自分ではない男に甘えたような微笑みを向ける彼を見て、世界ががらがらと崩壊する錯覚を覚えた。
彼の浮気が信じられなくて、何かの間違いだと思いたくて後をつけた。そこで、彼が男と逢い引きしているのを発見した。背の高い黒髪の若い男が屈み込んで、エリアスに優しく口づけていた。明らかに合意の上で。
まさかエリアスが、愛の籠もった眼差しを他の男に向けるなんて。ミヒャエルしか愛さないと、確かにそう言ったはずなのに。
失意の中、ふらふらと家に帰った。帰宅途中に見たはずの光景は何一つ目に入らなかった。他の男に向けられた彼の笑顔だけが思い浮かぶ。必死で忘れようとしても消すことができない。
誰よりも愛されているつもりだった。ミヒャエルの知る彼は一途で、真っ直ぐで、誰よりも清らかだった。愛していることを分かってくれていると思っていた。彼のことをこんなにも愛しているのだから、何をしてもミヒャエルの元へ帰ってきてくれると思っていた。それなのに。
「…っ」
家の中のどこを見ても、彼との思い出がありありと浮かんできて涙が溢れた。彼はいつも小柄な身体でくるくる働いていた。ソファーに座ってその背中を眺めるのが好きだった。ミヒャエルの為に働く姿を見ると、確かに愛されているのだと思えたから。
彼が同じように浮気相手に尽くすところを想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。なんとか現実逃避しようとゲームやテレビに手をつけてみたけれど、途中で手が震えて駄目だった。彼のことしか考えられない。こんなに、こんなにも愛しているのに、どうして彼は。
苦しくて哀しくて憤ろしくて、やがて耐えきれなくなった。
携帯を取り出して、電話を掛ける。無機質な発信音が焦燥感を煽った。
はい、と電話口から彼の声が聞こえる。それだけで泣きそうになる。押し殺すように、彼の名を呼んだ。
「どうしたの、ミヒャエル?」
「僕、死ぬことにしたよ」
「え、」
彼が一瞬絶句する。次に聞こえた声は悲鳴のようだった。
「ど、どうして…!?やめて、死ぬなんてそんなことやめて!!」
電話口から聞こえる声が本当に焦っていることに心のどこかで安堵した。どうして、はミヒャエルの方が聞きたい。どうして他の男にあんな笑顔を見せて、抱かれたりしたんだろう。昔の君はあんなに潔癖で一途だったのに。
「理由は、君が一番わかってるんじゃないの」
「…っ」
エリアスが息を呑む。少し胸がすっとした。深く傷ついて欲しい。後悔してほしい。どうかミヒャエルのことを忘れないで欲しい。せめて心の傷としてでも、永遠に彼の側にいたい。
「さよなら」
「待っ…」
ぶつり、と通話を切る。涙が頬を伝った。大好きな声をずっと聞いていたかったけれど、自殺に失敗するのが怖い。自殺未遂なんてした男を、エリアスは呆れて捨ててしまうかもしれないから。
彼が本気で焦ってくれて良かった。もし好きにすればいいと見放されていたら、ミヒャエルの心は壊れてしまっただろう。
震える手で睡眠薬の瓶を取って少しの逡巡の後、水と共に一気に呷った。喉に違和感を覚える。死ぬのは怖かったけれど、彼に捨てられる苦しみを味わうよりはずっとずっとマシだ。
ミヒャエルを裏切った彼が許せなくて憎たらしい。それだけ、彼のことが好きだったのだと今更気がついた。この世のどんなことよりも、エリアスに捨てられるのが怖い。ミヒャエルの大好きな顔と声で別れを告げられたら、きっと耐えられない。
ひどい眠気に襲われた。頭がぼうっとして、墜落していくようで。目蓋が自然と落ちる。
「…エリー」
どこかあどけなさの残る彼の笑顔が目蓋の裏に浮かぶ。たくさんの思い出が走馬燈のように頭を巡った。昔も今も、ミヒャエルには彼しかいない。
死んだミヒャエルを見つけたとき、彼は泣いてくれるだろうか。浮気を後悔してくれるだろうか。ちゃんと傷ついてくれるだろうか。ぼんやりと考えて、苦笑が漏れる。こんなにも愛する恋人を泣かせたいだなんて、ミヒャエルはひどい男かもしれない。
愛されている証が欲しくてたまらないのに、彼に愛されている自信がもう、ない。浮気相手から奪い返せる自信がない。今のミヒャエルには彼の他に誇れるものがなかった。愛してはいたけれど、冷たくしてきた自覚もあって。だから、こんな手段しか取れなかった。
「…なんで、こうなっちゃったんだろ…」
エリアスのことが愛しくて愛しくて、お互いさえいれば幸せなのだと思っていたあのころ。世界の誰よりも幸せで、彼のことを幸せにしようと決めていた。そうできる自信があった。
無垢な笑顔も、少し気が強くて意地っ張りなところも、全部好きだった。もっと大切にしていたら、彼はまだミヒャエルだけのものだったのだろうか。今更もう遅いのだと、自分が一番よく分かっている。
どこで間違ってしまったのだろう。ミヒャエルも、エリアスも。
本当は、君の笑顔だけを見ていたかったのに。



