酷い臭いが部屋に充満している。
エリアスという少年は元来潔癖症だ。いつだって自分の生活空間はきちんと整えている。そうでないと気が済まない。けれど今のこの部屋の惨状はどうだろう。力なく座り込んだベッドもシーツも乱れて汚れて、この上で寝ることなど考えられそうにない。床にはガラスの破片が散らばっていた。先刻苛立ち紛れに投げたものだった。これではまるで芥溜めだ、と思う。今の自分には似合いだ。ティッシュや卑猥な道具も散乱していたが、それは勿論エリアスのものではなかった。
エリアス自身の有様も酷いものだった。服も纏わず、ベッドの上にへたりこんでいる。動かなければならない、と思うのだけれど、身体に残る痛みと疲労がそれを許さない。体力がないのは自覚していたが、流石にこれほどとは思わなかった。魔法を使おうにもとても集中できそうにない。だからここにいるのは、ただの無力な子供だ。
こうしているわけにはいかない、とのろのろとベッドを這う。無理に筋肉を使わされたせいで少し動くだけで体が悲鳴を上げた。とりあえず服を着て、部屋を整えて、何も無かったことにしなければならない。他人にそう思わせるより、自分がそう思いたいのかもしれなかった。エリアスはひどく矜持の高い少年であったから。
なんとかクローゼットのドアを開けて、手頃なジャケットを羽織る。肌に触れるたび、服まで汚染されていくような錯覚を覚えた。
事実手も身体もべたついていて、清潔に折りたたまれていた服に何ともしれない液体が染み込んでいく。自分の存在が再び汚されているような錯覚を抱いた。先に風呂に行けばいいのだろうけれども、そんな体力は残されていなかった。それよりこの身体を隠してしまいたいのだ。痣も傷も見たくはない。
エリアスを陵辱し人形のように扱った男たちよりも、家族からの差し入れと思いこんで無防備に薬入りの菓子を食べ、あまつさえ彼らに抵抗することすらできなかった自分が許せなかった。みっともなく嬌声をあげていた自分の存在を消してしまいたかった。
かちゃり、と乾いた音が聞こえて、全身が総毛立つ。くるなと叫ぼうとした喉は叫びすぎたせいでとうに枯れていて、制止することができなかった。
ドアの前で、黒髪の少年は驚いたように立ちつくしていた。寮の部屋は狭いから、部屋に入った瞬間この惨状を見て取ることができたろう。震える唇が呆然と自分の名を呼ぶ。合鍵の存在を今の今まで忘れていた自分を殺してしまいたいと思った。エリアスの友人はゆっくりと目を見開いて、無言で問いかけてくる。何があったのかわからない年齢でもあるまいに。
嗚呼、と思う。続く言葉は見当たらない。哀しいのか憤ろしいのか、それすらもわからない。笑い出したいような気もしたが、頭がおかしくなったと思われるのは嫌だった。こちらを見つめてくる翠眼はひどく澄んでいて嫌になるくらい綺麗だ。そんな目で見ないで欲しい。自分がどれだけ穢れているのか突きつけられるようで嫌になる。けれど、少なくとも最悪ではないのは確かだ。昨日の連中や女性が入ってくるよりはずっとずっとマシなはずだ。そう、自分に言い聞かせねばならなかった。
ふらりと立ち上がると、痛めつけられた身体が悲鳴を上げた。いっそ死んでしまえ、と耳元で誰かが言う。汚い。本当に汚い。吐き気がするほど自分自身が憎らしい。さっと差し伸べられた手は見ないふりをした。彼は痩せているけれどすらりと背が高く、男らしい体格をしている。彼のようだったらこんな目には遭わなかったろうか。八つ当たりに近い思考だと分かっているけれども、そうでもしなければどろどろしたものがあふれ出してしまいそうなのだ。
「なんで、」
ミヒャエルは泣きそうな声で問うた。今度こそ、エリアスの口から笑い声がこぼれる。初めは小さかった笑い声は、少しずつ大きくなって最後にはけたたましい笑い声になった。どうして、など、自分が聞きたいくらいだ。こんなこと、想像したこともなかった。
気でも狂ったと思ったのか、彼が少し眉を顰めた。いっそ本当におかしくなっていた方が良かった。そうすれば、何も感じずにいられたのに。
「知らない。変な男たちに襲われて、それで、――この有様さ」
エリアスは努めてへらりと笑った。泣いてたまるものか、と思う。泣いてしまえば心が本当に死んでしまう。ミヒャエルに泣きつく自分を想像して、あまりの無様さに失笑した。襲われることを許したばかりか、泣きわめくことなど許されて良いはずがない。女子供ではないのだ。自分が女であったなら彼に縋り付いて泣くことが許されたかも知れないけれども、実際はそうではない。泣いて縋ることは、男の自分に残された最後の矜持を粉々に壊してしまう行為だ。
ミヒャエルは何かを言いかけて、そして唇を噛んだ。何も言って欲しくなかった。慰めの言葉をかけられるよりこの場からいなくなってくれないだろうか。
「……エリー。きみは、平気なの?」
彼の紡いだ言葉は慰めでも励ましでもなかったが、ひどく陳腐だと思った。ふっと乾いた笑いが漏れる。
「平気だよ、って言えば君は満足?」
「……僕は、そんなつもりじゃ」
「それなら、なんて言ってほしいの」
彼が傷ついた顔をするのが小気味よいとすら思った。嫌ってくれればいい。エリアスだって、こんな自分は大嫌いだ。優しくなんてされたくないし、そんな資格だってない。
「それとも、良かったよ、って言えばいいのかな。初めは痛かったけど段々気持ちよくなって、」
「――エリー!」
激しい声が耳を打つ。珍しく本当に怒っているのだと分かった。長い長いつき合いだ、それくらいのことは分かる。ひどく傷ついた目の色をしていた。
「なんでそんなに怒るのさ。君には関係ないでしょう」
自分でも驚くほどに冷たい声が出た。泣きたいほどにミヒャエルが羨ましくてたまらない。昨日までは対等だったはずなのに、今では全く違ってしまった。自分はこんなにも汚れてしまった。ミヒャエルのようだったなら、こんな風にはならなかったろうか。
どろどろとした感情ばかりがあふれ出して止まらない。嫌いになれ、と心の中で叫ぶ。優しくなんてされたくない。むしろひどくしてくれた方がずっとずっとマシだ。そうしたらエリアスも自分に見切りをつけられるような気がする。嫌いなのはミヒャエルではなくて自分自身だ。自分の姿を見てほしくない。消えてしまえるものならば消えてしまいたい。
「関係、あるよ。僕は君の友達なんだから」
ふっと笑いが漏れた。まだそんな風に思っていたのか、彼は。優しすぎるのもここまでくると笑えてくる。
「友達だって言うなら帰ってくれないかな。それとも、僕の着替えでも見て行く?」
「……っ」
ぎり、と唇を噛む彼を、笑顔の仮面をつけたまま眺めた。泣き出す寸前の子供みたいな表情だ。馬鹿な男だ。自分のことなんて放っておけばいいのに。けれどミヒャエルという男は、こうなったのが誰であろうと優しくするのだろう。彼はそういう男だ。だからこそ、優しくされたくない。その他大勢とひとくくりにされて優しくされるより、いっそ嫌われた方がマシだった。
「……エリー、授業は?」
「出られると思う?」
皮肉げに言い放つと、ミヒャエルはそうだね、と少し哀しげに呟いた。そんな顔をするくらいなら、早く行った方がよかったのに。
立ち去っていくミヒャエルの背中をじっと眺めた。ひどく泣きたいような、そんな気がした。



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