彼はいつも優しいけれど、どこへもいかないで、という一番のお願いだけは聞き入れてくれない。
「ミヒャエル、お願いだから少しだけ待っていてよ。お金が無いとご飯も食べられないよ」
「やだ、おいてかないで」
自分より小さい身体がよろけるのも構わずに、泣きながらすがりついた。だって、エリーがいないと寂しい。ご飯なんて食べられなくていいから、そばにいてほしい。一日中ずっと抱き締めていたいのに、するりと逃げていく。
エリアスは困った顔をした。灰白色の髪はすっかり伸びて、綺麗で儚げな女の子みたいだった。彼より綺麗なひとを見たことがない。そっちの方が仕事に都合がいいのだと、いつかミヒャエルの髪を切りそろえながら言っていた。
「ご飯が食べられないと死んじゃうよ。そうなったら困るだろ」
死んじゃってもいいよ、と言いたかった。前にそう言ったら、とても哀しそうな顔をされたから言わない。他の物なんて何もいらないから一緒にいたい。
買い物に行くだけなら我慢できたかもしれない。けれどエリアスは、毎晩毎晩どこかの誰かのところに行ってしまうのだ。そうしてお金を貰ってくる。それじゃ前と同じだ。
ミヒャエルは頑是無いこどもみたいにぐすぐすとしゃくりあげた。
「ずっといっしょにいてねっていったのに」
「一緒にいるためにお金がいるんだよ」
わかってよ、と小さな薄い掌がミヒャエルの頭をぽんぽんと撫でる。エリーの言うことなんかぜんぜんわからない。どうしていつも、ミヒャエルじゃない誰かのところに行ってしまうんだろう。怖い顔をした誰かはもういないはずなのに、何より大事な彼は夜毎連れて行かれてしまう。
じゃあね、と告げて外へ向かう細い後ろ姿をじっと見つめた。足を刺したらどこにも行かないだろうか。薄い背中にナイフを突き立てたら、エリーは永遠にミヒャエルのものになってくれるだろうか。ずっと眠り続ける彼を、少しも離れずに抱き締めていられたら。
けれどエリアスが話してくれなくなるのはきっと寂しいだろうから、考えるだけにとどめている。今のところは。
ぱたんとドアが閉まる音を聞いて、ミヒャエルはベッドに座り込んだ。エリーがいないなら何もやることなんてない。ミヒャエルにとっての現実はエリアスしかない。他の物はみんな、目の前を通り過ぎていくだけのがらくただ。ぼんやりと一人ベッドに沈み込む。頭が鈍い痛みを発しているような、そんな気がした。
どれくらいの時間そうしていただろう。ドアが開く音を聞いて、ふわふわと空中を漂っていた意識が浮上する。ただいま、と疲れ切った声がした。
おかえり、と叫んで、疲れたようにふらつく身体に抱きついた。大好きな甘い匂いに混ざって、少し厭な匂いがする。外から帰って来たばかりの彼は、この厭な匂いをつけてくることが多かった。これも外に行ってほしくない理由の一つだ。大事な物が汚されていく様な感覚。
毎晩稼ぎに出るエリアスは、だから返ってくるのは昼前だった。夜はエリーがいなくなるから大嫌いだけど、昼はエリーが帰ってくるから好きだ。
エリアスは大事そうに抱えていた紙袋を掲げて、にっこりと笑う。つられてミヒャエルも笑った。
「前に君が好きって言ってたお菓子も買ってきたよ。一緒に食べようね」
「うん」
こくりと頷く。本当はもう、食べ物の味なんてわからなくなっていたけど、一緒ならなんでもいい。食欲もあまりなかった。ご飯を食べるとエリアスが嬉しそうに笑うから、その顔を見るためだけに食事をしている。
ミヒャエルの基準は全部エリアスなのだ。他のことは忘れた。エリーを守る、ということだけがミヒャエルの中の絶対の掟だ。
今借りている部屋は、子供二人で暮らすには少し狭かった。家具はほとんどなくて、ベッドは一人用のものが一つしかない。どうせ隣にエリーがいないと眠れないから、狭くたって構わないのだけど。
エリアスは疲れていたのか、ベッドに入るなりすやすやと寝入ってしまった。小さな身体は小動物みたいに暖かい。灰白色の長い睫毛や、あどけない白い顔をじっと見つめた。眠るとミヒャエルよりずっと幼く見えた。一緒に眠るときだけ、大好きな彼を独り占めできる。
絶対に放さないようにぎゅうぎゅうと抱き締めた。ん、と苦しそうな声がしたけれど、力を弱めたりはしなかった。何より大事だから無くしたくない。くっついていられれば幸せだ。
このままずっと、夜が来なければいいのに。



