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02:彼女と終宵

朝にはまだ晴天だったはずが、どうしてこんなことになったのか。
今日は土曜で、取っている講義もなかったがそれでも大学へ足を運んだのは、すぐそこに差し迫ったレポートの参考資料を探しに来たからで。嵐も近付いているというから目当ての本を借りたらすぐ帰るつもりだったのに、ついつい雀荘へ足が向いてしまい今に至る。
ひろゆきは風雨ふきすさぶ屋外をバイクを押しながらのろのろと歩いていた。こう雨がひどくては雨具を持っていないので運転は危険だと踏んだからだ。どこかで一晩過ごせないかと友人の家の場所やさっきまでいた雀荘のことが過ぎるが、いい加減レポートに手をつけないとやばい。どうせ泊まるならパソコンの繋がるネカフェでも行くかと考えながら歩いていたら、何故かネカフェの方向とは真逆の道にいた。
しかも気がつくと自分の今立っている場所は彼女のアパートの前で。
何やってるんだ、無意識なんて!と雨に打たれていることも忘れて頭を抱える。
彼女の家に泊めてもらうとかそんな馬鹿なことを考えていたっていうのか俺は。
ひろゆきは苦悶していた。


「あれ、ひろくんだ」


頭を抱えたまま振り向くと右手に傘を差し、買い物帰りなのだろう、左手にスーパーの袋を持った名前が立っていた。

「どうしたの? そんなところで。びしょ濡れじゃない、風邪引くよ?」

まさか君のうちに泊まらせてもらうかどうか思案して決めあぐねてましただなんて言える度量はない。
身を打つ雨はますます強くなっていく。押し黙ったままなんて答えるか考えていると、彼女はとんでもないことをさらりと言ってのけた。

「うちに来なよ!」

いまならなんとシュークリームがついてくるんですが、と楽しそうに言う名前の声はまともにひろゆきには届かず。
結局そのまま黙ったままのひろゆきを名前が引きずるように家へ連れるかたちになった。




初めて見た彼女の部屋はきれいに片付いていた。当たり前だが自分の部屋とは置いてあるものが違うな、とひろゆきは失礼とは思いながらも中を見渡してしまう。思えば麻雀にかまけていて今まで女の子の部屋に上がるようなこともなかったなと苦笑する。
びしょ濡れのままのひろゆきを玄関先で待たせ、名前は部屋の奥からタオルを持ってきた。二つあるうちの一つを渡されたかと思うと、自分はさも当然というかのようにひろゆきの頭をわしゃわしゃと拭き始めた。自然と彼女の背丈に合わせるように窮屈に身をかがめる体制になる。視界が制限されて嫌でも全身で彼女を意識してしまう。ひろゆきは必死で空いた手で自分の体を拭いた。
あらかた拭ったところで名前がうーんと唸る。

「どうしよう、シャワー浴びる?」
「いっいいです!」

慌ててひろゆきがかぶりを振ると、まだ拭いきれていない服の上の水滴が散った。

「うわあ、やっぱりまだびしょびしょじゃん!」
そんなんじゃ家に上がらせられないでしょ!と声を大きくした名前に強引に脱衣所に押し込められた。そしてまた引っ込んで男物のシャツと短パンを持ち出してきた名前の様子をどこか冷静に見つめながらもひろゆきは内心混乱しまくっていた。

とりあえず指示された通りにシャワーを済ませて体を拭きとった後、かろうじて無事だった下着を身につけてシャツに手をかけて、動きが止まる。
(誰のだこれ)
普通に考えればこの部屋にたびたび来ているのであろう、男がいるということだ。
彼氏か。
ひろゆきは苛立つよりも先に胸の奥が締め付けられる思いを感じた。
彼氏がいるかどうかだけじゃない。ひろゆきは名前のことを何も知らないのに気付く。
彼女と一番仲がいいのは自分だと何処かで自負していたのかもしれない。だからそういった予感にはなるべく触れないようにしていた。
それでも傍らの自分の服はどうみても袖を通せる状態ではなく。乱暴にシャツをひっつかんで着た。

