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02:一目惚れ

中学時代に名前という女子生徒がいた記憶は、実のところ全くと言っていいほどなかった。当時の俺にしてみれば「言われてみればそんなやつも居たかも知れない」程度の、意識の外だったといっていい。そんな名前の女に心当たりもなかったということはつまり、名前は少なくとも俺の周りにいたような甲高い声を上げる女ではなかったということ、それだけだ。これだけでは知らないのも同然だが、俺が知っている名前はそれだけの女だった。
名前のことを心に留めるに至ったのは、やつが学校へ現れなくなり、全てが終わった後のことだった。

もう七月も下旬かという、うだるような暑さの続く時期。
保険医の叱咤もよそに、その頃授業をフけることを覚えた俺は冷房の効いた部屋でいつものようにベッドを占領していた。別段何もせずとも寝転がってさえいれば自然と瞼は落ちる。もしくは昨晩に親父の置いていったバンドスコアやらツアー先で撮ったという写真を眺めつぶしたせいか。
気付けば時間はとうに放課後、悪態をつきながらも結局場所を貸してくれた保険医もおらず、代わりに学級担任が俺を見下ろしていた。
「空条、お前暇だろう」
しめたとばかりに笑う先公。俺はわかりやすく舌打ちをついた。

「お焚きあげしてもらうのすっかり忘れてて、な」
そういって教室へ俺を連れてきた先公は馬鹿でかい笹を抱えさせる。七夕の時期もとうに過ぎて役目を終えたそれを知り合いの神社で焼いてもらうのだと。書き初めを初七日だかに焼いて天に灰をまくのと同じような理由だろうか。ガキのくだらない願いにこうも真面目に働きかける大人がいたのかと、どこか他人じみた感想を持った。
さきに校門の方へ回っててくれ、ともう一本大きな笹を抱えた先公が言い、俺は飾りのついて重みをました笹を肩にさした。
たわむ笹は見た目よりも随分と重い。これは確かに一人で運びきるには重労働だったにちがいなかった。
玄関口を抜けて校庭に出るも先公の姿はまだない。おそらく職員駐車場の方からでも車を回してくるのだろう。
首元に見える笹飾りへ目を向ければ、色とりどりの短冊に混じって自分の字があった。何をどう書いたのか全く覚えになく、目を細めてそれを見れば『海のそばに住む』とあった。なんとなしに書いたそれは日に少し焼けていた。
俺は肩から笹を降ろし、地面に突き立てて支える。と、土に少し沈んだそれからはらりと一枚の短冊が落ちる。
拾い上げて、思わず目をとめた。

『海のみえる家に住みたい 名前』

何気なく書いた俺の願いと同じことを書いたやつがいたのか。短冊をつづった時は、こんな頼りない笹なんかに願いを託すのが癪だったもんで、ただぼんやりと浮かんだものを表明したつもりだった。そのどうでもよかったはずの願いごとを、誰かがこんなものに託すくらいに願っている。そう思うと何故だか目の前の願いが色彩を帯びたように、尊いものに思えてさえきた。
「助かったよ空条」
車を出してきた先公に声をかけられ、思考を取り戻した。
無意識にその紙きれを制服の内に隠す。自分でもわけがわからなかったが元に戻す気にもならず、俺はそのままクラスメイト一人分欠けた笹を後部座席へと放り込んだ。
名前が誰にも別れを告げずに日本を離れたのは、その日のことだったらしい。

※ ※ ※

遠く海を越えたアメリカで名前に偶然再会した時には困惑した。向こうは俺のことを少なからず覚えているようだったし、同郷ということもあって意図せず二人で動くことが多くなっていったのだが。
中学時代の名前の顔すら覚えていなかった俺は胸の中に沸々とわいてキリのない、正体不明の感情のやり場を必死に探り続けていた。幼かった自分がかつて抱いた、忘れようのないもやもやとした感情。それに名を付けてみてはその整合性が取れずにもみ消し、また同じ名前をつけては消していた、そんな日。
「毎年、七夕になるとどこにいても飾っちゃうの」
名前が自宅の軒先に立派な笹を出して笑うのを見たとき、俺の中でひそかな決着がついた。

※ ※ ※

すっかり皺のつき、色あせたそれを名前の手の中に握らせ、俺の手のひらで封をする。名前の小さな拳は簡単に包まれ、困惑したように中で指を動かそうとしていた。
「……ここからそう遠くない海岸線沿いに小さな家がある」
「?」
「一緒に住まないか」
ぎょっとした顔の名前の手を解放してやる。恐々と指が開かれ、ぼろぼろになった紙屑が露わになった。名前は声に出ないほどの驚愕が先ずさき立ったようで、しばらく口を開けたままに短冊から目を離さなかった。
驚きに満ちた表情の次はどんな返答をするのかと、そのときの俺もまた今までにないほどに辛抱強く待ったものだ。
名前は俺と短冊とを交互に何回も見、パクパクと口を動かした。何か言葉を探しているようで、しかし見つからないといったところか。
ややあってやつは俯き、蚊の泣くような声でささやいた。
「こんな、……空条くんらしく ないよ」
喜びや嬉しさよりもそこ、なのか。
俺だってガラじゃあないのは重々承知の上だ。この空条承太郎が女々しくもこんな頼りない紙切れ一枚に振り回されるなどあっちゃいけねえ。それがお前のイメージなんだろうな。


無言のまま帽子の鍔に手をかけた――その腕を名前が止めた。
「ねえ今、赤くなってる?」
「………」
「もうこの先拝めないかもしれない空条くんの照れた顔、みたい」
『この先』。その言葉さえあれば俺には十分だった。
何年もの間この俺を捕えて離そうとせず、あまつさえ顔を覗きこもうとした腹立たしい女。俺は目の前の悪女が壊れてしまわないよう、唇を押しつけた。


この空条承太郎は、ずっと顔も知らぬ女に恋をしていたのだ。


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