二人暮らしで一番大変なのは、金が無いと言うことだ。ご飯も服も部屋も、生きていくためには金が無いとやっていけない。
男の元で暮らしていた頃は、とりあえず生活に不自由はしなかった。けれど男と離れて二人で暮らすようになったら、それなりにあったはずのお金は飛ぶように減っていく。
ミヒャエルは不安定だし人を怖がるから、働くことなどできそうになかった。浮浪児のように生きることも無理だ。だからエリアスは、二人分のお金を稼がなければならない。
誰か頼れる大人に相談しようかと考えたけれど、お金も拠り所も無い、人殺しの自分にはそんなことはできそうになかった。それに、大人は信用できない。ミヒャエルにひどいことをしていたのは、偉い大人たちだった。旦那様は優しくていいひとだったけれど。
「あれ、」
いいひと、だったはずだ。だってたくさん優しくしてくれたし気持ちよくしてくれたし可愛がってくれた。エリアスはたくさんのことを教え込まれた。うまくできると褒めてくれた。だから、いいひとのはずだ。
けれどそれならどうして殺したのだっけ。
なんとなく、ナイフが欲しいと思った。早くしないと間に合わない、と思う。ナイフじゃなくても刃物で、喉を突き刺して、それで、
やあ、と見知らぬ男に声を掛けられて思考を中断した。中年で少し太った、金払いの良さそうな男だった。エリアスは婉然と微笑み返す。
いくらだい、と欲に満ちた声を聞く。男の太い指がエリアスの細い腰を撫でた。旦那様の声に少し似ているなと思う。
思った通り、仕事の話だ。どうせならたくさん払ってもらおう。そしてミヒャエルに何かお土産を買っていってあげよう。このところ、あまり元気がないようだから。
首を傾けて笑うと、交渉をはじめた。




頭が痛くてたまらなかった。
食べたご飯はエリアスに隠れて吐いた。寒くて寒くて凍え死んでしまいそうだ。ミヒャエルを罵る声が聞こえる。たくさんの人間に見られているような気がする。
日に日に酷くなっていくその症状は、エリアスが帰ってくると楽になった。だから彼は何も知らない。
なんだか今日はいつにもまして頭がぼうっとしていた。せっかくエリーが腕の中にいるのに勿体無いと思う。痩せた指先で灰白色の髪を弄んだ。窓から入った日光を反射して、きらきらして綺麗だ。
ミヒャエルがいなかったら、エリーは幸せになれるだろうか。そうしたら男のところになんて行かないだろうか。何度かそう思ったけど、寂しくて言い出せなかった。
守ると言ったけれど、何もできなかったような気がする。小さな手が包丁やナイフを掴んでいると、ひどく嫌な予感がしたから取り上げた。ご飯を作るのはミヒャエルの唯一の仕事だった。たったそれだけしかできなかったけど、少しでもエリアスの助けになっていたらいいなと思う。
こほこほとせき込む。唾がかからないように口を押さえた。呼吸がうまくできない。彼を起こしたくなかった。幸せに眠っていてほしかった。
大事な友達の顔を目に焼き付けて、決して忘れないようにした。次こそはちゃんと守ろう。
「えりー、…だいすきだよ」
小さく呟いて目を閉じる。力を振り絞って小さな身体を抱き締めた。彼の感触を全身で感じていたかった。
どうか、エリアスが幸せになれますように。




エリアスが目を覚ますと、自分の身体を抱き締めていた腕はひんやりと冷たくなっていた。何度か名前を呼んで見たが反応はなかった。
幸せそうに微笑む白い顔をじっと見つめる。開かれたままの緑の隻眼を閉じさせた。眠っているみたいだった。
台所へ行って包丁を取ってきて、ミヒャエルの隣に掛けた。ぐ、と喉に刃先を押し当てる。堅い感触が気持ちいい。
ずっとこうしたかった。ミヒャエルがいるから生きていた。いないから生きていなくてもいい。エリアスはこの世に必要ない。ミヒャエルは天国へ行っただろうから、もう会えないことが寂しかった。でも彼には、もう自分などいらないだろう。その方がミヒャエルにとって幸せだ。
――本当は誰にも愛されていないことくらい、とっくの昔に分かっていた。無理矢理信じないと生きてこれなかった。喉を涸らして叫んでも、誰も助けてはくれなかったから。結局、たった一人の友達のことも守れなかった。ミヒャエルが来る前に早く死ねば良かった。ミヒャエルは壊れてこんな風に死ななくて済んだ。男は殺されなくて済んだ。それよりも前に、ミヒャエルと友達になんかならなければよかった。エリアスさえ生まれてこなければ、みんな幸せだった。
その事実がとても寂しくて、哀しかった。
「おやすみ、ミヒャエル」
友達になってごめんね。
ほろほろと涙をこぼしながら微笑むと、包丁に一気に力を込めた。



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