sleep tight

2011/05/27 23:38


もう五月も終わる。ついこないだまで青白い冬だったのが、春をすっ飛ばして夏が来てしまったような気分だ。どこまでも冷えたヤスリが耳の軟骨を撫ぜて、そのまま削られて北風にさらわれる気さえした、鋭く冷たい冬はもうない。ないのだ。

カフェの円いテーブルに向かって何やら書き物をしている女の背中を見ていた。下着に収まり切らなかったふっくりとした脇腹と、日に焼けていない二の腕の隙間の向こうに万年筆を忙しなく走らせている右手が見えた。青いインキらしかった。その手の動きは勉強というふうでもなく、手紙でも日記帳でもないようで、あらかじめ書かれる言葉が逐一定められているかのように、淀むことがない。青いインキの連なりが延びてゆくのをしばらく眺めていたが、女がふいに背筋をしゃんと正して脇を閉じてしまったので、その光景は遮られてしまった。

実家を出て大学生活を始めた当初も、自分は随分と独り言の多い娘なのだなと感じた。整然と連なる直方体、コンクリートの箱。学生寮の一室で吐き出されては行き場なく立ち消えていった言葉。また最近独り言が多くなって、もはやそれは独り言なんてものではなく、うわ言に近いのかもしれぬ。昨晩なんかはリビングの掃除をしながら、レモネードと連呼しているのに気付いてたいそうびっくりした。レモネード、レモネード、レモネード、レモネード‥‥



先週に日記帳の頁が全て埋まってしまったので、新しい日記帳に書き込む前にひと通り読み返してみた。随筆と呼べそうな小品、覚え書き、有り体に進路に関すること‥‥しかしながら卒業研究にまつわる諸々が大半を占めているのだった。自分に言い含めるように、それはもう愚直なまでに情熱と思索と疑問がびっしりと書き込まれていた。そして私は文学生の端くれの記録の隙間にひとつの問いを見つけるのだった。「私はほんとうに歳をとるの」。私はどうしようもなくなり、鮮やかなブルーのワンピースの裾を指先が白くなるほどに握りしめて、開け放したクローゼットに寄り掛かった。日記帳を読み終えたらクローゼットに仕舞う心づもりでいたのだ。二十着もの吊るされたワンピースに顔を埋めて、ライトブルーの香りで肺を満たして、そしてまた吐き出して、その繰り返しだった。

歳を重ねることが怖いわけでは決してない。身体を皺だらけにして、瑞々しさを失い、限界など持たぬかのように走り抜けることが出来なくなるのを怖れているのではない。そんな時は来ないような気がしているし、私は私の数年後をちいっとも想像が出来ない子であったし、将来の夢という問いはこの上なく厭わしいものだった。外見の成長がとどまったいま、私はもう歳を取らないような、そんな気さえしているのだった。





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