もしもクロードが職場の先輩だったら
2016/08/23 11:37
「わ…私の事は気にしなくていいですからっ!!」
開口一番そう言って逃げるように走り去っていたお前を……俺が気にしないとでも?
春らしからぬ冷え込みが到来すると天気予報が伝えていた週末のこと。
「ううっ、寒い〜っ!」
冷え切った指先に息を吹き掛けながらやって来たバスターミナル。
土日なんてお構いなしな仕事のため、いつもより乗客の少ない時間帯、そこでひとりバスを待つ。
「今日も帰り…遅くなっちゃうのかなあ」
おまけに勤務時間もシフトもバラバラで『定時』なんてものが全くない業種、それは就職した時からある程度覚悟していたからもう慣れはしたものの、最近はそんな事より心にのしかかる懸案事項があって、それが気を重くする大きな要因。
「遅いのはいいけど……今日のシフト表見てくるの忘れちゃったんだよね」
『はあ』と口をつくのは真っ白な息とは裏腹にどんよりと暗く重たいため息で。
彼女にそんなため息をつかせるのは……先月から配置換えで一緒の部署で勤務する事になった苦手な『先輩』の存在。
「どうも苦手なんだよね……クロードさんって」
何故か顔を合わせたら小言を言われ、嫌味を言われ、挙句の果てに『全く……』という捨て台詞を吐かれ『使えない』と言われたも同然の対応ばかりが続くここ数日。
(絶対、絶対、ぜった───い!!あの人私のこと嫌いなんだっ!!)
そう考えたらやって来たバスに乗り込む足取りも重たくて堪らない。
しかし…仮病やずる休みなんて出来るような器用さも持ち合わせていないために、行きたくない心とは別に身体は職場へと素直に向かってしまうのが彼女のいいところでもあって。
(今日……クロードさんお休みでありますように…休みじゃなくてもせめて勤務の時間帯ずれてますように…)
僅かな望みを胸に抱きながら到着した目的地、ステップに足を下ろしてその願いは脆くも崩れ去る。
「あ……」
そうして視界に入って来たのは思いっきり見覚えのある背高の黒服姿であり、それはそれは見事に制服を着こなした彼女の先輩であるクロード。
大きめのタブレット端末を見ながら形のよい顎先に添えられた綺麗な指先、それは嫌味な位似合っていて正直『見る分』としては全くもっていい目の保養だ。
確かに…職場の女子社員が黄色い声で騒いでいるのも分からなくはない。
その場に佇むクロードは本当に『絵になる』のだ。
(見るだけ……ならいいんだけどね)
一生懸命に画面を見ながら何やら操作をしているのをいいことに、クロードに軽く頭を下げて彼よりかなり離れた場所を通り過ぎようとしていた矢先。
「おい」
「ぎゃっ!!」
不意に声を掛けられ、見つかった!とばかりに思わず出てしまった心の声。
「ぎゃ…?朝から随分な挨拶だな」
訝しげに自分を見つめるブルーグレーの瞳にときめくどころか彼女の気分は『ヘビに睨まれたカエル』だ。
「あ…す、すみません。おはようございますっ、その…し、失礼しますっ!!」
挨拶もそこそこにその場から走り去る。
「あ…おいっ!」
何だかよく分からない台詞に眉根を寄せたが、気が付けば彼女の姿は既にそこには跡型も無くなっていて。
「……はあっ、はあ」
普段は使用している従業員用のエレベーターも使わずに必死に駆けのぼる通用口傍の階段、息つく事無く一気に上がって来たのはロッカールームのある4階。
(もう……今日は朝から最悪っ!)
