春の日の翳り

2011/03/23 23:03


本来ならば華やかな卒業式が執り行われるはずだった今日、一番広い講堂で学位記が授与された。見知った顔も、ついぞ言葉を交わすことが無かった顔も一緒くたになってざわめきが生まれる――学校で喧騒に触れるのは実に久しぶりであったので、私はいくぶん戸惑っていた。というのも、入学式のあの期待に満ちたざわめきを思い出していた自分がおかしく思えたからだった。ふいに肩を叩かれたので振り返ると、英文学の教授がいつもの笑みを湛えていた。無事だったか、との問いに、ええ先生も、と返して式次第を軽く確認する。

声をかけるよりも先に、誰かが手を振り誘ってくれる。指定された座席を確認するよりも先に、誰かが手招きをしてくれる。こんな日々はもうきっと来ないのだ、今日が最後なのだ、そういやに感傷的な気持ちで腰を下ろした。晴れているのに雪がびょうびょう舞っていて、スーツにマフラーだけを巻いてきただけの格好を少しだけ後悔した。

受け取った学位記をしげしげ眺めたり、写真撮影の群れに巻き込まれたり、留学帰りのクラスメイトの土産話を聞いたり、いかにも学生といったふうに学食でお昼を頂いたり。そうして私は卒業した。帰り道に友人ひとりの肩をつついて、ね、あのさ、アイス食べ直さない?と囁いたところ、盛大に吹き出されてしまった。そんなに笑わないでよ、と私が口を尖らせると彼女は顔をくしゃくしゃにして、うん、今度はゆっくり食べよ、と頷いた。





ふたつ前の金曜日の朝、私は卒業生名簿に自分の名前を見つけた。正式に卒業が決定した喜びは自分の身ひとつで受け止めるには余りあるもので、私と彼女はラーメンを食べに行く約束をして、落ち合った。やっと気が抜けた感じ!と緩み切った顔で麺を啜りながら、他愛のない話をしていた。いま思うにあれは前震だったのだろう、揺れの話もしたのを覚えている。最近あちこち地震が多くてやあねえ、そんな調子でぼやいてみては他愛もない話題へと次々に飛び回る。平和なガールズトークだった。

その日の四時に歯医者の予約を入れていたから、それまでの二三時間を潰すように、解放感の滲んだ金曜の午後の街へと彼女と出て行った。生まれてこのかた雪国で育ったけれども、まだうんと身を切るような風が吹いているのに、空調になびくほど軽やかな春服がディスプレイされているのは慣れぬなあ、とファッションビルを冷やかす。ロフトで雑貨や化粧品などをひと通りチェックしたのち、アイスでも食べて休んだら時間の尺が合うのでないの、と店に入った。ね、ゴロゴロ歯応えあるやつってどれなの、と元アルバイトの彼女に訊いて、私はナッツとチーズケーキのものをダブルで頼み、彼女はクレープを注文したのだった。



スツールを通して身体を震わせる力に最初に気付いたのは私のほうで、揺れてない?と問うと彼女は天井から吊られた標識に目をやり、揺れてる、とだけ呟いた。店員さんと他の客もそれを感じ取ったようで店内の空気はぴたりと静止し、壁面いっぱいのガラスは小刻みに震えていた。ガラスの向こうでは、緊張に満ちたこちらが何か間違いのように、買い物に興じている人や通りを足早に歩き去る人たちが何も知らずにいる。そのちぐはぐさが、あまりに怖ろしかった。

長い長い揺れが激しさを増したころには、ゆうに一分は経過していたのだと思う。ロフトの品物が棚からこぼれ始めたのを見たあたりで、ガラスから身を引いてテーブルを楯にするように動いていた。ちかちか、照明が点滅を始めた。危機ゆえの喧騒、悲鳴。そして街は真っ暗になったのだった。

そこからは混乱に飲み込まれていた。
追い討ちをかけるような吹雪のなか、照明と暖房の消えた構内はごった返し、全線運休を叫ぶ駅員の声と子供の泣き声が響く。何度も訪れる余震に怯えていっそう騒がしくなる。ふと天井を見上げると、構内と駅ビルの接ぎ目が剥がれてぶら下がっていた。ね、うちに帰ろ、と帰宅が叶わぬ友人の袖を引いて、吹雪の暗い街を進んだ。



耳が赤くなるころに家に着き、電気と水道が断たれていることを確認する。運よく残されていた浴槽の湯を沸かして(幸いガスだけは生きていた)化粧を落として、足を洗った。仕舞ったままの敷布団と毛布を引っ張り出して、クローゼットからジャージとインナーいくつかを示して彼女にあてがう。互いに、ひとりじゃなくて良かったね、と言い合いながらのそのそと着替えた。

iPodの青白いバックライトがぼんやり照らす部屋で、今日は幸せな一日になるはずだったこと、借りてきたDVDを観るつもりだったことを語らい始めるも、堂々巡りの会話はすぐに途切れてしまう。日常はもう無いのだ。夜ってこんなに暗かったんだね、と彼女はぽつりと呟いた。私は黙ってカーテンを開けた。一点の光さえ無い、雪の白さゆえに認められる建物のシルエットの連なりが、ただただ広がる。光ひとつ無い街を見るのは初めてだった。

八時をまわったあたりで、起きていても出来ることが何ひとつ無いので互いにおやすみの挨拶をした。彼女に毛布を一枚貸したせいで少し冷えるのを気にしながら、上下のまぶたが逆転してしまうのでないかというほどにきつく目を閉じた。あれほど夜を長いと感じたことは無い(二時間に一回は余震に揺り起こされてしまっていたから)。朝の五時には私は眠ることを諦めて、穏やかに晴れ渡った静かな空をひとり眺めていた。

駄目元で郵便受けをのぞくと、特別仕様の薄い新聞が突っ込まれていて大変驚いた。いっそ恐怖を覚えるくらいに目を引く見出しと写真で埋め尽くされた、決して情報量の多いものではなかったれど、地震に出会ったのは現実だったのだと確認するには十分だった。身体が冷える前に部屋に戻ると友人はまだ熟睡していて、本棚にへばり付くように身を屈めている。携帯の充電が残っていたら写真を撮っただろうに、そんなことを考えるくらいにはひどい寝相だった。



こんなにちぐはぐな土曜日の朝は、もう来ないのだと思う。





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