小さく息を吐く。響き渡るチャイムの音を他人事のように聞いた。
大事をとって授業は休んでいる。実際のところ体調はかなり回復してきていたけれども、授業に出る気にはなれなかった。人に会うのが怖いのだ。
元々体の弱い自分が病欠を申し出ると教師たちは簡単に納得してくれて、ゆっくり休めとまで言ってくれた。簡単だ、本当に。あの男たちと自分の記憶が消えて、物証も全て消してしまえば全て無かったことになるのだろうか。そんな都合のいい夢想が浮かぶほどには、ベッドの上にいるのは暇である。だからと言って人に会う気にはなれない。
かたん、とレターボックスに何かが落ちる音がして、反射的に体が強ばる。
嫌な記憶が頭を掠めた。あの時も、レターボックスに入った荷物が全ての始まりだった。けれど無視するのも情けない気がする。僅かな逡巡の後、確かめることにした。どうして自分はあんなにも無防備だったのだろう。前回味わった苦悩を思いだし、苦い思いを抱いた。
「……」
目を眇めて、入っていた物を眺める。レターボックスの形に歪んで丸まったノートらしきものが押し込まれていた。肉眼で見た限りでは怪しいところは無かったが、何か妙なところは無いかと念入りに調べてみる。汚いものを持つように摘んで引っ張ると、ノートはぱさりと軽く音を立ててあっけなく床に落ちた。しばしの間見つめて、何も起こらないことを確認する。
そこまでして、ようやっと危険なものではないだろうと判断した。小さく息を吐いてから拾い上げてページを捲ると、見慣れた文字が見て取れた。あまり癖のない、綺麗な字が並んでいる。
「…ミヒャエル」
中身をさらりと見れば、授業をまとめたものだとすぐに分かった。彼は普段はへらへらしているけれど本当は真面目で、成績もかなり良い。成績に関してはライバルだと言えた。だから、なのだろうか。授業に出られなかった自分がついていけるようにノートを取って持ってきてくれたのだろうか。
余計なことを、とも思うし、有り難いとも思う。ミヒャエルは優しいのだ、腹立たしいくらいに。彼のそういう余裕のある優しさが嫌いだ。
「……嫌いだ」
小さく呟く。言葉にするとそれはさも真実であるかのように思われた。本当に嫌いであれば楽だったのに。そうしたら、犬に噛まれたようなものだと割り切ることもできたかもしれない。こうまで引きずるのはある意味では彼のせいであって、けれど彼は何も悪くはない。言ってみればエリアス自身の問題である。
ひしゃげたノートをじっと眺める。嫌いだ、と口の中でもう一度呟いた。
この拙い関係はそのうち終わるかと思っていたが、レターボックスには毎日のようにノートが入れられた。淡々と内容を書き写してレターボックスに突っ込んでおくと、気づかないうちに無くなっていた。次の日にはまた同じような時間にノートが差し込まれる。
ノートには特にメッセージや落書きなどがあるわけでもなく、ただ淡々と授業の内容が書かれている。エリアスの方も何も書かなかった。書き写すだけで、全く手を加えていない。
彼は自分のことをどう思っているのだろう。少なくとも嫌われてはいないのだろうけれど、好かれているかと言えばそうではないだろう。好かれるようなことを何一つしていないのだから。ミヒャエルには自分を嫌う正当な権利がある。嫌いだ、と言われれば受け入れる心積もりだ。
どんな顔をしてこうしているのだろう。想像してみたけれどどれもしっくりこなくて、もやもやした感情だけが残った。




ひどく頭が痛かった。
熱が出たせいか体の節々が痛い。せっかく快方に向かっていたのに、全く自分らしいと思う。
ノートはいつものように突っ込まれていたが、とても玄関まで動くことができそうにない。体の痛みを少しでも和らげたくてベッドに潜り込んだ。ふわふわとした浮遊感が体に纏わりついている。
目を閉じてじっとしていると、墜落するように意識がぼやけていった。掠れたような、靄がかかったような、そんな感覚。
複数の笑い声と揶揄するような声が頭の中に鳴り響く。いつしか意識はあの日に戻っていた。
薬が全身を巡って、熱を感じる。自分がちっぽけなものになった気がして死んでしまいたかった。無力な女のように扱われて、ひたすら悲鳴ばかりあげた。嫌悪感しかない行為だというのに薬のせいで快感を感じてしまう自分をが信じられなかった。そんなに弱い人間ではないと信じていたのに。熱を持つ体とは裏腹に体が冷えて、ひどい寒気がする。
(…さむい、)
寒くて寒くて死んでしまいそうだ。体が凍えて息が苦しい。ぞくぞくとしたものが背筋から這い上がってきて、体がひどく震える。
「……ミヒャエル、」
小さく呟いた声は小さすぎて、自分の耳にも届かなかった。ほろりと零れた滴が眦に流れる。
きらわないで、と掠れた声で呟くと、額に暖かなものが触れた気がした。




