! 分かってるよ、父ちゃんが好きなんだろ? それでも別にいいから』
うつむく僕の頭をくしゃくしゃと大きな手がかき回す。俺の気持ちなんだからしょうがない、そう言われてるような気がした。
彼は、もしかして、僕の父への思いが親子以上のものだって、とっくに気づいているのかもしれない。
それでもこうして気持ちを伝えてくれてるのかなって思ったら、さらにたまらない気持ちになる。
ところが僕は、その後すぐ、さらに彼の思いがけぬ言葉によって看過できない気持ちにさせられた。
『……なあ、ひょっとしてさ。……デイルさんと……えっちなことしてる?』
喉をごくりと鳴らして急に何を問うのかと思ったが、僕は即座に否定できず、一瞬固まり全身が熱くなってから、顔を左右に振ろうとした。
でも遅すぎたみたいだった。
「……あっ……ちが、……ニルスくん…っ」
手を伸ばすと、親友の彼のほうがみるみるうちに真っ赤になり、変な表情のまま動かなくなった。
『待て、待て! 何も言うな。……いや言ってもいいけど。別に俺は平気。……こんなことでへこたれねえ! いや、俺は諦めねえぞ、いつか勝つんだからな、デイルさんに!!』
茹でダコみたいに赤いニルスくんは、立ち上がった。
ノートを取り、そのまま帰ってしまうのかと思い唖然としていると、またペンを握って何かを書いている。
『俺は燃えるタイプ、親友の座は俺だけ、いつか来るチャンスを狙うぜ!!』
と三つの文が書き殴られていた。ぽかんとしていると、そのノートはリュックに入れず、僕に手渡してきた。
「……えっ、ニルスくん、もう帰るのっ?」
『ああ、じゃあなロシェ、それはお前にやる! 次会うときまでに新しいの持ってくるから!』
そう言って足をもつらせながら帰ろうとしたニルスくんは、思い出したように振り返り、僕のほっぺたまで顔を近づけ、押し付けるようにキスをした。
僕は文句を言えず、ノートを腕に抱えて、彼の背をわけがわからないまま目で追ったのだった。
◇
それから数日、僕はニルスくんに、バレちゃったかなって、気が気じゃなくなっていた。でも、彼からのメッセージは変わらず頻繁に来るし、親友同士の仲は壊れてないみたいで、とりあえずほっとする。
「ロシェ。ただいま」
「おかえりお父さん、病院どうだった?」
「ああ。思ったより繋ぐのに時間がかかるみたいだ。もう少し長引きそうだって」
段々間隔が空いてきていた通院だったが、父は検査結果に気を落としていた。骨折の場合、経過により最初の完治の目安より延びる場合もある。そんな姿を見て、僕もしっかりしなきゃと考えた。
怪我をしてから二ヶ月が過ぎ、その頃には僕もだいぶバス通学に慣れてきた。帰りの車内で、なにげなく携帯のカレンダーを見ていて気づく。来月、父の日だ。
最近は慌ただしかったけれど、こんな時こそ父に何かいいものをプレゼントしたいなと思って、考えを巡らせる。そういえば父は、誕生日でも聖誕祭でも「何がほしい?」って聞くと、決まって「なんでもいいよ」って返ってくる。
あんまり物欲がなくて、お酒も煙草も吸わないし、物自体にそこまで関心がないみたいだった。だから僕はいつも頭を悩ませる。
ぼんやり窓の外を見ていると、通り沿いに商店が並んでいた。洋菓子店や雑貨屋、その近くに男物の服屋があるのが目に入った。
ウィンドーの中に飾られた、おしゃれなシャツ。ああいうの、お父さんが着たら似合いそう。
そう思って閃いた。あの店に行きたいなって。
車イスの僕はもうそれしかないと思い、後日一人で向かってみることに決めたのだった。
「お父さん、明日ね、ちょっと買い物に寄ろうと思って。学校のすぐ近くだから、すぐに終わるけど。少しだけ帰るの遅くなるかもしれない」
さっそく帰宅したあと、父に伝えた。もちろん目的は秘密だけど、父は少し動揺して見えた。
「え? お前ひとりで行くのか。待て、一緒に行くよ。仕事が終わってからーー」
「ううん、大丈夫。ほんとにすぐ終わるから。道も知ってるし、心配しないでね」
なんとか説得を試みて、最後まで不安な様子の父に納得してもらった。
本当は途中でバス停を降りて店に入るのだが、時間も調べたし店は停留所から離れてないし、もうバスに慣れた自分は大丈夫だと思っていた。
次の日、僕はおこづかいが多めに入った財布を持って、その店に向かった。玄関も店内も広めで、自動ドアなので問題なく入った。
「すみません、中を見てもいいですか?」
