「……お前、ちゃんと分かってるのか?」

本日三度目の有りがたいお言葉に、俺は分かってますよと自分でもわかるくらい軽薄なトーンで答えた。
銀縁眼鏡の奥の先輩の瞳が僅かに呆れを含んだ色をしているのを見て取って、なんだか少し愉快な気分になっている。分かっているというのは嘘ではないし。
自分でも自覚している通り、俺はあんまり頭がよろしくない。教科書を読んでそれを頭にたたき込むという作業は俺にとっては非常に苦痛であって、結果成績もほとんど振るわなかった。それでもこの会社に入れているのは偏にバイトで得たコミュニケーション能力と人脈のおかげだろう。
一方、俺に仕事を教えてくれている先輩はクールで仕事ができてしかもイケメン、という評判だ。近寄りがたい人だとよく言われているのを知っている。確かにイケメンが真顔だったら怖いだろう。だからもう少し笑えばいいと思うんだけど、そう言うと先輩はいつもの無表情で俺を見つめるばかりである。よくわからんが俺は表情が煩いと言われることがあるので、足して割ったらちょうど良いんじゃないかな、なんて昔から思ってる。
実を言えば、俺と先輩は俺が就職する前から面識があるのだ。もっといえば中学のときから。幼なじみというほど長い付き合いでもないし、高校や大学は別だったが、結構当時は親しくさせてもらっていた。久々に再会した真面目でクールでイケメンだった先輩はそのまんま大人になって有能なサラリーマンになっていて、らしさに笑ってしまった。一方の俺は相も変わらず軽薄だなどと言われるのだが。
「もー、先輩ったら心配性すぎますよ!それくらい、俺だってちゃんとできます」
「それは知ってる」
全くの無表情かつ感情を含まないトーンで言われた言葉が褒め言葉だと気づくまで数瞬。思わず笑みを浮かべてしまいそうになった顔を引き締めて、精々しかめつらしい顔を作った。
「お前、たまに変なところが抜けてるからな。もう一度復習しておいた方が」
ほらやっぱり。褒められた後は説教がくるのだ。こういうところも前から変わってない。
「あーもう、いいですって。仕事の話しは切り上げて早く飲み行きません?」
今日は折角の金曜日なのだ。つまり明日明後日と休みなのである。月曜から金曜まで働き蟻のごとく働いている俺たちにとってたまの飲み会は数少ない楽しみだ。
「あのな……」
「ね、先輩、良いでしょう?」
「……はあ、」
呆れた顔をしている先輩に手を合わせて頼み込むと、渋々ながら了承してくれた。結構この人が押しに弱いってことは、あんまり会社の同僚なんかは知らないんだろうな、と思うとなんだか妙な優越感があるのだった。




飲み過ぎたせいか、頭がふわふわしている。酒がすっかり脳髄にまで染み渡って、とても良い気分だ。成人しているくせに先輩に肩を貸してもらいながら歩いているという情けない状況だけれども。
「すいません、肩貸してもらっちゃって」
へらりと笑ってみせると先輩は少し不機嫌そうに顔を逸らした。でもそんくらい気分がいい。顔の筋肉が弛んで普段よりずっとだらしない顔をしているのが自分でも分かる。先輩はなんだかんだ言って優しいので、これくらいのことでは怒らないだろう。
「家、ここでいいのか?」
「あ、はい!」
俺が住んでいるのは二階建ての小さなアパートだ。周りに住んでいるのも俺と同じくらいの独身男ばかりだ。新卒のサラリーマンが借りる部屋なんてこのくらいのものだろう。一人暮らしの男には十分すぎるくらいだ。自炊なんてほぼしないから、家事はそれこそ掃除とゴミ出しくらいしかしない。
「あー、鍵そこです」
「お前、そのくらい自分でやれよ」
「お願いしますってぇ」
ふわふわ笑いながらズボンのポケットを指さす。自分で取ろうとしても俺の指先は酔いでうまく動かない気がする。お願いします、と笑うと先輩はまたため息をついて手を伸ばしてきた。先輩はやはり優しい。
「や、も、先輩くすぐったいです、あはは!」
先輩の細くて綺麗な指が俺の腰付近をまさぐるのが妙にこそばゆくて、笑いが止まらない。俺って笑い上戸だったんだなあ。こんなにおかしいのは久しぶりな気がする。
「……鍵を探してるんだから、おとなしくしろよ」
「だっ、てぇ!そこ、ほんとだめっ、あは、あはははは!」
「……」
そのままへらへら笑っていると、先輩は黙り込んだ。
あ、流石に怒ったかな、と今更少し後悔する。どうも昔の気安い関係が忘れられないのだ。俺たちはもう中学生ではないというのに。ひやりと水がかけられたみたいに酔いがすっと冷える。
すみません、と言う為に開いた口に、何か柔らかいものが触れた。
先輩の整った男前な顔が目の前に広がって、息が止まる。
「ん、む、」
ぬるりと唇の中に入り込んできた暖かいものの感触に違和感だけが広がる。もう一度目を開く間にその感触が遠くなった。
今、俺は何をされたんだろう。先輩は、一体何をした?
がちゃりとドアが開く音がして、ふと我に返る。先輩が俺を軽く押して、そのまま俺は自分の部屋に尻餅をついた。いつの間に鍵を開けていたのか全く分からない。
「せ、先輩…?」
呼んでみたものの続く言葉が何も浮かばない。困惑する俺を後目に、先輩は普段の無表情のまま離れていく。無表情の中に何かの感情が含まれているような気はしたけれども、それが何なのか分からない。先輩のことがさっぱり分からなくなってなったみたいだ。
少しは警戒しろ、とそれだけ言い残して俺を部屋に押し込んだ先輩が別人みたいに見えて、俺は呆然としてしまった。唇に残った感覚が他人事のように感じられる。あんなに深く酩酊していたはずなのに、眠気も酔いも吹き飛んでしまっている。顔だけは先ほどと同じくらいに熱く火照っていた。
「明日、どうやって顔合わせたらいいんだろ…」
ずるずるとフローリングの床にへたり込む。手のひらで押さえた顔がひどく熱い。
先輩にいきなりあんなことされたっていうのに、何故か嫌ではなかった。それって、一体どういうことなんだ。
お前ちゃんと分かってるのか、という先輩の口癖が頭に響く。それに分かってますよ、と答えるのがいつもの俺だったはずなのに、今はもう何も言うことができない。だって、なんでそんなことされたのか分からない。気まぐれ、なんだろうか。そんな性格の人では無かったとは思うけれど、でもさっきの感覚は唇にはっきり残っている。またかっと体が熱くなった。
「……あー!もう寝る、寝よう……!」
独り言にしては大きな声で言わないと、変なことを考えてしまいそうだ。ともかく明日はちゃんと休まないと。どうか、仕事で妙な失敗をしませんように。



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