本田有紀×鈴科静


本田有紀という男は冷静で紳士的で聡明で、人の心を読めるのではないかというほどに聡い。鈴科のような、仏頂面で愛想の欠片もない男の心情をも見抜いてみせる。
幼少の頃から、鈴科は笑うことすらほとんどない。人形のように表情を変えない男の心を組んでみせて、可愛いなどと言うのは本田くらいのものだ。艶やかな長い黒髪と男にしておくには勿体ないほどの美貌を持つ彼が、整った顔ではあるものの飛び抜けて美形というわけでもない鈴科を可愛いなどと言う。
そう、完璧であるはずの彼の欠陥といえばそれくらいのものだろう。男で、しかも無愛想な鈴科などを好きだと言う。鈴科より彼に相応しい人間などそれこそ掃いて捨てるほどいるはずなのに。
その上鈴科には大きな欠陥がある。――不感症という、どうしようもないものが。


本田は鈴科の表情を超能力者のように正確に読みとってみせたし、気遣いもほぼ完璧に行った。しかしながら鈴科の体質のことについてはさすがに理解が及ばなかったものらしい。自分は不感症であると告げると、彼は心底困惑したように眉を寄せた。
「どうにかならないんですか」
「どうにもならない。何か幼児体験があるわけでもないし、事故に遭ったわけでもない。僕は生まれつきこうなんだ」
悲しそうに眉を寄せた本田の手が頬に触れても、何も感じることができない。触れられているのだ、と視覚では理解できるのに皮膚は何も感じることがない。微かに温度は感じるが、それだけだ。
鈴科静の触覚は生まれつき死んでいて、だからきっとこんな性格になった。無表情で無感動で可愛げのない、つまらない人間だ。これまではそれで不都合は無かったはずなのに、何の因果か鈴科などを好きになってくれた本田にはすまないと思う。恋仲になっても応えてやれない鈴科を好くだなんて、あまりに虚しい事だ。鈴科がいくら彼を好きでいても、体がこれでは意味がない。彼が他の人間を愛するのはとても厭ではあるが、鈴科が彼に相応しくないのは確かだ。
「やはり、僕と付き合うのはやめておいた方がいい。君にはもっと相応しい人間が、」
呟くように告げた言葉は途中で途切れた。本田が鈴科の体を抱き締めたからだ。触れた場所がじんわりと暖かい。布が擦れた音がした。
「…僕は、君が好きなんです。ずっと君の側にいたい」
「僕も君が好きだよ。けれど、君のような人が僕を選ぶなんて勿体ないじゃないか」
静、と耳元で名を呼ばれてどきりとした。さらりと長い髪が肩口に触れる。壊れ物に触れるような抱き締め方だと思った。鈴科は細身ではあるが確かに男の体つきをしているというのに、彼はいつも鈴科に優しく触れた。
「好きですよ。他の人間が石ころに見えるくらいに、君が好きです」
「…君は、思っていたよりずっと我が儘で酷い男だな」
誰にでも優しくて好かれる本田有紀らしからぬ台詞だ。どんな人間にも分け隔て無く優しい笑顔を呉れてやるくせに、鈴科にだけは驚くほどに執着を示してみせる。我が儘で自己中心的で独占欲の強い男の顔を、彼は鈴科の前では簡単に晒して見せた。
「ええ。俺は、我が儘で粘着質なんですよ。静にだけは」
本田は目を細めて笑った。大きく心臓の鳴る音がする。
彼が“俺”と言う一人称を使う時は睦言を吐く時だけだ。優しく紳士的な仮面を取り払って、男の顔で鈴科を喰らおうとする。鈴科にだけ与えられるものはこんなにも多い。
(……彼が、僕を愛してくれている)
この男に執着されることに陶然とした。完璧な美貌を持ち優しく聡明な完璧な男が、鈴科にだけは浅ましいまでの執着を見せた。彼にとっては良くないのではないか、と思いながらもこんな風に愛されるのが快感になっている。
不感症とは言うものの、快不快という概念が完全に分からない訳ではない。たとえばこんな風に愛の言葉を掛けられれば、脳に快楽物質が分泌される。愛しているとか好きだとか可愛いとか、そんな言葉を掛けられるたびに仄暗い悦びが全身を駆けるのだ。
「有紀」
大事そうに自分を抱き締める男の名を呼んだ。彼を名で呼べるのは自分だけなのだ、とそんな事にすら独占欲を煽られる。こんな自分は知らなかった。彼がそうさせたのだ。何も知らなかった時よりずっと、浅ましく醜くなっていく事すらも快感に思うようになってしまった。