「ええ、どうぞどうぞ。ゆっくり見て行ってね」
人の良さそうな小綺麗な服装をした中年の店主に勧められ、僕は目当てのものを探した。時間を気にしながら色々見て回ったけれど、やっぱり飾ってあるネイビーのシャツが一番格好いいと思い、それを購入することに決めた。少し高めだけど、買える値段だからよかった。
「あの、プレゼント用にできますか」
「出来ますよ。父の日ですか? もうすぐだもんね」
「はい」
気恥ずかしく思いつつ、すぐに見抜かれて笑う。
父の日だけど、僕がお父さんの恋人になってから、初めてのプレゼントだから気合が入った。
包装したものを紙袋にいれてもらい、膝の上に乗せて出発した。バス停まで戻ってきたら、もう夕方になっていた。時間はまだあるし、と安心しながらふと後ろの張り紙の時刻表を確認する。
「……えっ? なにこれ、時間が間違ってる!」
しかし間違っていたのは僕のほうで、急いで携帯に保存していた時刻表を確かめた。ネットで探したものだが、よく見ると日付がひと季節分古いものだった。
どうしよう。次の便まであと一時間以上もある。
この小さな地域ではその長さは珍しいものではないが、車イスの自分にとっては結構問題だった。
もうすぐ五時だから、帰るのは六時半ぐらいになってしまう。トイレも心配になったけど、とりあえず父に言わないとと思い、携帯にまた視線を落とした。
でも父に言ってどうするんだろうと思った。今日の目的は秘密だし、嘘もついたし、こんな所で何やってるんだって怒られるかもしれない。
もうすぐ父も仕事が終わり、家に帰宅するだろう。でも運転は出来ないし、このバスの時間じゃ迎えにも来れないはずだ。
一瞬、ニルスくんのことも頭に浮かんだ。昔もこうやって、自分がピンチに陥った時に彼に頼ったことがある。
でもこんなことで、いつまでも人を頼るのはどうかと思った。
やっぱり、大人しく待とう。六時前になったらもうすぐ着くよって連絡すればいいって、そう考えた。
停留所には屋根があって、ベンチも並んでいるけど誰もいなかった。ただ外で車イスで待っているのはわりとしんどい。
なんてバカなんだ。今まで順調だったから、また油断してドジをした。
行き交う車を見つめながら、なんとかやり過ごしていると、雨がぽつぽつ降ってきた。どうしよう、傘なんて持ってない。
傘があっても差して移動なんて出来ないし。
そう思いつつ、僕は打たれ弱いけれど、まだ大丈夫だと考えていた。もう高校生で、子供じゃないんだ。買い物だって一人で出来て、バスでここまで来れた。失敗はしたけど、まだ平気ーー。
念じながら、肌寒くなってきたので上着を閉める。その時だった。
黒い車が通りかかり、窓が下りて知らない男の人がこちらをちらりと見てきた。
「大丈夫? どうしたの、バス来ないの?」
「えっ。いえ、大丈夫です」
慌てて問題ないことを伝えると、ひとまずその人は去った。親切な人だったのかなと思ったものの、少し警戒してしまった僕は反省する。
それから二十分ほどが過ぎ、いつの間にかもうすぐ六時になっていた。はっとして、携帯の画面を開く。すると、父からすでに着信とメッセージがあった。
『ロシェ、今どこだ?』
『メールか電話しろ』
二十分ぐらい前にそう入ってて、焦って送り返そうとした。しかしちょうど、少なかった充電が切れてしまった。
まずい。連絡しなきゃいけないのに。
でももうすぐバスが来るから、なんとか堪えよう。
荷物を抱えて、僕は焦る気持ちを抑えていた。だが、そんな時、またあの車の人がやって来た。今度は近くに車を寄せてきて、窓から顔を出す。
「なあ、乗りなよ、送ってってあげるからさ」
「……いえっ、大丈夫です、すみませんっ」
怖くなった僕は、車イスのレバーを握り、何も考えずに走り出した。雨が降る中、制止する声を振り切って、でこぼこの歩道をなりふり構わず進んでいく。
自分は男だし、僕の勘違いかもしれないけれど、とにかく恐怖に包まれてしまい、その場から離れようと無我夢中だった。
その時だった。車が余計に近寄ってきて、横に振り向こうとした瞬間。
反対車線から雨の音をかき消すような、大きな声が響いた。
「おい、ロシェ! 何やってるんだ!」
顔を上げると、黒いバンの窓から顔を出した父が、僕を見つけて怒鳴り声をあげていた。驚いた僕はその場に急停止して、僕をつけてきた男の人の車は、父を見たあとすぐにスピードを出して走り去った。