「ん…」
ぼんやりと目を開く。汗が引いて少しすっきりした気分だった。半分微睡みながら視線をさまよわせて、体が凍り付く。黒髪の少年が棒を飲んだように立ちすくんでいた。
「なん、で、」
体が瘧のように震える。怖い。恐怖で叫び出しそうになるのを押さえるのが精一杯だ。ここにいるのはミヒャエルなのに。
エリアスが怯えているのを見て取ってか、ミヒャエルは緑色の目を哀しげに伏せた。あ、と思う。ミヒャエルは何も悪くないし優しくしてくれると頭では分かっているのに。
「……ごめん」
ミヒャエルは気にしないで、と呟いて弱々しく笑った。そんなつもりではなかったのに。
「…僕に構わないでよ。君が嫌な思いするだけだよ」
目を伏せて、極力冷めた声で吐き捨てる。彼の顔を見ながら言うことはできなかった。
彼の時間を無駄に消費して、嫌な思いをさせることしかできない。ミヒャエルを傷つけたいわけではないのに、優しくできない。これでは、健全な友人関係とは言えない。ミヒャエルにはもっとしっかりした友人が相応しい。こんな、薄汚れた人間ではなくて。
「一人でいて、それで君は平気なの」
弾かれたように目を上げたのは、彼の声が思ったより冷たかったからだ。表情の無い顔の中で緑の瞳だけが揺れている。
「授業にだって出ないで、一人でずっと部屋に引きこもって…どこが平気なのさ!」
「――うるさい!」
思い切り叫んだ瞬間、喉に痛みを感じた。喉を押さえて激しくせき込む。躊躇ったような間の後、大きな手に背を撫でられた。優しくしなくていいのに、と生理的な涙を流しながら思う。
ごめんね、と掛けられた声はやはり優しい。喧嘩したときもいつも謝るのは彼の方で、それがいつも嫌だった。激情はすぐに萎んで心の中で凍り付く。今回は完全に自分が悪い。
「君は、もっと人に甘えてもいいんだよ。あんなことがあった後なんだし、無理しないでよ」
「…無理なんて、してないよ。君こそ、僕なんて放っておけばいいのに」
「僕が、君のそばにいたいんだよ」
なんで、と小さく呟く。彼にとって何もメリットになることができていないのに。
ミヒャエルは優しく笑う。どうしてそんなに優しいのだろう。嫌ってくれていいのに、彼はいつも優しくて暖かい。
「僕、君に何もできてないよ」
「君のことが好きだから。…だって、僕たち友達でしょ」
「…そっか」
友達だと言われて、嬉しいのか哀しいのかよくわからない。息が詰まりそうなほどにもやもやした気分に陥って、妙な感覚がした。
押し黙った体が優しく抱き留められる。すきだよ、と呟く声は優しい。あの男たちが笑いながら言った言葉とは違って、彼の言葉はあくまで優しい。
静かに目を閉じる。彼はひどいことなど何もしないだろう。今だけ、今だけは少し甘えてもいいだろうか。すぐに立ち直ってみせるから。
君と友達でよかった、と小さく呟くと、抱きしめる力がほんの少し強まった気がした。




静かに眠る彼の顔を見つめる。少し痩せたが、顔色はそれほど悪くはない。
友達として好きだなんて嘘だ。ずっと彼が好きだった。けれどそれを伝えて、彼を傷つけたくない。彼を襲った男たちと同じだと思われたくなかった。
「ん、んん…っ」
小さな唇からうめき声が漏れる。また、何か嫌な夢でも見ているのだろうか。
いかないで、と小さな小さな声が聞こえる。額にそっと手を当てると、じんわりと熱が伝わってきた。好きだよ、と呟いた言葉に含んだ様々な感情を、きっと彼は知らない。
せめて、彼を支えていきたいとそう思った。これからも、ずっと。



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