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02

「とりあえず入部の話はまた後日にして、今日は帰りなよ」
 テスト期間なんだから早く帰って勉強してくれ。
 いやな事は後回しだ。彼への対策はテスト期間中に練らせてもらおう。
 とくに花京院は優等生の部類に入るのだからなおのこと親にも教師にも在るべき姿を求められているだろうから。
 しかし期待を込めて発した言葉は勢いよく空振りしたようだ。
「きみこそ早く帰った方がいいんじゃあないのかい」
 花京院のニュアンスには女生徒の帰りが遅くなるのを心配しているというより、うざったそうに対応を続けながらも立ち去らない私を不思議に思う含みがあった。
「美術室に用があるからまだ帰れない」
「…閉まってるのに?」
 普通はここで引くだろうに、花京院はいっそう突っ込んでくる。こんなに他人に興味を抱くような人だっただろうか。いや、でもやっぱり同じクラスの私の名前を覚えていなさそうな辺り、興味など持っていないんだろう。じゃあどうして居座っているんだ、そんなに美術部に入りたいのか。弱ったな。どう言い訳を重ねて諦めさせようか。私の頭の中はそれでいっぱいだ。
「描きかけの油を今日こそ完成させたいの」
 鍵がかかっていることへの直接の返事ではないのに、花京院はそうなんだ、と小さく応じた。
 目の前の男がよくわからない。これほどに全身で邪険に扱っているというのに、思っていた以上に花京院は図太いのかもしれない。柔和そうな微笑みを盾に振りかざすくせに。
「…扉の上に小窓があるでしょ」
「え? ああ、うん。あるね」
「あそこから入るから」
 解り易いように、横の壁の浅い溝に足をかけた。お願いだから早く帰途に着いてよ。
 だのに花京院はその場に立ち尽くしたまま私から目を逸らさず、こちらの動向を窺っている。
 ため息を吐いた。
「スカート」
「え?」
「…覗く趣味ないでしょう」
 いくら花京院の背が高いとはいえ、室内窓の高さは彼の頭上にある。このまま彼が私の観察を続けるのなら避けられない光景だ。いまから壁をよじ登って半開きの窓をくぐるのだから。クタニに閉め出されるのを数度受けて、編み出した苦渋の策だった。幸い、放課後に美術室のあるこちらの棟へやってくる生徒はほとんどいなかったからこそ使えていた技だ。私にも恥をしのぶ心はある。
 ところが、花京院は想像していたのと違う反応を見せた。こともあろうに張り付いたようなお得意の笑顔を失くして、頬に薄っすらと赤をさしている。
 廊下に落ちる陽の光が色濃くなってきた。花京院の明るい髪が赤く染まっているけど、顔が赤いのは差しこむ夕陽のせいだけではないのはありありとわかった。目撃した私までも照れが移る。恥ずかしくなって、そして思わぬ素に口が半開きになった。まさか花京院がこんな表情を見せるだなんて思いもしていなかったのだ。せいぜい「気付かなくて悪いね」とでもさらりと言ってのけるものだと。抱いていたキツいイメージと違う。これでは詐欺だ。
 そのまま、しばし紅潮した私と花京院は互いの顔を見合っていた。決して弱々しい体躯でないのに、背が高いせいか優男に見える彼の顔を初めてちゃんと正面から見た。
 先に動いたのは花京院の方だ。
「僕が下になろうか」
「は?」
 心からの一文字だった。
「危ないだろうし…」
「いい! いらない!」
 ついさっきまでほんのちょっぴりとはいえ照れていたくせに、臆面もなく言ってのけた花京院から一歩引いた。
 勘違いをしていた。花京院は"たしかに人とは違っている"ようだ。場の転換に応じる能力が高い。協調性があるんだかないんだか分かりかねるけれど。
「はやく行ってよ!」
 逆にますます顔を熱くした私を見て青冷めでもすればいいのに。
 ごめん、とだけ言って花京院は廊下の角に消えた。

 ちゃんと彼の姿が消えるのまで見届けて、反対の廊下向こうも確認した。人は、来そうにない。
 学生鞄は廊下に置いておく。壁の出っ張りに足をかけ直し、もう片方の足で壁を蹴りあげた。窓に手が届く。勢いに任せて開きっぱなしのそこに体ごと投げ込んだ。胸とお腹がサッシに当たって痛かった。自分の体重全てがそこに一点集中するのだから仕方ない。美術室の壁際にある、画材を収めた棚の上に、身をよじりながら移った。
 かくして封じられた美術室に忍びこんだ私は、床に着地するなり廊下の鞄を取り戻すべく鍵を開けた。重たい画材を詰め込んできた学生鞄を、汚れるのも構わずひきずって手繰り寄せた。
 その時になって廊下向こうから誰かの気配がした。足音も響いている。テスト期間中に残っているような生徒は職員室前の自習ルームか教室、もしくは鉄板の図書室にいるものと相場が決まっている。この美術室がある棟はそのどの部屋とも遠い位置にあるから本来ならば誰も来ないはずなのに。
 もしかすると教員が何か用があってこちらの棟に足を運んだのかもしれない。施錠されているはずの教室で見つかれば私はお咎めをくらってしまう。クタニに告げ口されたらそれはもう面倒なことになる。
 慌てつつも音をたてないようにゆっくりと閉める。お願いだからどうか間に合って。
 なのに、そんな私の思いも裏腹に戸は数センチの隙間を残してひっかかった。手ごたえがおかしい。誰かが戸の向こうで強い力で押さえつけているような。
 扉の向こうに影が立った。体が、ふるえた。
「すごいな。本当に入ったんだ」
 戸の窓に映った影が言う。おそるおそる手に込めていた力を緩めると、戸はあっさりと開けられた。
 花京院が興味津々といった様子で私と、美術室の中を見渡した。

 私は…普通を装っている花京院から目が離せない。
 夕陽を背負ってオレンジに輪郭を染め上げられた花京院が、ほんの一瞬グリーンをまとっていたように見えたのは眩しさに目を細めていたがための錯視としか考えられない。私は現実主義なのだ。オーラが見えるだの霊体験があるだの、オカルトを騙る人間を鼻で笑ってきたような人間なんだから。
「きみの絵は?」
「隣の、美術準備室に…」
 たどたどしく発した言葉に花京院は表情一つ変えずに私の横を過ぎった。
 私が呆けている間に手際よく花京院は資料室から塗り途中のキャンバスを持って来た。ご丁寧に脇にイーゼルを抱え込んでいる。てきぱきとセッティングをすると丸椅子まで用意して私を目で促した。
 私は突っ立ったままに花京院を困惑の眼差しで見つめる。
「綺麗な色だね」
 ストレートな褒めの言葉は私に届くなりに胸を抉った。だってこれは私が求めていた緑ではないのだ。
 数週間前から制作に打ち込んでいた絵は、遠い異国の森をイメージした風景画。緑が好きだから描いていたのに、思った通りの色が作れなくてここのところは進めるのも少し億劫になっていた。描きたかったのは綺麗に澄みわたった幻想的なエメラルドグリーン。
――求めていたエメラルドの色がついさっき目の前にあった。
 描きかけのキャンバスをじっと観賞する花京院に目を凝らしても、美しい緑はもう見えない。
「絵が完成するまでテスト期間中もここに来るなら…僕も絵をやりたいんだけど」

 あれは絶対に幻覚だ。それだけは絶対に譲れない。けれど花京院がまたここに来るならあの幻覚とも思しき色をまた拝むこともできるかもしれないという期待。
 求める色を作る答えを教えてほしい、その一心で私は頷いていた。


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