「なんだい、静」
優しく促すような言葉に、躊躇いがちに口を開いた。
「…もっと、言ってくれないか」
何を、とまでは言わなかったが、暫し瞠目した男は嬉しそうに微笑む。頬が優しく撫でられ、じわりと暖かいものが広がっていく。
「可愛いですね、静。君は本当に可愛いです。性格も、容姿もすべて愛しい」
「…っ」
吐息と共に耳朶に彼の言葉が注ぎ込まれると、役に立たない皮膚の代わりに言語野が快感を覚えて、酩酊したような気分になった。清潔なワイシャツを着込んだ背にそろそろと腕を回すと彼の顔が肩口に埋められて、抱き留める力が増したのが分かった。
「愛しています。君をどこかに閉じこめて、僕だけのものにしてしまいたい」
「有紀、」
「他の人間に君が見られていると思うだけで嫌なんですよ、俺は。俺の姿だけを見て、俺の声だけを聞いてほしい」
心臓が割れ鐘のように鳴り響く。愛されて執着されて縛られるのがなんとも言えず心地よかった。彼に閉じ込められて二人だけで生きるなら、それでもいいと感じている。
「…有紀、僕は、君のものだよ」
本田に言われるまでもなく、頭の先から爪先まで、全身の細胞が彼と共にいたいと願っている。常には白い頬をほんのりと染め、うっとりと彼の胸に体重を預けた。美しい黒髪に指を絡めるようにすると、髪に優しく唇が落とされる。彼の匂いが鼻腔を擽る。清潔な、どこか甘美な。
抱き合いながら愛の言葉を告げるだけの行為に、けれど鈴科は脳髄がとろけそうなほどの快楽を感じていた。


異変が訪れたのは、その行為が続いてから暫くした頃だった。
いつものように彼の手が鈴科の体に触れたとき、未知の感覚を覚えた。困惑するうちに柔らかな手つきで抱き寄せられて、その感覚が倍増するのが分かった。
「…鈴科くん?どうかしましたか」
余所行きの言葉で心配されて、慌てて首を振る。厭な感じではない、と思う。何せ触れているのが鈴科が一番愛しく思っている人なのだから。そう考えながら大人しく彼の腕の中に収まると、優しく背を撫でられた。
「静、好きですよ」
「……っ!?」
その途端訪れた感覚に目を見開く。皮膚が粟立つ、というのだろうか。書物でしか見たことのなかった感覚が鈴科を襲う。
(なんだ、なんだこれは、)
小刻みに震えそうになる体を強ばらせて、異変を押し殺そうとする。と、また耳に愛を囁かれてぐらりと視界が揺れた。
「有紀、変だ、」
「静?」
困惑しきった瞳で彼を見つめると、本田は美しい顔に心配の色を浮かべていた。彼にこれほど心配をかけるなんて、と自己嫌悪がふつふつと沸く。けれどそれだけ動揺したのだ。死んでいる筈の皮膚にじわじわとした妙な感覚を覚えた。これは、いったい何だと言うのか。
「……静、これ、」
鈴科の体を検分していた本田が珍しく動揺した声を上げる。その目線の先を追って鈴科もまた息を飲んだ。これまで何の反応も示さなかったはずの下肢が緩やかに首をもたげていた。
体の違和感ばかり気にしていたが、そうして反応しているのを目にしてしまうともう駄目だった。体の中心が熱くてたまらない。熱を帯びたそれをどうしたら良いのかも分からない。否、知識としては知っている。だが、恋人の前でしかもお互い着衣のままで一人こうなってしまった時の対処法など鈴科に分かろう筈もない。
「有、紀、」
声が震えた。自分の喉から出たとは思えない細い声に愕然とする。自分はいったいどうなってしまったのか。冷静で無感動な筈の頭に白く靄がかかったようになって、思考がばらけていく。
固まる鈴科を、静、と熱い声が呼ぶ。欲望を剥き出しにしたその声を初めて怖いと思った。彼が厭というわけでは無い。ただ、今の鈴科を見られたくはない。
「待っ、待ってくれ、有紀、」
何が起きているのか自分でもよく分からない。けれど、このままでは彼の前でとんでもない醜態を晒してしまうだろうという確信だけはある。もしも彼に侮蔑され、罵られたりしたら自分はどうなってしまうのだろう。彼に嫌われるなどという事態には到底耐えられそうにない。白い頬を羞恥に染め上げて、縋るように彼の顔を見上げた。
「……すみません、それは無理です」
無慈悲な言葉に何故と問う前に、次の言葉が耳に注がれた。
――だって、こんなに可愛い君を離せるわけがないでしょう?
