○ 実験室には硫黄臭

 旧校舎の一階に理科実験室はあります。


 私達はたいそうお行儀悪く上履きのまま中庭のレンガを踏み越えて、新校舎から旧校舎への大幅ショートカットを果たしました。

 中庭側窓、暗幕カーテンの隙間から実験室が覗き込めました。大方の引越し準備をすでに終えておられ、取るもの取りつくされ廃墟かお化け屋敷の様相です。防燃の四人がけの実験机に逆立ちした木椅子が並び、教室後ろ棚では置いてけぼりをくらったカエルにフナに謎の生き物がホルマリンを満たしたビンの中、シンとしています。

 ところで、サイタマ先輩とジェノス先輩の常ですが、私への説明が圧倒的に不足しています。
 本日の正義活動がなんなのか、部長の私ですがさっぱり存じ上げません。お恥ずかしい。
 それでものこのこついていきます。わからないからこそ、私にあるのは恐れと期待、好奇心、全てが合わさった無限大のわくわくでした。

 連絡廊下を渡り旧校舎へ。新校舎に遮断されて採光が悪くなった窓から光は入らず、廊下奥の暗闇から「アメンボアカイナ」が反響しています。

 理科実験室はすでに名札を失っていました。

 アルミの引き戸、サイタマ先輩は物見窓から中を確認するなどといったしゃらくさい真似はしません。すっぱーんと中へ入っていきます。サイタマ先輩ジェノス先輩私の隊列は乱れることなく実験室へ吸い込まれ、

「う、入った直後から異臭です。帰りたい」
「うげくせっ、なんか実験失敗したのかここ!?」
「水晶振動子に付着したにおい物質の検索確認……結果が出ました。亜硫酸ガス、濃度は1.15ppmです」
「ガス漏れ!?」

 それはまずいです! 逃げなければ!

「いえ、言い換えれば二酸化硫黄ですね。つまり硫黄臭です」


 なるほど腐ったにおいです。……ふふふ、これはとても、とてもわくわくしますね! ハンカチを鼻に当てて中へお邪魔します。

 まだ放課後が始まって間もないこのお時間です。室内の採光は決して悪いわけではありませんが、サイタマ先輩やジェノス先輩は壁際と中心にあちこちに目線を走らせます。何かを探すそぶりです。

 教室の一番奥、理科実験準備室に続く扉の前へ。やはりありました。扉の真横に室内灯スイッチ、全てオンにします。

 どこか元気のない蛍光灯が次々点灯していきます。場所によっては寿命目前で明滅していますが、取り替えられることなく取り壊しに移行されるのかと思うと切ない気持ちになります。


「ところで、お二人とも何を探していらっしゃるんです?」
「人体模型」
「見当たりませんね」
「どこにあるんだろうな」
「……机の下にあるんでしょうか?」

 ジェノス先輩は這いつくばっていらっしゃいますが。

「わからん」


 さようですか。
 お手伝いしようと踏み出した上履きの下、じゃりりと何かを踏みました。
 実験室へ続く扉に向かって黒い粉が落ちています。砂でしょうか。スカートを膝裏にたくし込みながらしゃがみ、


「これは……コーヒー? コーヒーの粉です」指にくっつけてみました。「お湯をかける前の物ですね、乾いてさらさらです」


 机の下でツチノコになっていたジェノス先輩が立ち上がり、機械の手のひらでばしばし制服を払いながらこちらへ来て下しました。
 黒い布地に埃はとても目立ちます、タイも曲がっていらっしゃいましたので、僭越ながら直させていただきます。きゅっと。


「コガラシ」
「はい」
「恥ずかしい」
「あ、すみません」


 鉄面皮で言われました。いえ、そのまま、表情の意味で鉄面皮です。ジェノス先輩のお顔は鉄ではなくシリコンゴムかと思われますだってちょっとふにりとしていらっしゃいましたから。

 サイタマ先輩が準備室のまわしノブへ手をかけられました。

「あれ」

 首をひねります。薬剤やらオイルランプやらがたくさん置かれる準備室、鍵はかかっていて当然です。

 サイタマ先輩はなにも迷いません。
 ぐーをふりかぶります。

 壊す気だ!! 私はとっさにその腕へ取り縋りました。


「だっ! 駄目です駄目です!! 今日の活動は理科室の破壊ですか!?」
「いや理科室に出る踊る人体模型のゾンビの調査」
「要素が多すぎませんかそれ!?」


 噂なら聞いたことがありました。
 花園高校ただ一人の人体模型、誰が名づけたのかケイちゃんと呼ばれる彼女は一人になると退屈をもてあまし踊るのだそうです。私も一人独自調査の経験があります。しかしゾンビ! 初耳です! ときめく噂ではあります、ありますが!


「これヒーローの活動じゃありませんよね!? どちらかといえば霊能力者です!!」
「似たようなもんだろ作者同じだし」
「お控えください口が過ぎますよ!」
「サイタマ先輩、コガラシはビビっているんです」
「う……」


 図星をつかれました。


「もし本物のゾンビが現れたら。理科準備室が異次元の扉を開いており未曾有のバイオハザードの温床になっていて低予算制作映画のヒロインよろしく全裸で殺されるのを恐れているんでしょう」
「すごいですね。ゾンビが現れ、までしか考えていませんでした」
「じゃー大丈夫だ。行くか」
「ちょっと待ってくださいよう! 相手が相手ですよ!? 噛まれたらバイキンが入って肌がただれ落ちて髪も全部抜けてしまってうーうーうなりながら校舎を永久に徘徊することになるかもしれません。ほんとにゾンビが出たらどうしようと言うんですか!」
「殴り殺す」
「物理! サイタマ先輩は強いですしもう抜ける髪がないからリスクが低いでしょうけどだからって!」
「……」
「止まってください先輩。その拳はなんですか」
「…………」
「あっいやです無言でゆっくり近づいてくるのゾンビ映画みたいです本当にイヤです! やっ、いやあ――――!!」


 あわやぶん殴られるその直前でした。
 鍵が閉まっていた理科実験準備室が、戸が、静かに、細く、開きます。
 その隙間。
 誰かが覗き込む、真赤な目が。

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