ミヒャエリ 痛い話の続き 仲直り話




ミヒャエルは必死になってドアを押さえていた。どんどん、とけたたましい音が鳴り響いている。
未だ幼さの残る枯れた声が、ドアを開けろとミヒャエルを責め立てた。最初は耳を塞いで、ベッドにうずくまって耐えていたのだ。どうしてもエリアスの顔だけは見たくなかった。会ってはならないと思った。お互いのために良くないだろうから。
けれども、耐えきれなくなるくらいしつこいしうるさい。一定間隔で叩いてくるのが余計に苛立ちを助長する。借金取りか何かのようだ。流石のミヒャエルも痺れを切らして叫ぶ。
「お願いだから帰ってよ!」
「いいから開けろってば!」
ミヒャエルの言葉など無視して、枯れた聞き取りにくい声が叫ぶ。困り果てて泣きたくなった。人形みたいなおとなしそうな顔をしているくせに、昔から言い出したら聞かないのだ、エリアスは。絶対に顔を合わせたくないのに、こちらの心情など全く汲んでくれない。何を考えているのかさっぱりわからない。あんなことがあったのに、何故自分に会いに来たりするのか。
「開けてって言ってるだろ…!」
枯れた声が恨めしげに叫ぶ。音はどんどん強まるばかりで、一向に弱まる気配すらない。そのうち体当たりでもするのではないだろうか。下手をしたら魔法を使うのかも。頭が痛かった。他の部屋の連中は何事かと思っていることだろう。近所迷惑にもほどがある。誰かに理由を聞かれたら、どう答えるつもりなのだろう。
「あぁ…もう」
深くため息をついた。開けないと一日中でもドアを叩き続けるのじゃないだろうか。冷静に見えるくせに、エリアスはたまにとてつもなく感情的で我が儘だ。根を上げる形で扉を開けた。
「え、」
目の前に現れた姿に息を飲む。
彼の顔は蒼白を通り越して、土気色をしていた。脂汗の浮いた、生気のない顔の中で、青緑色の瞳だけが変に輝いていた。安心したような力の抜けた笑みを浮かべて、やっと開けてくれたね、と掠れた声が言う。
「わ、」
糸が切れたみたいに倒れ込む小柄な体を慌てて抱き留めた。触れた体は燃えるように熱い。慌てて彼の名を呼んだけれど、くたりとくずおれた体はぴくりとも反応しなかった。
医務室に連れて行かなくては、と一瞬思い、直後その考えを打ち消す。脆弱な肌にはまだ、あの時の痣が残っていた。もし誰かに見られでもしたら大変なことになる。ミヒャエルのことが発覚するのはかまわない。それだけのことをしたのは自分が一番よくわかっている。けれど、彼は。医務委員や教師は、彼が受けた傷について問うだろう。掛け値なしの善意と心配によって。それがエリアスを深く傷つけることになるとは夢にも思わずに。
ミヒャエルは悩んで、結局彼を自分の部屋に招き入れることにした。軽い体を抱きかかえるようにベッドに運ぶ。タオルを濡らしてきて額に乗せ、毛布をかけた。何度か看病したことがあるから、もう手慣れたものだった。
体が強くないくせに意地を張って無理をして、すぐに体調を崩すのが、とても腹立たしくて心配でたまらなかった。それが原因で何度も喧嘩した。けれど今、彼が色を無くした顔で横たわっているのは、他の誰のせいでもない。ミヒャエルのせいだった。
苦しげに呼吸する小さな顔を胸が張り裂けそうな気分で見つめた。あの日もこうして、気を失った彼を見つめていた。小さな躯を組み敷いて揺さぶっていた時の熱病じみた悦びや高揚感は、すぐに罪悪感にすり替わった。涙の筋がいくつもついた頬を泣きながら撫でた。名前を呼んだら笑って答えてくれないだろうかと、有り得ない夢想を抱いた。
しどけなく開かされた細い真っ白な足に、血とローションとミヒャエルのものが混ざり合ったものが伝っていたのが、今でも強く目に焼き付いている。そんな資格はないとわかっているのに、どうしようもなく痛ましくて苦しくてならなかった。大事なものをこの手で壊してしまったという気の狂いそうなほどの激しい悔恨。謝ったところで許されはしないだろう。きっともう、友達にも戻れない。
ともすれば漏れそうになる嗚咽を、懸命に耐えた。泣きたいのはミヒャエルではないはずだ。明らかな陵辱の跡を隠すため、彼の体を拭いて衣服を整え、部屋に運んだ。加害者の分際で滑稽かもしれないが、なるべく丁寧に、優しく触れたつもりだ。そんなことしかできない自分が情けなくて許せなかった。
親友でいられさえすれば、それだけでよかったはずだったのに。男同士で、恋愛感情を持っているのは自分だけだった。彼は普通に女の子と恋をするだろう、という確信があった。触れ合えなくても、側にいられればいいと自分を騙した。一番の親友として、大事にしていくつもりだった。日々募っていく劣情を押し隠して、何も知らない彼の笑った顔を一番近くで見つめていた。それだけで幸せなのだと必死で思いこもうとした。
けれどあの日、全てが終わったあの日に、見てしまった。彼が見知らぬ男に告白されて、無理矢理抱きすくめられるところを。小さな体が他の男の腕の中にすっぽりと納まっていた。ミヒャエルの大事な人が。ひどい目眩がした。必死で見ないように抑えてきたどろどろした感情が溢れた。それなら先は、転げ落ちるように。
あの日にすべてが終わってしまったはずだったのに、どうしてエリアスは自分のところに来たりしたのだろう。体調の悪い体をわざわざ引きずって、加害者であるミヒャエルのところに。決して期待などしてはいけないことはわかっていた。どんな罵倒でも甘んじて受けよう。彼にはそうするだけの理由があり、ミヒャエルには断罪される理由があった。




薄く目を開く。ひどい寒気がしていたけれど、額に置かれたひんやりとしたタオルの感触が心地よかった。
目線だけを動かし、ミヒャエルの姿を視界に捉えて安堵した。彼はベッドの横の椅子に掛けてうなだれていた。良かった、ちゃんと側にいてくれた。前みたいに置いて行かれなくて本当に良かった。
「ミヒャエル」
絞り出した声はしゃがれていて別人みたいだった。この間叫びすぎたせいだ。細い肩がびくりと跳ねる。おそるおそる、といった感じに上げられた顔は青ざめて窶れていた。酷い顔だ。食事は、ちゃんととっているのだろうか。僕も人のことは言えないけれど。
「なんて顔…してるのさ」
無理にへらりと笑ってみせたのに、ミヒャエルは泣きそうだった。そんな顔は見たくなかった。いつもの笑顔の方がずっと好きだ。
「手当て、してくれたんだよね。ありがとう」
ごめんね、と続ける。それでもミヒャエルはじっと押し黙ったままで、寂しかった。こうして手当てをしてくれたのだから、少なくとも嫌われてはいないと思いたい。さっきの、困ったみたいにドアを開けた顔は、確かにいつものミヒャエルに見えた。優しい彼は幻想ではなくちゃんといたのだという安堵で、無理矢理動かしていた身体から力が抜けた。
正直に言う。本当は、ミヒャエルに会うのが怖くてたまらなかった。また別人みたいな顔で迎えられたらどうしようとか、この間よりもっとひどいことをされるのではないかとか、色々なことが怖くて心配でしかたなかった。怖いのを押し隠すためにわざと大きな音を立ててノックした。怒られたり、無視されるのも覚悟の上だった。けれど、ちゃんと僕を招き入れて手当てをして、側にいてくれた。僕の知っているミヒャエルは、本当にいてくれた。
熱のせいか、頭は靄がかかったみたいにぼうっとしていた。また眠りに落ちそうになる瞳を無理矢理開き続けた。今眠ったら、今度はもう会ってくれない気がする。
「どうして、あんなこと」
色々な思いを込めて問いかけた。それを聞くために、ここに来た。
ミヒャエルは何度も口を開いて、閉じてを繰り返した。言いたくないのだろう、とは思う。でも僕も、引くつもりはなかった。明確な答えがほしい。答えてくれるまで居座る。言い出したら聞かない僕の性格なんて君が一番知ってるだろう。
「君の、」
ぽつりと呟かれた言葉の続きを、おとなしく待った。じっと彼の瞳を見つめた。一言も聞き逃したくはない。
「…君のことが、好きだったから」
血を吐くような声で告げられた言葉に、ぼんやりと瞬いた。頭の中で反芻する。好き、か。
「…それは、考えなかったな…」
あの日からこれまで、何度も何度も考えたけれど、それは思いつかなかった。嫌いだからとか、恨んでいるとか怒っているとか、そちらの方がまだ理解できたような気がした。だってミヒャエルはいつだって、とても優しかったから。あんなことをするくらい、思い詰めてしまったのだろうか。だとしたら僕は、残酷なことをしていたのかもしれない。
勿論、自分が全部悪かったなんて、殊勝なことを言うつもりはさらさらないけれど。そんなに自己犠牲精神に溢れてはいない。そもそも僕の性格はあまり良くはない。
ミヒャエルは好きだった、と言った。それなら今はどうなのか、と聞くほど鈍くはない。彼が時折、ひどく複雑な視線で僕を見ていることにはなんとなく気づいていた。その意味までは深く考えなかった。今はもう、違う。
「少し、考えさせてくれないかな…そんなこと、考えもしなかったし」
「でも、僕は、」
「なかったことにするのは嫌なんだよ」
起こったことから目を逸らして、見ないふりをするのは嫌だった。あれは夢ではなかったのだと、もう認めた。認めざるを得なかった。そこから前に進まなくてはならない。ミヒャエルも、僕も。わがままに巻き込んでいる自覚はあるけれど、僕だって涙が出るくらい痛かったのだ。それくらいのわがままは聞いてほしい。
「でも…僕は、君に、ひどいことをしたんだよ」
苦しげに言うミヒャエルの襟元を、ぐいと引っ張る。よろめいた身体に抱きついて、そっと唇に触れてみた。あの日とは違ってミヒャエルの唇はかさついていた。緑の瞳が激しく瞬くのを見て、胸のすく思いがした。やられっぱなしなんてのはまっぴらだ。ミヒャエルにだけは、負けっぱなしでいたくない。
「心配しなくても、君のことなんて、全然怖くないんだからね」
そう言って笑ってみせると、ミヒャエルは泣きそうな顔で僕を抱き締めた。痛いくらいの力で、息が止まりそうになる。
「エリー、君が好きだ、好きだよ…!」
震えるような涙声で叫んで、強く抱きしめてくる彼のことが、なんとなく愛しかった。少しだけ手を伸ばして、黒い髪をわしゃわしゃと撫でてみた。悪くない手触りだ。
ミヒャエルを恋愛感情で好きなのかは、正直まだわからない。身近すぎたせいか、そういう対象として考えたことはなかった。これから時間をかけて、検討してみようと思う。これまで散々我慢させた挙げ句に待たせて悪いけれど、ちょっとした仕返しにもなるかな、とも思う。僕は結構意地が悪いのだ。しばらく待たせたとしても、ミヒャエルはもうあんなひどいことはしないだろう。それくらいのことはわかる。
あんなことをされても嫌いにはなれなかったし、側にいてくれないと寂しいことは確かだった。側にいる理由なんてとりあえず、それで十分だろう。



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