ほっとしながらも、雨に濡れたまま、遠回りをして僕の元に走ってくる父の車を呆然と目で追った。
歩道のすぐそばに停めて、運転席のドアが乱暴に開く。すごい形相で走り寄ってきたのは、眼鏡をかけた背の高い父だった。
「怪我はないか、大丈夫かロシェ! さっきの車は何だーー」
「お、お父さん、なんで……運転しちゃだめだよ、まだ手が治ってないのに」
僕が見上げて視線を移すと、父は眉を吊り上げ一瞬にしてカッとなった。
「馬鹿野郎ッ!!どれだけ心配したと思ってるんだ、何をしてたんだこんなところでッ!」
雷が落ちて、何年かぶりに激怒された僕は、開いた口が震えてしまった。
そうだ、僕が全面的に悪い。こんなところで本当に、何をしてたんだろう、一人で。
「ごめんなさい、お父さん……ごめん……」
さっきの恐怖から解放されたことと父の怒りに触れ、僕は情けなくも涙が出てしまった。また心配と迷惑をかけて、やっぱり自分はだめだと思った。
「帰るぞ、風邪を引く」
静かに告げる父に抱き抱えられて、僕は後部座席に乗せられた。
手首だってまだ治ってないのに、運転もしてるし、連絡が出来てないのに来てくれたということは、きっとバスの沿線にそって僕を探し回ってくれたのだろう。
僕はプレゼントの紙袋を抱えながら、子供のように涙をこぼし、「ごめんなさい」と謝り続けた。
「ほら、飲め。体が冷えただろう」
家に到着し、有無を言わさず居間に運ばれた僕は、ソファに座っていた。暖かいブランケットを巻かれて、目の前にホットミルクを差し出される。
まだ顔があまり見れずに黙って口に含んでいると、父が隣に腰を下ろした。僕はまた怒られると思ってびくびくしたけれど、突然父が肩を抱え、体を自分のほうに抱き寄せてきた。
見上げると、まだむすっとしている父と目が合う。でもそのあとはきつくハグをされた。
「……ごめんなさい、お父さん……」
「いいよ、もう謝るな。怒鳴って悪かった」
頭を撫でられて、心配だったんだと呟かれた。その言葉に全部が集約されていることは分かっていた。
父に行動の理由を尋ねられ、僕は正直に一人で買い物がしたかったと告げた。贈り物のことは言っていない。やっぱりまだ秘密にしておきたかった。
まだ胸がずきずきしたけど、連絡せずに父を心配させたことは本当に悪いと思っていて、何度も謝り、来てくれたことにありがとうと伝えた。近くにいた車のことも正直に話したら、父はさらに卒倒していた。
「でも、僕の勘違いかもしれないし、分からないんだけど」
「そんなことは関係ない、お前に危険が及んでいたら、本当に、俺はーー」
父が手を握りしめる。まだ治ってない手首が気になり、自分が招いたことを後悔する。
「ロシェ。頼む。お前に何かあったら、俺はどうしようもない。わかってくれ、お前にとっては過剰に聞こえるかもしれないが、頼むから、危ないことはするな」
それはいつもの毅然とした父の様子からは遠いとこにある姿で、まるで僕にすがりつくような眼差しだった。親から子への感情以上のものを感じとり、すぐに言葉が出ないでいた僕の手が、力をこめて握られる。
「怖いんだ。お前がいなくなったら……そう考えるだけで、俺は怖くなる」
静かに吐き出された台詞には、父が普段見せることのない強い不安が表れていた。
「お父さん……僕……」
「いや、すまん。忘れてくれ。……駄目だな、俺は、……たぶん今弱気になってるんだ」
頭を振り、眼鏡を外して瞼をこする父を見つめる。
胸が苦しい。こんな風に心が痛むのは、お父さんだけ。僕の大切な、一番に愛している父だけだと感じた。
「僕……僕はお父さん一人にしないから大丈夫だよ。お母さんみたいにいなくなったりしないよ」
その時、自然と思ったことが出てしまった。でも、お母さんとはっきり口にしたことに、自分でも傷つき、言葉に詰まった。
「どうしてミーリアが出てくるんだ」
動揺したのは父も同じで、でもどこか僕の台詞が突拍子のないことみたいに、愕然とした顔つきをしている。
僕にとっては、片隅にいつもあったことだった。父がこんなに僕を心配するのは、母みたいに置いていってしまうことを恐れてるのではと。
二人は愛し合う夫婦だったから。
心が弱くなったときに、すぐに母のことを考えてしまうのは、僕の癖だった。表に出すことはしばらくなかったけど、今日はとうとう言ってしまった。
「違う。俺は……あいつへの思いは、胸の中にしまってある。もう、取り出すことはないんだ」