勤務中以外は(どちらかというと勤務中も)出来る限り、敢えてクロードに近付かないように顔を合わせないように避けて避けてやり過ごしていたのに、出勤早々出くわすというのは不運以外の何物でもない。
『最悪』を全身で表現したかのように肩を落とし、呼吸を整えながらとぼとぼと歩く彼女の背後から今度はポンと肩を叩く人影。
「ぎゃあっ!!」
本日2回目の雄叫び。
「うわあっ!」
今度は逆に似たようなリアクションが返って来た。
「え…?あ、ご…ごめん。リューク」
「…たく、何だよいきなり。人が挨拶しようとしてただけなのに」
そこには聊か不機嫌そうに彼女を見遣る同僚のリューク。
「ごめん……その…ちょっと、朝からトラブルがあって……」
「トラブルって…またクロードさんかよ」
「う…うん」
年が近い事もあって同僚のリュークには事あるごとにクロードの愚痴を聞いて貰っていて、彼女が気を許している数少ない人間の一人だ。
「確かに厳しいけど、あの人言ってる事は正論だもんな。お前……何か怒らせるような事言ったんじゃないのか?」
そんなリュークの台詞に全身の力を振り絞って『ぶんぶん』と首を左右に振る。
「とんでもない!何も言われないように極力近付かないようにしてるんだから!!ミーティングの時だって隅っこで見つからないように大人しくしてるのに……」
それなのに……と不服そうに唇を尖らせていると、頭の上に感じるリュークの掌の感触。
「まあ…素直に謝っとけば向こうもそんなに怒る事だってないだろ?お前だけだもんな、あの人の事あまりよく言わないのってさ。他の女子社員なんてもう諸手を上げて『クロードさ〜ん!』って感じなのに」
「だって……」
あの人の何処をどう取ったら『素敵!!』になるのか本当に教えてもらたいものだ、と大きくため息をつく。
「分かった分かった、また何かあれば愚痴でも何でも聞くからさ。頑張れよ、じゃあな」
廊下の端からリュークを呼ぶ声が聞こえ、『はーい』という返事と共に同僚は颯爽とその場を立ち去って行く。
「……頑張ろ」
そんな後ろ姿を見つめながら、ぽつりと呟きロッカールームの扉を開けた。
◇◇◇◇◇
(さ…最悪っ!!)
そうして今日のミーティングで言い渡された一言に奈落の底へ突き落されたような気分になっていた。
『お前は今日はクロードと一緒にイベントの対応な』
当然ながら上司の鶴の一声に抗える様な立場では無い、社会とは組織とはそういうものだ。
「………はい」
消え入りそうな声で彼女はどうにか返事だけは返した。
顔で笑って心で泣いて……働くって厳しい。涙。
それなのに他の同僚からは『クロードさんと一緒なんていいな〜、羨ましい!』なんて羨望の眼差しで言われたら『それなら変わってくれ!!』と何度喉の奥まで出掛かったことか。
「はあ……」
今日のイベントの資材が入った段ボールを持ちながら今日何度目か分からないため息をつく。
(今日は……何も言われないように大人しくしとこ…)
重い足取りで何とか到着するイベント会場の大広間。
中に入るためにドアノブに手を掛けようと段ボール箱を持ち直した途端、いきなり開く目の前の重厚な扉。
「え?わわっ…!ぶっ!!」
そうして見事に『ゴツッ』という音がしたかと思うと、あまりの痛さと衝撃に手にしていた箱を落としてしまった。
「いったあ……あ!」
思わず抑えるぶつけた額、そんな彼女の視界に映るのは今日のバディである今一番会いたくない人物……。
(うわ……)
「大丈夫ですかっ!?お怪我はありませんでし……え?」
相手が自分だと分かると途端に目の前のクロードの表情が変わったように見えたのは気のせいではなかった筈。
「は…はい。私の方こそボーっとしててすみませんでした!」
本来今回の加害者は間違いなくクロードの方なのだが、もう彼を前にすると考えるより先に身体が謝るように出来てしまっていて、慌ててしゃがむと床に散らばった今日の資料や道具を拾い始める。
「いや…謝るのは俺の方だ。怪我は?何処かぶつけただろう?」
「え……?」
一瞬空耳かと思った。
それは顔を合わせたら自分に対して小言しか言わないクロードの口から発せられたのが、謝罪の言葉だったからだ。
「見事にいい音が聞こえたからな、何処をぶつけたんだ?それとも手でも挟んだか?」
しかも心配そうに自分を見つめる彼の綺麗なブルーグレーの瞳に不覚にもどきりとしてしまった。
「あ…その……おでこを」
そう言って前髪を掻き上げて少し赤くなっているであろう額を見せる。
「おでこ……?」
「はい…」
それ以上クロードと目を合わせる事も出来ず、思わず視線を逸らす。
すると…。
「……?」
何処から見ても笑いを堪えているようにしか見えないクロードに。
「あの…クロード…さん?」
それでも口元を押さえて肩を震わすクロードを訝しげに見つめる。
「いや……その…悪い、おでこ……っ」
「え?ちょ…一体何がそんなにおかしいんですか!?」
笑われている理由が分からずに何故だか恥ずかしくなって気が付けば真っ赤になっている顔。
「クロードさんっ!?」
「は…鼻より先に額をぶつけるなんて……」
そう言って何とか声を絞り出したものの、それでもまだおかしくて堪らないと言った表情のクロード。
「へ?…あっ!」
要は……額より低い鼻の事を笑っている訳で、今度は理由が分かると羞恥でますます赤くなる頬。
「わ…悪かったですねっ!!どうせ低い鼻ですよ!」
そこまで笑わなくても…と目の前のクロードを睨みつけるが、ふと気付く。
(あ……)
そんなクロードの瞳が本当に優しげに自分に向けられているのだ。
いつも厳しく睨み付けられ、不機嫌としか取れないような瞳でしか見られた事の無い彼女にとっては微笑むクロードなんてのは、もう信じられなくて……。
(知らなかった。クロードさんって、こんな表情するんだ……)
それは、ただ単に彼女が苦手対象のクロードを『いつも怒ってる』というフィルタを通してしか見ていなかったからでしかないのだが。
「…やっと、いつものお前に会えたな」
「え……?」
クロードの言葉の意図が分からずに、『?』と不思議そうに小首を傾げる。
「俺が今の部署に来る前、お前はいつももっと明るくて楽しそうに働いてるように見えたんだが……思い違いではなかったな、いや」
「クロード…さん?」
「その笑顔を奪ったのは……俺が原因か…?」
そう言って苦笑交じりに見つめる瞳、次いで彼女の頬に向けてスッと伸ばされるクロードの長くて綺麗な指。
(え……)
そんな思い掛けない目の前の先輩の仕草に何故かトクン、と高鳴る胸の鼓動。
「あいたっ!!」
頬に触れるかと思ったその瞬間、クロードの長い指は目的を大きく逸れて『ピンッ』と彼女の額を弾いた。
「い…痛いじゃないですかっ!!」
「全く……隙だらけだな」
「な…!す…隙って何ですか!?隙って?」
再び痛みがぶり返す額を両手で押さえて抗議する。
「ほら、早くしないと間に合わないぞ」
「え…?あ、ああっ!?もうこんな時間っ!!クロードさん、早く持場確認して来て下さいよっ!」
腕時計の針を確認すると慌てて逆算する本番までの時間に今から『やらなくてはいけない事』と『やっておいた方がいい事』を瞬時に頭の中で整理する。
「もう終わってある。後はお前の分だけだ」
「嘘……早っ」
「ほら……手伝ってやるから行くぞ」
「え……?」
目の前に差し出される掌に驚いて、思わずその手とクロードの顔を交互に見遣る。
「そんなに驚く事か?……それから言っておくが、俺は仕事の出来ない人間には何も言わない」
「……?」
「厳しく当たられるのはそれだけ期待されてると思っていい……行くぞ」
そう言って踵を返して廊下を急ぐ彼の頬が少し赤かったように見えたのは気のせいだったかもしれないけれど。
「……はい!」
明日からは……ここで働くのが少しだけど楽しみになったような気がします……────。
「おいっ!!早くしろ!」
「は……はいっ!!」
そんな……春も近いある日の出来事────。
初出2012.3.25
『クロードが職場の先輩だったら楽しいのに…』というリクエストから生まれた盛大な妄想ネタ。
リクエストで敢えてクロードの口調は敬語では無く上から目線の先輩として書いてます。
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