ミヒャエルの様子が変だ、とやっと気づいた。
仕事から帰るといつも痛いくらいの力で抱きしめられた。けれどその強さが随分と弱々しくなっていることに、ようやっと気がついた。
「ミヒャエル、大丈夫なの」
問いかけるとミヒャエルはふわふわと笑う。えりーだいすき、とエリアスの肩に頭を埋めた。その強さもひどく弱々しい、と思った。不安で胸がざわめく。
じっと彼の顔を見つめる。ミヒャエル顔はどこか青ざめて、血管が透けて見えそうなくらいだった。
「ミヒャエル、お医者さまを呼んでくるから待ってて」
「やだ」
「すぐ、すぐ戻ってくるから」
懸命に説得する。泣きたい気がした。どうして早く気がつかなかったのだろう。エリアスはミヒャエルを生かすためだけに生きているのに、大事な彼の体調不良にすら気がつかないなんて。
エリアスの外出を嫌がるミヒャエルをなんとか宥め賺して街に出る。どれくらいの金がかかるのだろう。ミヒャエルはどれくらい悪いのだろう。こどもの自分には何も分からない。それが悔しくて仕方がない。
昼の街は夜とは違って、見慣れない場所に見えた。勤務中らしきサラリーマンや露天商が、じろじろと街を走り回るエリアスを眺めた。髪を伸ばして、脚をさらけ出した服を着た自分の素性は、見る人が見れば分かるのだろうか。正しい世界から拒絶されている、と思う。好きでこんなことをしているわけじゃない、と叫びたかった。正しい場所から転げ落ちて、どうやってそこに戻ればいいのかわからなくなくなった。薄暗いところでしか生きていけない。せめてミヒャエルだけでも戻してやりたいのに。
ぱたぱたと町中を走り回る。底の浅い靴から振動が伝わってきて痛かった。病院をいくつか見かけて飛び込んだけれど、休診だったり、ひどく混んでいてミヒャエルを連れて来られそうになかった。
青い顔で息を切らせて、それでも他の医者を探そうとしていたエリアスの細い腕を誰かが捕らえた。驚いて見上げると、厳つい顔をした大柄な男がエリアスを見下ろしていた。じろじろと睨むように見られて足が竦む。
「嬢ちゃん、学校は」
ふるふると首を振って答えの変わりにする。学校なんてもう何年も行っていない。どうやら女の子だと思われているようだった。おとなしくしていたら解放してくれないだろうか。
「お医者さまを探してるんです。友達が病気みたいで」
「医者?」
ふうん、と剥き出しの足や顔を睨むようにじろじろと見られる。怖い、と思った。叱られてひどいことをされるのではないだろうか。
ぐ、と手を引かれて慌てる。男の力は強くて、非力な自分にはとても抵抗できそうにない。一体どこへ連れて行かれるのだろう。警察に捕まるのだろうか。男の広い背中を眺めながらミヒャエルのことを思った。一人残されたら、彼はどうなるのだろう。
何分か歩かされて、連れてこられたのは古びた建物だった。見たところ、普通の家のように見えた。間違っても警察には見えない。男の家だろうか。周囲に目を走らせたけれど、誰も見当たらない。
おおい、と男が大声で誰かを呼ばわる。腕は掴まれたままだ。ぱたぱたと二階から下りてきたのは、優しそうな顔をした中年の女の人だった。少しほっとする。仕事をさせられるわけではないようだ。彼女は瞬いて、お嬢ちゃんどうしたの、と聞いた。どう答えるべきか迷って男を見上げると、彼はがしがしと頭を掻いた。
「医者、探してるんだろ」
「お医者さま…?」
女の医者の方がいいかと思ってよ、と男がぶっきらぼうに告げる。ほっとして力が抜けた。




「えりー、このひとだあれ」
エリアスの後ろに隠れながらミヒャエルがおびえた声を出す。お医者さまだよ、と安心させるようにやさしく言ったけれど、ミヒャエルはふるふると首を振った。彼は大人の人が怖いのだ。男の人ではないからまだいいのかもしれないけど。
大丈夫だよ、と痩せた身体を抱き締めて背中を撫でた。弱々しい力が抱き返してくる。彼の身体は痩せて骨ばっていて、少し冷たかった。ミヒャエルは何も言わなかったけれど、本当に具合が悪かったのだろう。間に合って良かった、とほっとする。
女医は優しい手つきでミヒャエルの手を取った。ミヒャエルは嫌そうにむずがったけれどその動きは弱々しい。彼女はミヒャエルの腕に散らばった青い痣を見て取って、ひどく難しい顔をした。心がざわめいて不安になった。
「ミヒャエルは大丈夫なんですか」
すがるように聞くと女医はにっこりと笑ってエリアスの頭を撫でた。そうじゃないのよ心配いらないわ、とやさしい声がする。
「絶対に助けてみせるから安心なさいね」
力強い言葉にほっと息をつく。どれくらいお金がかかるかわからないけれど、一生働いてでも返そう。ミヒャエルが助かるのならそれでいい。
張りつめていた糸が切れて、その場にくずおれる。驚いたような声が聞こえた気がしたけれど、とにかく疲れていて眠りたかった。
助けて、と何度も繰り返したけど助けてはくれなかった。本当に長い間、誰かに助けて欲しかった。誰も来てはくれなかった。けれど、こうして助けてくれるひとが現れた。やっと、助けが来た。
今なら、ミヒャエルを助けられた今なら、涙を流しても赦されるような気がした。