脱衣所を出ると、台所でちょうど鍋に火をかけようとしていた名前が振り返った。その顔が一瞬赤くなったのにひろゆきは気付かない。

「…いいんですか」
「なにが?」
乾ききっていない髪。風呂からあがりたてのひろゆきを正面から見ることも出来ずに名前は手元に集中する。が、その抵抗もむなしく次の瞬間ひろゆき自身によって崩された。
「男いるのに他の男家にあげたりして」
予想だにしていなかった台詞にぽかんとして声の主を見上げると、少し機嫌が悪い。持ち主のしれない衣服が気に入らなかったのだろうかと名前は首を傾げた。
「それ、お父さんの忘れものなの」
おっさんの服なんか着せてごめんねぇと申し訳なさそうな名前を見て次にぽかんと口を開けたのはひろゆきだった。
「そ、だとしても」
勘違いに顔が熱くなるのを感じて言葉を絞り出す。
「もうちょっと気をつけた方がいいんじゃないですか」
「そうだねぇ、今度からは雨のひどい日にはカッパでも着てこうかな」

的違いにもそう答えて、名前は自分のスカートの裾を持ち上げる。裾には泥がとんでいたが、ひろゆきにとってはその下から覗く脚の方が問題だった。しかしそれも今は苛立ちを募らせる要因に過ぎない。反射的に顔をあげて名前を見つめた。

「違いますよ、俺は年頃の女の子が男を簡単に家にあげるのはおかしいって言って…」
「ああ、そっち。今回に限っては相手がひろくんだもん、別に、ねえ」

ガツンと頭を割られたような感覚に、ひろゆきは目の前が暗くなったような錯覚をおぼえた。名前の言うことはつまり、自分が男として意識されていない。そういうことで。
彼女は相変わらず手元に注意を向けていてひろゆきに目もくべない。名前の不遜としか見えない態度も手伝って、ひろゆきは苛立ちを募らせた。

「それはつまり、俺は男じゃないってことですか」
「そんなこと言ってないでしょ」
「言ってるじゃないですか」
「何ムキになってるの? …今日のひろくん、なんかおかしいよ」

