見舞いの品々を小脇にイアイは院内をしらみつぶしに歩いた。昨日は売店で雑誌を選んでいたし一昨日は知り合いでもないじいさんの将棋に付き合ってけちょんけちょんにされていた。あれはちょっとひどかった。
会いに来る度りんこはどこぞかへとふらふら動き回っている。まったく、正気か。
マイナス25℃、業務用冷凍庫をさらに下回った室内に着の身着ままどころか着ていた服を脱いで閉じこめられて小一時間だ。
つま先の壊死よりも早く心臓冷凍されるところだったくせに、どこをほっつき歩いているのか。
「助けて!」
と。
イアイアンの呼びかけに扉の向こうから返事があった。社会科見学でヒーロー協会Z市支部へ訪れていた小学生の一人が、夏期凍りの襲撃中に行方不明になっていたのだ。
くぐもってはいるのが気になるが元気な声で、イアイアンはひとまず安堵する。
「待ってろ、すぐに」
「早く! 助けて!」
やたら焦っているのは仕方がないことだと思う。避難に遅れてパニック寸前なのかもしれない。
自動のはずの扉は磁気ロックがいかれていた。ガラスカバーを叩き割って非常用レバーを倒す。が、イアイアンの腕力を持ってしても手動では開かないくらいがっちんがちんに凍っていた。直前までは夏だったから、じめついていた湿度が氷になったのだ。
特に迷いもなく、腰を落として抜刀する。崩した扉の破片を蹴散らして、
「もうだいじょう」
ぶが出なかった。
小学生、といわれていた。男児と。声だって確かにそうだった。
壁も床も棚の資料も凍てつき天井からは小さな氷柱がぶら下がる。白に濁った資料室に、人影はたったのひとつ。
下着とハイヒール姿でしゃがみ込んだ腹に何かを抱えて、うつむいてじっとしている女性の姿だった。
怪人の、新手か。
イアイアンがそう睨んだのも無理はない。寒いなんて言葉じゃ表せない気温の中で半裸で身を震わせてさえいないその姿だ。白すぎる肌が雪女系の怪人かと疑わせた。
抜いた刀を鞘に戻す。
下手な動きを見せれば即座に必殺の居合いを浴びせられる、ゆだんない構えだった。
下手に動いた。
女が顔をあげた。体にむち打って重たい物を持ち上げるようなよろめきかた、痙攣するように震える膝が一度折れたのはヒールでバランスを崩したからだ。それでも懸命に立ち上がる。イアイアンに向かって歩を踏み出す。
イアイアンの一斬が半裸の女をまっぷたつにしなかったのは、抵抗したからでも逃げたからでもない。
抱えていたのは黒と白の布だった。
イアイアンをとらえた目には確かな安堵の色があって、ほっぺたが真っ赤なのはかいたべそが凍って炎症をおこしていた。酩酊しているようなうつろな目をようやく訪れた救援へ向け、抱えたものを託そうとしていていた。
黒白ツートンカラーはヒーロー協会女性職員の制服。
に、ぐるぐるに包まれた、行方不明の男子児童。
あわてて受け取ったイアイアンに、安心しきった顔つきでへらっと笑う。瞬間、ヒューズが焼ききれるように張りつめていたものが飛んだ。もうそこから先へ意識をつなぎ止めることができなかった。
ひざから折れた。
固いもの同士がぶつかる音を立てて、たっぷり霜が張って薄く雪でもつもったように白い床へ倒れる。
伏した体から白い息が浅く薄く立ち上る。尋常じゃない呼吸ペースだった。
死への一本道を容赦なくひた走る異常な呼吸が体を揺らす。もはや寒いとは思っていない。身を丸めることもできないしわずかな体温をさらに搾り取る床から身を起こすこともできない。氷点下の気温でほとんど裸のくせに震えはなかった。
イアイアンが抱き上げていた男児が泣き声で言う。「は、はやくたすけてあげて」
当たり前だ。
男児を背中に移動させて下着姿の女を横抱きにする。上下黒でしかも紐で、大人しそうな容姿からはちょっと想像つかないような下着をつけていて、しかしイアイアンに恥ずかしがる暇なんて無い。
「誰か!」
りんこの命は冷凍されつつあった。イアイアンが指で触れた肌が、ぞっとするほどに冷たい。
「カマ! ドリル!」
かけだしてすぐに自発呼吸の停止した一瞬を思い返せば今だってたまらない気持ちになる。病棟をまたいでぷんぷん怒りながら闊歩するイアイアンは、救急搬送されるりんこの血の気ない顔を思い出してしまう。本当に、死ぬんじゃないかと。
だというのに、りんこはイアイアンの心配などどどこ吹く風だ。
待合室の窓際で退屈そうに雑誌を立ち読みする姿をようやく見つけた。ふと窓から外を見て、なにかを待っているような顔をする。雑誌にまた目を落とそうとしたところでため息混じりに近づくイアイアンに気づいた。
「あ……こんにちは」
日差しに産毛を薄く光らせて、りんこは、なんでだか少し困ったような笑う。
その表情がどうしたって倒れる一瞬前の表情にかぶるので、イアイアンはもう叱る言葉も出てこない。
「うろついていたら治らないんじゃないのか。戻ろう」
「大丈夫ですよ、お尻にでっかいしもやけができたくらいだし、湿布貼れば治りますし」
事態を軽く見ているりんこにため息がでる。
今や残っているのはしもやけくらいだけれど、確かにあの時わずか数分といえりんこの心臓と呼吸は停止したのだ。なにも大丈夫じゃない。
片手に見舞いの品を満載して片手でりんこの手をとって、強引に、でもゆっくりとした歩みで引っ張っていく。
もの言いたげな顔をしたりんこは、それでも黙ってついていく。