小さな身体を膝に乗せて、かるく抱き締めながら一緒に本を読んだ。エリーの身体はとても軽いから、体重をかけられてもぜんぜん痛くない。
ほっぺたをくっつけるようにのぞき込んで、もっとゆっくりめくって、と注文した。ミヒャエルの親友は唇を尖らせる。
「一人で読んだ方が読みやすいんじゃないの」
「僕はこっちの方がいいの。今は他に誰もいないんだからいいでしょ?」
む、と唇を尖らせて不服そうな顔をされたけれど、それ以上文句は言われなかった。幸せな気持ちで薄い肩に頭をぐりぐりと押しつけた。エリーは優しいから、ミヒャエルが甘えても許してくれる。
ミヒャエルとエリアスの二人は、今年から新しい学校に編入することになった。同級生たちはみんな三歳年下だ。ミヒャエルは本当なら一つ上の学年になるはずだったけれど、エリーがいないのは寂しいから同じ学年にしてくれと先生に頼み込んだ。そう言ったら彼には呆れられてしまったけれど。
二人にあてがわれた部屋には、二段ベッドと机が二つ置かれていた。前の学校のそれと比べると質素でおまけに狭かったけれど、今のミヒャエルにとっては十分すぎるくらいだ。あまりに広いと不安になるし、狭い方がエリーとくっついていられる。
この学校に来るまでのことは覚えていない。気がついたら病院にいて、周りには医者や看護師がたくさんいた。一年ほど入院していたらしい。はじめは注射が怖くて暴れたし、何故病院にいるのかわからなくて混乱したけれど、医者は根気よく説明してくれた。最初はミヒャエルが町医者に診てもらったのだけど、エリアスの方も身体が弱っていることがわかって二人とも大きな病院に入院することになったのだとか。どんな病気にかかっていたのかは教えてくれなかった。思い出さない方がいいよ、と言われたからとりあえずは納得している。
前の学校で勉強したことや、料理の作り方や物の名前、スポーツのルールなどは覚えていた。けれど思い出はほとんど抜け落ちていた。特にここ二年間の記憶は全くない。それ以前の、前の学校のことと家族のことはぼんやりと覚えている。はっきりと覚えていたのはエリアスのことだけだ。エリーを守る、というそれだけが頭の中にあった。
一方のエリアスは何も覚えていなかった。自分の親のことも出身地もわからないそうだ。何か精神的なショックを受けたからではないか、と医者は言っていた。ミヒャエルと友達だったことだけは、なんとなくわかるのだと言う。なんとなく寂しいような、ほっとしたような不思議な気持ちがしたのを覚えている。
医者や役所の職員や、何故か警察の人が訪ねてきて二人に色々なことを聞いたけれど、記憶が曖昧であまり役には立てなかった気がする。ここだけの話だけれど、ミヒャエルは大人の人は苦手だ。エリーにも会ってほしくない、と思ったことを覚えている。どうしてかは分からないけれど。
入院や検査、たくさんの大人たちとの会話を繰り返して、やっと揃って学校に戻れることになった。前の学校の学費はとにかく高いし遠いから、病院の近くの公立学校に通うことになった。学費は二人を引き取ってくれた孤児院が肩代わりしてくれた。いつか学校を卒業したら、一緒に働いて学費を返そうと約束した。そのためにはたくさん勉強をしないといけない。
考えごとにふけっていると、エリアスが怪訝そうに振り返った。灰白色のさらさらしたショートヘアをじっと見つめる。短い方がすっきりしていてずっといい。彼の髪が長かった頃なんて無かった気もするけれど。
「ミヒャエル、ちゃんと読んでる?」
「え、ごめんなんだっけ」
「…君はたまにぼんやりしてるよね」
もっとしっかりしてよ、というのがここ最近のエリアスの口癖だ。ミヒャエルは背がまた伸びて、同級生たちよりかなり大きい。それなのに小柄なエリアスにべったりだから、甘えただと揶揄されることもある。他の連中に何を言われたっていいけれど、エリーに迷惑がかかるのは嫌だ。だから極力二人きりの時しか甘えないようにしている。これでも頑張っているのだ。本当なら一日中だってくっついていたい。
新しい学校生活にも少しずつ慣れてきて、新しい友達もできたけれどミヒャエルの中の一番は変わらない。エリアスの方も同じように思っていてくれたらいいと思う。
「エリーがそう言うならもっとしっかりするよ。僕は絶対に君を守るって決めてるからね」
「…変なミヒャエル」
エリアスはふいっと向こうを向いてしまったけれど、ミヒャエルの位置からはほんのりと耳元が赤くなっているのが見て取れた。ミヒャエルは小柄な身体を抱き締めてへにゃりと笑う。すごく幸せだ。
前にも、こんなことを言った気がする。エリーを守る、といつだったか約束した。だからずっとそばにいる。彼が何も覚えていないのは少し寂しかったけれど、忘れていた方が幸せならそれでいい。これからはずっと一緒なのだ。思い出なんてたくさん作っていける。
今度こそ二人で幸せになる。もう一人ではないのだから。
今日も明日も明後日も、これからはずっとそばにいよう。



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