LOST ANGEL | ナノ


03

天使を殺した。
その意識だけが頭の中を支配していた。今まで感じないようにしてきた、目を背け頭の隅で握り潰してきた『罪』として。
必要として命を奪うのは、罪ではなく手段だ。だけど、彼女が欲望と悪意に穢されるのは、たとえその心臓が動いていたとしても罪である。他でもない、俺の罪。

 *

走った。
靴音を鳴らして優雅に歩いてきた明智吾郎だとは思えないほど、醜い足取りで走った。
警察関係者であることを利用して様々な情報を抜き出し、とある雑居ビルへと辿り着いたのは、鈍い光を纏った夕陽がビルの隙間へと沈んでいく最中だった。薄暗い階段を駆け上がった先で事務所名の書かれているガラスの扉を開けると、来客を告げる涼しげなドアベルが鳴った。
近くの部屋から出てきた人間が俺の顔を見て驚いたように目を見開く。部屋の中は強い冷房で寒いと感じるほどなのに、対峙する痩せ細った男の額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。これは、何か都合の悪い事がある時の顔だ。飽きるほど見てきた光景だ。
「あなたは確か…探偵の…」
「はじめまして、明智吾郎です。突然すみません、こちらに羽咋詞さんが来ていると聞いて」
世間に名声が拡がっているとすべての話が早く進むのが良い。効率を求める俺としては何よりも有り難い特典だ。有名税として頭も性根も悪い人間たちからのバッシングに晒される事はあるが、哀れな奴らの喚きなんて見聞きするだけ無駄であり、俺にとってはこういう利点の方が遥かに大きかった。
予想通り、“明智吾郎の顔”で彼女の名前を出すと男は眉間の皺を更に深くさせた。
「探偵さんが何の用ですかね…。今、契約に向けての大事な打ち合わせ中なので、お引き取り願いたいのですが」
「彼女一人で…ですか?」
「社長の意向です。移籍になりますし、保護者やマネージャーが入るとタレントと腹を割って話せなくなるので今回は遠慮していただいたんです。確か、時間になったら迎えに来るという話で…」
「ああ、なるほど。そういう事もあるんですね。すみません、詳しくなくて」
耳に入れる価値もない馬鹿馬鹿しい言い訳だ。その感想を微塵も出さず、あたかも納得したかのように微笑んで見せ、それから眉尻を下げて懐の内ポケットから一通の封筒を取り出した。
「ただ、僕はその現事務所から緊急の依頼があって代理で迎えに来たんです」
「…と、言いますと」
「過激で悪質な脅迫メールや電話が来ているとかで、彼女の事務所から直接保護の要請をいただきました。現事務所としては、大手に預ける大事なタレントに何かあっては申し訳が立たないでしょうし、念には念を重ねたいと」
「それは…“打ち合わせ”が終わるまで待てないんでしょうか」
「彼女のスケジュールが外部に漏れている可能性があります。だから緊急なんです。警察でもまだほんの一部の人間しか知りませんが、事件になる可能性を考慮してすぐにでも保護を…というのが我々の出した結論です。何なら、直接僕が社長さんにお話しても…」
警察が動くと目立つから、たまたま彼女と顔見知りでもある僕――『明智吾郎』に白羽の矢が立った。俺がここにいるための尤もらしい理由だ。彼女の事務所とも、脅迫云々の嘘話については口裏を合わせてある。
裏では散々汚い事をしているのだろうが、表に出しているクリーンなイメージは守りたい筈だ。警察が動いている事に対して、ここで頑なに拒否することはしないだろう。
案の定、下っ端の男は慌てて手前の部屋へと飛び込んでいき、内線でも回したのか、少しして奥の部屋がガチャリと開いた。

「まったく、迷惑な話だ。それに何より事務所の管理が杜撰すぎる。情報が洩れてる可能性だって?ますます早くウチに来た方がいい」

不快感を前面にしながら出てきたのは、中肉中背の中年男だった。彫りは浅めで、奥二重の瞼に切れ長の鋭い目が印象的な顔をしている。額の面積こそ広がってきてはいるが、短めの髪をきちんとワックスで流すように整えており想像していたほどの不潔感はない。成程、こういうタイプか。確かに“あの男”とは馬が合いそうだ。
男に続いて天使が姿を見せ、俺の姿を見つけると大きく目を見開いた。初めて、彼女が“自身の感情”を表に溢れ出させるのを見た。
怯えている――あれは恐れだ。天使の円らな紫の瞳は、恐れと屈辱と、怒りと絶望と降伏の色をしていた。
「すみません、大事なお打ち合わせだった所。お約束の日…二週間後と聞いています。それまでには解決するように努めますので」
「…君が明智吾郎くんか。まあいい、ウチとしてもタレントの安全が第一だ。本契約の期日までは待ってやろう」
こういう人間にありがちの、随分と上からな物言い。その上『タレントの安全が第一』なんて露程も思っていない。こんな頭を下げる価値もない奴に羽咋詞は律儀にぺこりと一礼してから俺の方へと駆け寄ってきた。
「急にごめんね、詳しい事情は車の中で話すよ。迎えが到着する頃だと思うから、行こうか」
「…はい」
目は合わない。あんなに真っ直ぐと俺を見つめた天使が、今はどこか、どこでもない宙にぼんやりと視覚を預けている。
間に合ったのか間に合っていないのかは分からない。
俺は天使を殺してしまったのか、殺しかけるに留まったのか――何も語らない彼女の瞳に答えは映らなかった。

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