けれど父は落ち着いて、淡々と僕に告げた。
「薄情だと思うだろう? お前の母親なのにな。……許してくれ、ロシェ……」
顔を上げて見つめられ、何も言えずに抱き締められる。
「俺はお前を愛してるんだ。ミーリアよりもだ。もう、お前しか、見えないんだよ……」
絞り出された声に、後悔は映し出されていなかった。
父は、僕を腕に抱いて一瞬だけ苦しげな表情を浮かべたが、二人の漂っていた感情を、一つの口づけで繋ぎとめ、あつい熱を交じり合わせた。
その日は、夜眠りに落ちるまで父に離されることはなかった。
何度も降るキスに、きつく僕を抱く手。
晒された肌の下でシーツは波打ち、不完全な行為でも僕らは満たされた。
父はうわ言のように僕を愛しているといい、返事を言う隙も与えずに深い口づけを施した。
僕はずっと父の一番になりたかった。
口では綺麗事を言っても、母よりも、誰よりも、父に愛してほしかった。
だから僕は、本当は、喜びにうち震えていた。たとえ許されなくとも。
父の言葉を思いを、全身で享受していた。
そんな夜に、僕は母の夢を見た。
ずっと会いたかったのに、会ってはいけない、会う資格などないと思っていた母に、夢の中でようやく触れることが出来た。
真っ暗で何もない空間に、父と母が遠くの対角線上に立っている。
僕は今よりも小さくて、事故の当時の年頃で、両手足が戻っていた。
両親の姿を見つけたあと、僕は母に向かって駆け出した。手足を動かして走るごとに、涙があふれ出ていく。
「お母さん!」
駆け寄って、腰に抱きついた。母は僕を抱き締めてくれたけど、すぐにこう言った。
「こっちに来たらだめだよ、お父さんのところに行って」
優しい声が頭上から響き、僕は夢の中で首を振って見上げた。
「お母さん、ごめんなさい、僕、お父さんのことが好きになっちゃったの。お父さんはお母さんのものなのに、ごめんね、ごめんなさい」
小さい僕は泣きながら謝っていた。ずっと言いたかったこと、会って言わなきゃいけなかったことを伝える。
「泣かないで、ロシェ。大好きだよ」
母はなつかしい笑みを浮かべて、僕の頭を撫でた。
「お父さんもお母さんも、ロシェが一番大切なんだよ。いつまでも、幸せでいてほしいの。ずっとずっと、宝物だからね」
見上げたままの顔をあやすように触れ、切ない瞳を細める。
そこにいたのは僕の知っている温かな母の姿だった。
「デイルにはロシェが必要なの。だから、お父さんにうんと甘えなさい」
そう言われて、涙が止まらずにあふれ出した。手の甲で一生懸命拭ってしゃくりあげても追い付かない。
そんな僕の前でしゃがみこみ、母は僕の手を両手でぎゅっと握り「幸せになってね、ロシェ」と笑いかける。
「……僕、僕、お父さんを幸せにするね。ーーだから、お母さん、」
顔を上げたら、母が笑って頷く。
すると僕は手を離される。もう行きなさいって促されて、振り返りながら、真っ暗闇の中で父のもとに駆け出す。
父の表情は見えない。でも差し出された父の手。
僕はやっとその手を掴んで、力強く握った。
「ロシェ、ーーおい、ロシェ!」
よく通る声に気づき目を開けた。起きた後は目尻も頬も濡れていた。
「大丈夫か、どうして泣いてるんだ、夢見てたのか」
ベッドの隣で僕を見下ろし、眉を寄せて心配そうに問われる。やっぱり夢だったと知り、僕は広い胸に抱きついて泣きじゃくった。
父は何も言わず後ろ髪を撫でて、抱き締めてくれた。
都合のいい夢だって分かってる。でも、涙が止まらなかった。
「僕ね、お母さんに言ったの。お父さんのこと好きでごめんなさいって。でも僕のこと宝物だって、幸せになってねって、言ってくれたんだ。だから僕、お父さんのこと幸せにする。お母さんにそう約束したよ」
声が震えながら伝えたかったことを口にする。
見つめ合う父は唇を微かにわななかせ、瞳を赤く潤ませた。
その頬に静かな涙が流れる。
それから僕の体は人一倍大きな力で抱きすくめられたのだった。
「……俺もお前を幸せにする。誓うよ、ロシェ。絶対だ」
その夜、ベッドの中で父に言われたことを、僕は忘れない。
本当にこれでいいのかな、間違ってないのかな、そう思ったことは二人とも数えきれないほどあっただろう。
でも、それでも、僕と父は互いの幸せを誓い合ったのだ。何が起こっても、ずっと一緒なんだって、約束をしたから。
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