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03:双方向の巡りごと

あの『海のそばの家』に戻ると、いつだって母さんは笑ってあたしを迎えてくれる。


ハイウェイに車を走らせるアナキスに道案内をしながら、あたしはどんなふうに彼のことを紹介しようかと考えた。いつか父さんに伝えることを思うと苦笑したくなったが、母さんの笑顔を思い浮かべるとまあ、なんとかなるような気がした。
しばらく実家に連絡はとっていなかったから久しぶりの親子の対面だ。母さんは父さんと違ってこういうことに勘が働くから、いつだったか電話で話をしたときなんとなく彼の存在には気付いてはいたみたいけど、突然帰ってきたうえに婚約者を紹介したらどんな反応をするだろう。
道なりに進むと懐かしい我が家はすぐだ。


「き 緊張するな」
「プッ 大げさよ。気負うことないわ。母さんはあたしの味方だし」
海岸沿いに設けられた駐車場に車をとめる。前に来たときと変わっていない家はあたしの心を安心させた。仕事でかなりの地位を持つ父さんは、口が悪いがかなり稼いでいる、はずなのにこの家を頑として手放そうとしなかった。家を空けることの方が多かったし、たまに帰ってきても家の匂いを懐かしがるような思い入れもないみたいだったから あたしには不思議だったっけ。
思い出はたくさんある。子どもの頃、休みの日の父さんに砂浜を引き回されてうんざりしたこと。ヒトデや貝を探して砂の上に屈みこむ父さんの背中を見て嬉しくなったこと。二人で砂まみれになって帰って母さんに叱られたこと。
父さんも母さんにはかたなしだった。思い出に浸ってニヤニヤしていると、アナキスが不審げにあたしを見る。
「アイリン」
「…ちょ、ちょっと昔に浸ってたのよ。ホラあんたも荷物出し手伝って」
行きましょ、と彼の手を引いて我が家の前に立つ。玄関先のベルを鳴らすとすぐに母さんが迎えてくれた。
「ただいま! 母さん」
「…! アイリン! おかえりっ」
嬉しそうに母さんはあたしを抱きしめる。甘ったるすぎない花のような芳香に包まれたのはいつぶりだろう。肩に手を置いて離れると、横に立つアナキスに目が向けられる。
「もしかしてこの人、彼氏さん…かな?」
好意的な言葉なのに彼がますます恐縮している。変態じみたことを言いださないか少し不安になった。
「お義母さん、アイリンと結婚を前提にお付き合いさせていただいてる…アナキスといいます。今日はその…『許し』を得に」
彼は喜ぶ母さんの手を取って親愛のキスを落とした。ああ、何も玄関先で自己紹介しなくたってイイのに。しかもネコかぶっちゃってる。やれやれだわ。
でも期待したとおりの反応はすごく嬉しかった。祝福されてる、ッていうの?
バサリと紙のようなものが落ちる音。
まさか、と母さんの背後を覗くと、書類の束が床に散乱していた。立ちつくす父さんは手から落ちた論文を気にもかけずにあたしを見ている。今日に限って父さんは家に帰ってきていたらしい。いない日がほとんどだったから、今回もそうだと決めつけていたのだけど。
いつもポーカーフェイスを気取っている父さんのすました顔は、人生で初めて見る絶望の表情に変わっていて、切羽詰まった状況ながら写真におさめて後で大笑いしたいわ、と馬鹿なことを思った。

※ ※ ※


名前は娘の婚約者がつかみかかられる前に、慌てて彼らを追いたてた。海近くの宿を教えて、明日また出直すように二人を逃がすと、あとには無言を決め込む夫がひとり。呆然とソファに腰かけていたかと思うと、夕食の準備をすませた名前が台所から戻ってくるころには書斎に引き籠ってデスクに肘をついていた。オーラがすさまじく暗い。
沈黙を決め込んだまま二人で食事を済ませると名前は涼むために海に面したベランダに出た。夫が変な態度さえとらなければ四人で食卓を囲めたかもしれない。少々残念ではあったが、家が血みどろになりかねない様子だったので泣く泣くお流れになった。
しばらくそうしていると、渦中のその人が煙草の煙をまとってベランダに出てきた。名前の横に立つと乱暴に煙草をベランダの手すりに押し付けてもみ消す。
「驚いたわ。アイリンが結婚なんて。わたしも早婚だったけどあの子もおんなじ道を辿るなんて、やっぱり親子ってことなのかなァ」
と名前が言って横を見ると、声をかけたはずの人物がいない。
あれ、と口に出そうとして引っ込める。背中と頭に重みがのしかかってきてたので、体を支えるために柵のうえに咄嗟に手をかけた。その上にさらに大きな両の手が添えられ、名前の体はすっぽりと包まれる形になる。俯き加減に重なった手をじっと見つめる。左頬を彼の長い睫毛がかすめている。
「俺にはもう名前だけだ…」
「ぶっ」
すっかり弱々しくなっている夫に名前が吹き出す。男親はやはり娘を溺愛してしまうのだろう。完全無敵にも思えていた彼がこうも項垂れているのを見るのはちょっと嬉しいが、逆に自分に何かあったときこうも落ち込んでくれるだろうか、ないだろうな、と考えて寂しくもある。
「わたしだけって言うならもっと大切にしてくれないとねー」
「……ああ」
いつになく低い声に、相当痛手を負ったのだとわかる。名前は笑ってしまいそうだ。

「あ、そうだ」
彼をからかう妙案を思いつき、深く考えずに口に出す。
「もう一人女の子つくっちゃえばいいんだ。そうしたらまた独り占めできるんじゃない? また20年近くは安泰だよ!」
ほら、歳はとったけど今のご時世、この歳で子を産む親もいるし。と、続ける。くすくすと緩む顔を抑えきれずに片手で彼の頬を包んだ。呆れているのだろう夫は黙りこくっている。
「あはは、困った? たまにはそうやって気落ちして…」
「そうだな」
え、と名前の思考が止まる。冗談返しかと思って顔を伺おうとしたが振り向けない。肩口に額が押しつけられ、腰はきつく絡め取られている。
「ガキのもう一人や二人つくったっていい」
「あのー…お、お父さん 冗談だよね。お母さんもう い、いい歳だよ? おばさんだよ? うそだよっ?」
うろたえて身をよじりおどけてみせるも、鍛えられた体はびくともせず逃げられない。冷や汗が出る。
「子どもつくるならちゃんと考えなくちゃ。単純な話じゃないし、アイリンだって歳の離れた兄弟ができたらびっくりするよ!?」
「………」
この人の沈黙を怖いと感じるのはいつ以来か。しかし、彼には悪いがそういう理由で子どもをなすのは嫌だ。夢見がちと言われてもいい、そうなるなら自然に身を任せたうえで授かりたかった。
「嘘だもん……」
やっとのことで絞り出したのは涙声だった。耳元で息をつかれる。ぞくりとして頭の芯が泡立った。何も考えられなくなるのが嫌で、力任せに目を閉じる。

「そうじゃねえ」
「なにが?…って、あっ」
問い返すのと足が宙に浮かぶのは同時だった。軽々と横抱きにされて名前は今日何度目かの思考停止に入りかける。
「やっやだ……!」
目の前の胸を必死に押し返す。見上げると緑の瞳の中に自分が映り込んでいて、名前は狼狽した。
「気付け」

「…口実だ」
「なに……?」
聞き返してもその答えは返らない。

「誘ったのは名前の方だからな」
囚われた彼女にもう抵抗する手段はなく。
観念して目を瞑ると潮風と共に星のようなキスが降ってきた。


-3-
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