「ミヒャエル…!」
愛しいひとの悲鳴のような声に目を覚ました。
同じベッドに二人で眠っていたのに、彼の青緑色の瞳は宙を見るばかりだ。真っ白な頬を蒼白にさせて涙を浮かべて、かたかたと震える彼の身体をそっと抱き寄せる。
「エリー、僕はここにいるよ」
耳元で囁くと、虚ろだった瞳に光が戻る。口元が弱々しく綻んだ。
「そ、そうだよね」
「馬鹿だね、エリー。僕が君を置いてどこかに行くわけないじゃない」
「うん…」
力なく微笑む腕の中のひとの髪をやさしく撫でる。啄むように口づけると白い頬が朱に染まった。
「僕がここにいるって、ちゃんと教えてあげるよ」
「も、もう…」
恥じらう彼の身体を優しくベッドに押し倒す。ミヒャエルのばか、と小さく呟く表情は、ミヒャエラの良く知る彼よりずっと幼い。比喩ではなく、実際にそうなのだ。今の彼の精神は十年ほど退行している。
ミヒャエラが見つけた時には、彼は自殺したミヒャエルの遺体を掻き抱いてぼんやりと座っていた。すぐに駆け寄って遺体から引き離そうとしたのに、非力なはずの彼の身体は頑として動こうとしなかった。人形のように表情の無くなった白い顔に、とめどなく涙が伝っていた。
後で再生した盗聴器からは彼の悲鳴と、ミヒャエルの名を呼びながら激しく泣きじゃくる声が聞こえた。最悪の形で恋人を失った彼はほとんど発狂しかけていて、ミヒャエラのことも目に入らないようだった。必死で彼を此方側へ引きもどす方法を考えた。愛する彼が壊れるなんて耐えられるわけがない。
だからミヒャエラは、人形のようになった彼を犯しながら耳元で何度も何度も自分こそがミヒャエルなのだと言い聞かせた。彼の記憶がすり替わるまで何度も。時折抵抗する身体を優しく犯して快楽だけを植え付け、耳元で甘い言葉を吐き続けた。
やがて何年かの記憶と引き替えに、彼は正気を取り戻した。正気なのだと思う。完全に正常ではないけれど、壊れてしまうよりはいい。
今でも、彼が何かを思い出しそうになるたびに抱くことにしている。いろいろ試してみたけれど、それが一番効果的で安全だった。
「君が嫌ならやめるけど、どうする?」
「…ミヒャエルの、いじわる…」
拗ねたように尖らせた唇に悪戯っぽく口づけると、ぱっと顔が赤くなる。
「ねえ、僕のこと好き?」
「あ、当たり前でしょ…」
赤くなって、素直ではない言葉を告げる姿はひどく新鮮に映った。喪失感に胸が痛む。
ミヒャエラの知る彼は愛に餓えていて、痛ましいくらいに健気で素直だった。かつては少しくらい意地を張っていても愛されている自信があったのだろう。今の彼のこともとても愛おしいけれど、痛々しいほどに弱くて繊細で、影のある儚い笑みを浮かべていたエリアスのことも愛していた。ミヒャエラが初めて恋をした、うつくしくてかわいそうなひと。彼のことも救ってあげたかった。こんな形ではなく、ミヒャエラとして愛して欲しかった。いつかは、すべての記憶を取り戻しても耐えられる時がくるのだろうか。
もし死んだのがミヒャエラだったらこんな風に壊れなかったのだろうかと思うと、凄まじい嫉妬と悲しみを覚える。ミヒャエルを死なせるつもりはなかったのだ。ミヒャエラはただ、エリアスを奪い取れれば良かったのだ。ミヒャエルが気づくように首筋に痕を付けて、追跡している彼に見せつけるように口づけた。嫉妬させて別れさせるつもりだったが、まさか自殺するとは思わなかった。あんな風に死なれてしまっては、彼のことが心に残ったままだろう。最期まで卑怯な男だ。最期の最期まで、彼を泣かせて、心まで奪っていくなんて。
「ミヒャエル…?」
「あ、ごめんね。ちょっと考え事をさ」
不思議そうに首を傾げる彼に笑いかけた。それならいいけど、と言う声に心配の色が混ざっていて愛おしくなる。
ミヒャエルがこの世にいないことなど忘れてしまえばいい。心に彼が残っていたとしても、こうして触れられるのは自分だけなのだ。あの世で精々嫉妬していればいい。
細い首筋に唇を落とす。青緑色の瞳がどこか期待するような色を帯びた。彼が真っ直ぐな愛を向けてくれるだけで十分だ。ミヒャエル、と呼ばれる痛みにも耐えてみせる。その代わり、彼は他の誰かに触れようとはもう思わないだろうから。
これからは永遠に、彼はミヒャエラだけのものだ。