「っ、」
全身の血液が沸騰したようだった。何度も告げられた筈の言葉であるはずなのに、体がこんな風に熱を持つと全く違う感覚が走る。死んでいた筈の感覚が呼び覚まされて、鈴科を狂わせようとしている。男の自分が彼に可愛いと言われることに快感を感じている。
「静、好きです、好き…」
「…っあ、」
耳を食まれながら何度も繰り返される言葉に体が熱くなる。味わったことのない感覚。体から力が抜けて、目の前が変に歪んでいく。勃ちあがったものがもどかしくて足を擦りあわせ、感覚を他にやろうとした。
「可愛い、本当に可愛い…」
「…っ、ん…!」
するりと下着の中に肉の薄い手が差し込まれて、背骨に電流が走る。彼の手が汚れてしまう、そんな場所に触れてはいけない、と思うのに言葉を紡ぐことができない。唇から高く切なげな声が漏れるのが止められない。
「愛してるよ、静」
「あ、ああ…っ!」
今日、最も熱を帯びた彼の言葉が叩き込まれるのと同時に、びくんと体が跳ねた。どろどろと溜まった熱が体の中心から吐き出されて、下着が濡れたのが分かった。爪先がぴんと張って、浮遊感を覚える。腰が砕けて、体から力が抜けた。吐精の疲労感で荒い息を吐きながら、彼の体に身を預けた。
(…嗚呼、)
本田のあの、白く細い美しい指を汚してしまったのだ、とまずそう思った。途方もない罪悪感を感じている間に、本田の紅い舌が指を舐めた。鈴科の精がたっぷりとついた指を。頭を殴られたような感覚が走る。
「駄目、だ、そんなもの、汚い…」
「静のものなら汚くなんてありませんよ。むしろ愛しいくらいです」
だって俺で気持ちよくなってくれたんでしょう、と幸福そうに彼が笑む。ぐらぐらと頭に熱が昇る。そう、本田に抱き締められて、愛を囁かれて射精したのだ。そしてそれを彼の白い喉が嚥下した。そのことにどうしようもなく興奮する自分がいる。変態じみていると自分でも思うけれど、それが本田によって為されたものならば構わない。
「有紀、」
半ば恍惚としながら、白濁が滴る彼の唇に吸い寄せられるように唇を寄せた。瞠目していた彼の目が細められて、舌が差し込まれる。歯列を舐められる感覚。
苦い、と思う。その上自分の出したものなのだ。それなのに、何故こんなに甘美な味がするのか。
「は、ふ、」
唇が触れあううちに頭がぼんやりとしていく。有紀、と呼ぶ自分の声が別人のそれのように耳に届いた。おかしくなっていく。冷静で不感症で無感動だったはずの鈴科静が、彼の手で別のものになろうとしている。恐ろしいほどの快感が脳髄を溶かしていく。いつか、彼に愛を囁かれるだけで絶頂してしまうとびきりの変態になってしまうのかも知れない。自分がどうなろうと、彼が悦んでくれるならなんだっていい。
本田はどこか陶然とした表情でどろどろに濡れた鈴科の内股を撫でた。その瞳に宿るのは欲だ。鈴科を犯そうとする男の欲望。涼やかな顔立ちに似合わないほどの激しい熱。
「君と繋がりたいんだ、静。君のここを暴いて、君の体中に僕を刻みつけたい」
「有紀…」
何故彼はいつも望む台詞をくれるのだろう。彼の瞳に獣のような光が揺らめいて、鈴科を欲情させる。彼が欲しいと言うのなら、この身のすべてを明け渡してしまいたい。男に抱かれたいと思うようになるなんて、想像したことすら無かった。彼の欲望が自分の身体を貫くのを想像しただけで力の抜けていたはずの自身が熱を帯びていく。
嫌なら止めますよ、と囁くのが狡いと思った。鈴科がどんな状態なのか、彼が一番分かっているだろうに。
けれど、そう、いつも言葉をくれるのは彼だった。だからせめて、鈴科も彼に言葉を返すべきだろう。言葉にしないままにしてきた想いが膨らんで破裂してしまう前に。
「…有紀、君が好きだ。君になら何をされたって構わない。…どうか、僕を君だけのものにしてくれないか」
途端、彼らしからぬ乱暴さで唇が奪われて、震えるほどの快感を感じた。



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