2012/04/15 13:31


(11.12.31の日記から)




 四年間と半年住み続けた学生街から、ひと駅ぶん南に下った海沿いの町に越してひと月が経った。固形としての性質を濃く保ったままの雪が積もりに積もって、いつもより高くなった地面に恐る恐る足を乗せるときの、あの頼りない感触。ブーツの靴底をそろりと雪のうえにあてがったまま、そこから全ての音が吸い込まれたまま戻らないような気がして、静止してしまう。そして重力と少しの加圧によって圧縮される白、踏みしめられてゆくその厚みは、今まで過ごしたぶんの冬を身体の内側から揺り起こしてゆくのに十分だった。

 帰省すると必ず散歩に出る。実家から旧国道を通り、新国道に繋がった橋のあたりまでが、もうずっとお決まりのコースだ。
 うすく煙る薪ストーブの煙が、金の筒を継ぎ合わせた煙突からゆるゆると押し出されてゆく。河口を見つめるとき、洗剤の泡が渦を作って排水口に消えるとき、私はいつも希釈と世界の純度のことを考えてしまうのだった。

 落石注意の立て札のあるあたりで、ちょうど小さな雪崩に遭遇した。暖かい日であったから、積まれた雪の層が水に還ったところを滑り落ちたのだろう。細い道路の半分ほどを塞ぐように崩れていた。斜面の地肌をいくらか削った雪にはつちくれの細かいのや草が根こそぎくっついたものがあって、耕したあとの、春の土のにおいがした。

 季節はいつもそれだけで存在するのではなく、時おり他の季節が忘れ形見のように残していった何かしらがうっかり顔を出してしまうときに、初めて気がつく。
 鳥に喰われたいちじくの実、乾いて瑞々しさを失いひび割れた果肉の断面、採られず枝にぶら下がったままの柿や南天の、はっとするような恵みの色。冬のなかに忽然と、空白以上の異質さをもってそこにある、春、夏、秋。



 実家に帰ると、ふだん視聴しないぶんを取り戻すかのように、まあとにかくテレビを点けているのだった。私はアパートにテレビを置いていないので、そのぶん何かをまとまった時間“視る”というのはインターネットに注がれているわけだけど、高速回線も、携帯の電波も、この山にはないのだった。たくさんの“視る”を失った身体と頭は、たとえば昼寝とか、わかりやすい空白に落とし込むにはちと頑固で、いくらかは読書と作文と想像と散歩に向くのだけれど、やはりテレビに落ち着いてしまう。

 熱心に視聴しているわけではない、BGMのように音声を流していて、それすら詳細に認識はしていない。声のトーン、速さ、小声の表面をまるめたざわめき、その散らばり、圧縮。
 内容を理解せずとも、たくさんの声を耳に通すというのはどうにも疲れるのだ。それは実際に人混みのなかに身を置くことで迫る騒がしさとは全く異質のもので、集音マイクからスピーカーまでの間の信号化の過程で濃縮されているのか、でろりと首根っこのあたりに絡む。

 駅伝を見ていると、選手たちの逞しく筋肉のついた、それでいてすらりとした脚に目がいくわけだが、走っているからには片足ごとに地を離れ地に着きを繰り返すわけで、靴底がアスファルトに着いた時、当たり前だけどもその片脚で全体重やら重力やらを支えるわけで、それまで宙に浮いた脚が唐突にその漂いを衝撃とともにせき止めらた瞬間の、あの肉のふるえ。重力が骨のなかを突き抜けていくような、するんと肉のなかから抜けてゆくイメージで頭はいっぱいになってゆく。そして内臓が飛び出して来やしないかと私ははらはらするのだった。


 駅伝に限らず、スポーツにじいっと見入っているときは大体においてそのようなことを考えている。“いきもの”を感じている、かつて自分が跳躍と疾走をしていた時より、ずっとずっと。
 だからいつまで経ってもルールを覚えられないのだ。





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