最近、おかしな夢を見る。
ミヒャエルが人が変わったかのように働きもせず遊び暮らしていて、それに耐えきれなくなった自分が十も年下の男、しかも生徒と浮気をしてしまうというおかしな夢だった。
どうしてそんな夢を見るのかさっぱりわからない。優しくて頼りになるミヒャエルが毎日ごろごろと遊び暮らしてエリアスを召使いのようにこき使うはずはないし、エリアスがミヒャエル以外を愛するはずがない。夢には願望が出ると言うけれど、まさかそんなことを望んでいるわけがないし。
その夢はいつも、ミヒャエルの死体を見つけるところで終わる。何度揺さぶっても既に硬直しはじめた身体はぴくりとも動かなくて、目の前が真っ暗になる。そして一気に後悔と悲しみと絶望が押し寄せて呼吸ができなくなる。死体の感触や自分の喉から漏れる悲鳴が妙にリアルで、本当のことなのではないかと錯覚しそうになるくらいだ。
ただの夢でしかないはずなのに、電話に出るのが怖くて仕方なかった。ミヒャエルを毎日見送るのも寂しくて、側にいる時には無意識のうちにくっついてしまう。
夢の話をすると、ミヒャエルは決まって優しく笑ってくれた。おかしな夢を見たね、と慰めてくれる。彼は本当に優しい。そんな彼が死ぬ夢を見るなんて、どうかしている。
エリアスはどうやら心の病気になってしまったらしくて、最近就職したばかりの仕事も辞めなくてはならなくなった。手続きはミヒャエルがしてくれた。何故病気になったのかは覚えていないが、ミヒャエルがそう言うのだからそうなのだろう。たしかに記憶が妙に混乱していたり、電話を取ることや夢を見ることに恐怖を覚える今の自分がまともとは言い難かった。その代わり、家事だけは完璧にしようと思っている。
人と会う機会はめっきり減ってしまったけれど、ミヒャエルさえいてくれればエリアスはそれだけで幸せだった。



*← →#

TOP - BACK




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -