エリアスには年の離れた兄がいて、二人で暮らしている。
二人が住んでいるのは大きなお屋敷だ。兄はミヒャエルという名前で、背が高くて格好いい。おまけに頭も良くて優しいので、エリアスは兄のことがとても大好きだ。
両親の顔はよく覚えていない。物心ついた時には既に兄と二人きりだった。聞いてみたことはあるけれど兄は何も教えてくれなかった。だからそれ以来何も聞いていない。おそらくは死んでしまったのだろうと思っている。
エリアスは唯一の家族である兄のことが大好きだけれど、たまに怖いと思うことがある。友達と遊んでいると、たまにじっと見つめていることがあるのだ。その時の兄はいつもの優しい兄の顔ではなくて、爬虫類じみた冷たい目をしている。そういうときの兄は別人のようで薄ら寒いような思いがする。そういうとき、兄は本当は自分が嫌いなのではないかと思ってしまう。好きだよ、愛しているよ、と毎日言われるのが本当なのだと思っているけれど。
「ただいまー…」
しんとした玄関に高い声が響く。エリアスが家に帰ってきても、家の中には誰もいない。エリアスは小学校に入ったばかりだけれども、兄はもう働いているから遅くなるのは当然だ。兄がいない間寂しいから遊びに行きたいのだけれど、この間友達と遊んでばかりではいけないと言われたばかりだ。
そう、兄はエリアスが友人を作ることを嫌う。何か誤解されているのではないかと思って友達を紹介しても、決まって兄はあの子と遊んではいけないと言うのだ。どうして好きな子と一緒にいてはいけないのだろう。学校の先生はおともだちをたくさんつくりましょう、と言うのに兄は正反対のことばかり言う。文句を言うだけではなく哀しそうな素振りさえしてみせる。兄を悲しませたくないから、自然と友人とは疎遠になってしまう。
「あーあ、つまんないなー…」
ぼそりと呟いた言葉はがらんどうの家に響いた。兄は遊び道具もあまり買ってくれないし、テレビも一人のときには見られない。絵本だけはたくさん買ってきてくれるけれど、すぐに読み終わってしまう。もっと大人っぽいのが欲しいと強請っても聞いてくれない。君のためにならないと兄が真剣な顔で言うので我慢している。
エリアスは一つため息をつくと、ランドセルを机にかけて、宿題のプリントに取りかかった。学校の勉強はとても簡単なのですぐ終わってしまう。そうすると兄が帰ってくるまですることがない。絵本だって一人で読んでも楽しくない。暇で暇でつまらなくて、ベッドの上に寝転がった。早く兄が帰ってきてくれないだろうか。そうしたら二人で遊べるのに。
がちゃがちゃ鍵を開ける音で目を覚ます。眠い目をごしごし擦りながら玄関へとてとて歩いた。玄関の乏しい光の下で、灰色のスーツをきっちり着た兄がただいまと優しく微笑んだ。買い物帰りだろうか、スーパー袋を手に提げている。
「おにいちゃん」
兄を呼ばわると、ミヒャエルはにっこりと笑ってエリアスを抱きしめた。丁寧に撫でつけられた黒髪からは微かな整髪剤の匂いがする。
「ただいま、エリー」
そう言ったかと思うと、兄は屈み込んでエリアスの小さな唇に口づけた。侵入してくる舌に応えて、何度も短い口づけを交わす。とろりと甘い痺れが脳に走ってぼうっとした。
「ん、は、」
唇が離れると互いの口の間に銀糸が引かれる。荒れた息のままおかえりなさい、と言うと兄は嬉しそうに笑った。
おかえりなさいといってきますの時はこうするのだと兄に教えてもらった。家族は当たり前にすることなのだそうだ。ちょっと息苦しいけど、気持ちいい気もする。
「おにいちゃん、遅いよ」
唇をつんと尖らせて文句を言うと、兄は破顔した。怒っているのに笑うなんて変だ、とますますむくれる。
「遅くなってごめんね。僕がいないと寂しいかい」
「さみしいよ。だっておにいちゃんがいないとひとりぼっちだもん」
そっか、と兄は笑ってエリアスの頭を撫でた。ふわふわしてくすぐったい。ぼくはそんなにこどもじゃないのに、と不満に思う。
兄は上機嫌のままエリアスの身体を抱き上げた。同級生の中でも小柄な身体は軽い。細い腕を回して兄の身体にぎゅっとしがみついた。
兄はこうしてエリアスを抱っこするのが好きだ。兄は自分を小さな子供だと思っているのではないだろうか。そんなことしなくてもいいのに、と頬を膨らませてみても笑って誤魔化されてしまう。
「一緒にご飯食べようね」
「うん」
白い靴下を履いた細い足をぶらぶらさせてこくりと頷く。昼食以外は兄と一緒に食べるのが決まりだ。担当はまちまちで、兄が作ることも自分が作ることもある。
台所につくと、兄の腕からぴょこんと降りる。エプロンを付けて、小さな身体を懸命に伸ばしながら食事を作る。兄が美味しいと言ってくれるのを想像しながらご飯を作るのは楽しい。最も、兄はたいてい美味しいと言ってくれるのだけど。
「おにいちゃん、ごはんできたよ」
そう言って、食事の乗ったお盆を小さな手で抱えながら歩く。兄は優しげな顔に満面の笑みを浮かべていた。
「そうしてると、エリーは僕のお嫁さんみたいだな」
「およめさんじゃないよ、ぼく男の子だよ」
テーブルにお盆を置くと、ぶくっと頬を膨らませてそっぽを向いた。女の子みたいだと言われるのは嫌いだと知っているはずなのに、兄は意地悪だ。
兄は大きな手でエリアスの小さな身体を抱き寄せると、ごめんね、と笑い含みの声で言った。
「エリーがあんまり可愛いからさ。怒らないでよ」
「…ぼく、おにいちゃんのおとうとだもん。いもうとじゃないもん」
むっとした声を上げると兄が苦笑する気配がした。彼はわかってるよ、と優しく囁きながら頭を撫でた。たまに兄はとても意地悪なことを言う。
フォークとスプーンを貰って、いつものように兄の膝の上に乗ったまま食事を食べた。オムライスとハンバーグは兄の好物だ。美味しい美味しいと嬉しそうに言われて、誇らしい気持ちになる。小さな頃は下手だったけれど、兄に教えてもらって随分と上手くなったのだ。出来ることが増えるのはとても楽しい。
「エリーは料理が上手だね。偉いなあ」
「…えへへ」
兄に褒められるのが一番嬉しい。一番好きな人だし、憧れているのだから当然だ。将来は兄のようになりたい。背が高くて格好良くて仕事もたくさんできるような。
「本当にエリーがお嫁さんになってくれたらいいのにな。僕のお嫁さんになるのはいや?」
「…だってぼく、男の子だよ。およめさんは女の子がなるんだよ」
「そんなことないよ。僕はエリーがお嫁さんになってくれると嬉しいな」
兄が頬を包んで真剣な顔で言ったので、ぱちぱちと瞬いた。そんなの変だ。お嫁さんは女の人がなるもののはずだ。けれど兄があまりに真面目な顔をしているので、そうなのかもしれないと思ってしまう。
「でも…そんなのへんだよ」
「そっか…エリーはお兄ちゃんが嫌いなんだね」
兄があまりに哀しそうな顔をするので、慌てて頭を振った。兄のことは大好きだ。たった一人の家族なのだから。
「ぼく、おにいちゃんが一番すきだよ」
「よかった。なら、僕のお嫁さんになってくれる?」
「うん…」
しぶしぶ頷くと兄は笑みを浮かべてエリアスをぎゅっと抱きしめた。兄の心臓の音が聞こえてどきりとする。何か変だけれど、兄がこんなに喜んでいるのならそれでいいかと思う。本当は兄と一緒に仕事がしたかったけれど、結婚して一緒にいられるのは悪くないかもしれない。
「よかった。それなら、一生僕と一緒にいようね」
「およめさんだもんね。ぼくがおとなになってもずっといっしょ?」
小首を傾げてじっと見上げると、緑の瞳が不穏な色を宿した気がした。瞬きを一つする間に兄の顔はいつもの笑顔に戻っていたので錯覚だろうと思う。
「エリーは大人にならなくていいんだよ。そのままが一番可愛いよ」
「ええ、でもぼく、おにいちゃんみたいにかっこよくなりたいの」
「エリー」
兄は哀しそうな、そして咎めるような顔になった。何故兄はそのような顔をするのだろう。兄を傷つけるようなことをしてしまったろうか、と焦りが生まれる。兄はとても格好いいから、自分もそうなりたいと言っただけなのに。
「あのね、実は……今まで黙ってたけど、エリーは大人になったらだめなんだよ」
「え…?」
「エリーは、大人になったら死んじゃう病気なんだ」
「うそ」
冗談の可能性を期待して笑顔を作ってみたけれど、兄の顔は哀しげで真剣なものだった。すぐに笑みが引っ込んで泣きそうになる。小さな心が急に知らされた事実に張り裂けそうになった。
「やだ、こわいよおにいちゃん…!ぼく、しにたくないよ」
「怖いよね、エリーは大人になんかなりたくないよね?」
「うん、うん…!」
ぽろぽろ泣きながら兄の身体に顔を埋める。まだほんの少ししか生きていないのに、死ぬなんて考えたこともなかった。こわいよ、としゃくりあげるエリアスの背中を大きな手が撫でる。
「エリー、大丈夫だよ。僕はエリーがずっと子供でいられるようにしてあげるからね」
「ほんと?」
涙に濡れた瞳で見上げると、兄は優しく笑った。僕は魔法使いだからね、と優しく囁く。もう大人になりたいという思いはすっかり消えていた。死んでしまうより、子供のままずっと生きていられた方がいい。まだ幼い、なにも知らない子供はそう思った。
「なら、ずっと子供のままにしてあげるね」
「うん…ありがとう、おにいちゃん」
心の底から礼を言うと、兄は優しく笑ってエリアスを抱きしめた。ぎゅっと大きな体にすがりつく。兄がいてくれて、本当によかった。兄のそばにいれば、きっと怖いものから守ってくれるだろうから。




ベッドの上で、泣き疲れて眠る小さな弟を優しく撫でた。白桃のようなあどけない頬は人形のように美しい。
弟のエリアスは、ミヒャエルの理想通りに育った。華奢な身体も素直な性格も、ミヒャエルが作り上げたよつなものだ。おにいちゃん、と呼び慕ってくれる姿を見つめるたび、我を忘れそうになる。おかげでミヒャエルは何度も情動を抑えなければならなかった。それを押しとどめたのは理性ではなく更なる欲だ。彼を自分のものだけにしたいという欲望。
「…ずっと一緒だよ、エリー」
眠る彼に向けて、優しく囁いた。この幼い弟を守る為なら何だってしよう。ゆくゆくは外に出さないようにして、ミヒャエルだけのものにする。この子は大人になる必要などない。今の姿と性格こそがミヒャエルの理想なのだから。
彼を本当の意味で手に入れる日を夢想して微笑みを浮かべながら、手触りの良い灰白色の髪を撫でた。



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