「…なんでもありません」

これ以上押し問答をしても無駄だと折れたひろゆきは、頭上に?マークを浮かべたままの名前を台所に残して居間へ引っ込んでいった。


それから夕食になってもひろゆきは頑として言葉を発さず、名前もおかしな様子のひろゆきに声をかけることも出来ずにいたが、箸の音とTV番組の音楽と喧騒は救いだった。画面の向こうでは最近流行りだしたお笑い芸人がVTRへの入りを無茶振りされている。新人の洗礼といったところだろうか。
それでも二人きりしかいない狭い場所で何も話さずに空間を共有するのはとんでもなく辛いことだ。食器を片付ける間もひろゆきは動こうとせず、テレビ番組を眺めていた。いつもの彼ならこういう時真っ先に気をきかせて手伝ってくれそうなものなのに、と名前は台所でこっそりと首を傾げた。二時間番組の区切りがついたころ、いい加減この空気をどうしたものかと何か行動を起こそうかとしたそのとき。
破裂音と共に視界が遮られる。
「わっ」
驚いて無意識に身を引いてしまい、同時に手にしていたコップを落としてしまう。お気に入りだったそれが足元の暗闇で粉々に砕ける音。つい大げさに息を呑んでしまった。
「名前さん大丈夫ですか?」
居間の方向からひろゆきの声が聞こえて名前は胸を撫で下ろした。暗闇の中で聞こえる人の声の安心感というより、さっきまで黙り込んでいたひろゆきが怒っていないことの証明だ。
「大丈夫、コップ落としただけだから」
「停電みたいですね。ブレーカーどこです?」
みしり、と部屋の敷居をまたぐ音がする。いま台所に入られては危ない。
「あ、こっちにある。戻すから待ってて」
換気扇横にあるはずのブレーカーに手を伸ばした。そのままだと届かないのでつま先立ちになる。バランスを保とうとして足の位置を動かすとチクリとした破片が足の裏を掠めた。
「…っつ」
「名前さん?」
心配そうな声は先ほどよりも近くで聞こえた。
「だめだよひろくん危ないんだってば、破片が」
「スリッパ借りたからどうってことないです。それよりブレーカー」
「ご、ごめんなさい。上です、わたしの上」
妙に声色に威圧的なものを感じて身がすくむ。背後にひろゆきの気配が動いたかと思うと、左肩に重みを感じた。それが手のひらだと分かると、名前は別の意味で体を強張らせた。触れられているところがじんわりと熱い。
「ああ、これですね」
バチン、と音が鳴って照明が回復する。
けれどむしろ体の強張りは一向にひどくなるばかりで。背後のひろゆきは一向に動く気配がない。
「ひろく、ん」
普段通り名前を呼ぼうとしてみたものの、発されたのは僅かに上ずったそれだった。
「…わかりました」
唐突に投げかけられた声に名前は胸をなでおろす。
「俺、男みたいです」
「知ってるけど。ていうか『みたい』って何なの。ひろくんは最初からおと…」
そこまで言って名前の言葉は途切れた。とくに何かされたわけでもない。ふと後ろを見るとそこにいるのがひろゆきではなく別人のようにさえ感じられたからだ。ひやりとした空気を感じ言葉をおさめるしかなかった。
「ひろくん、どうしたの? やっぱり変だよ」
「…」
「長い間雨に打たれてたみたいだし、熱でも出たんじゃ」
額へ手を伸ばして熱を測ろうとした瞬間、
ぐらりと目の前がゆがむ。
何が起こったのか分からず、現状を理解しようと頭の中で回路をせわしなく働かせる。
「うん?」
小さく自分から発された声は静かに響いた。気付けばひろゆきに体の半分を預け、両腕で捕まえられている。片耳が胸に押し当てられていることで、自分の声や呼吸音、耳元で騒がしく鳴る鼓動で世界がいっぱいになる。
理解した途端、息を呑んだ。
頭上を仰いでみれば、きっと容易に顔を伺うことができただろうが、それすら行動に移せない。
「ひ、ひろくん、何してんの」
焦って言葉を捻れば、あー…とひろゆきのいつもの低いテンションで返事がなされる。
「小さいアホな生物を愛でてるんです」
「アホってねえ…こんなことされたら色々考えちゃうんですけど」
「何をです」
「ごかいしますよ?」
「誤解も何も、多分それで僕への認識は合ってると思います」
それから数秒、ううんとかああだとか発しながら考え込みはじめた名前を、もう少し強く抱きしめてみる。
「でも、でもひろくんこそ私のこと誤解してるよ…っ!」
「はあ」
「扱い方で分かるもん、なんていうか…高尚なものに扱われてるっていうか…」
「気付いてても自分で言いますかね、そんなこと」
「とにかく、私だって色々…計算したり打算で動いたりしてたから」
「? どういうことです?」
「ひろくんが私の事をちゃんと女の子として見てくれるようにってこと」
やっとのことで絞り出されたそれに、自分の中で優越感のようなものが占められていくのをのをひろゆきは感じた。
「家の前で雨に打たれてるひろくん見て、チャンスだとか思ったってこと」
「じゃあ、」
はやる気持ちを抑えつつ平静を装いながら次の手を繰り出す。
「そんな策略家の名前さんは、次に俺にどう動いてほしいと踏んでるんです?」

「私のこと、どう、思ってるのか 言って」
行動で示せと言われるかと思っていたひろゆきはその申し出に呆気にとられた。
「…ねえ!」
「好きですよ」
今気づきましたけど。付け足すと名前は眼を細めて俯いた。怒りだすかと思っていたひろゆきは慌てて彼女の顔を覗き込んだ。影をつくった彼女の顔は切ないくらいに儚く見えて、思わず息をのむ。
「私はずっと前から気付いてたよ。ひろくんのことずっと好きだってこと」
「うん」
「合コンとか行ってほしくなかったし、彼女作ってほしくなかった」
「うん」
「それだけじゃない、友達がひろくんのこと気になるとか言うのも嫌なの」
「…うん」
「しつこいでしょ? 私、嫉妬深いから」
「そうかもしれませんけど。でも、俺はそう思ってもらえるの、嬉しいですよ」
「…」
「それも含めて好きなんです」
そこではじめて名前は顔を上げた。瞳に涙を目いっぱいためた彼女の顔を見て、たまらなく胸が疼いた。
身をすくめてひろゆきは名前の顎を掬う。
視線が動き、彼女の丸い瞳と合わさった瞬間、胸に抵抗を感じた。
「やっ…!」
軽く押しのけられて仕方なく間をとる。呆けた顔で見上げると、名前は両手で自分の口を押さえていた。
「まっ…まだ無理っ…待って…!」
部屋の中に盛大に響くのは嘆息の音。
「やっぱり男を家にあげるのはおかしいし、あんたは間違いなくバカがつくほど無垢ですよ」
にっこりと笑顔を見せてみれば、それに反応してびくりと名前は後ろへ引いた。
(ここまで来て引き下がれるか)
ひろゆきは壁際へ名前を追い詰め、今度は簡単に解けないようにしっかりと腕の中へ彼女を閉じこめた。


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