5月
委員会の仕事は予想していたのより少なく、放課後の時間を週に一度持っていかれるくらいだった。実際手を動かすのだって、これまた受付に座って、たまに来る貸し出しや返却に対応すれば済んだ。部活動も盛んなうちの学校では、放課後ともなると閲覧室に利用者がまばらにいる程度なので、暇な間は本を読んでいてもできる仕事だ。工藤くんもカウンターの中で本を黙々と読んでいた。
当番はじめの日はともかくぎこちなかった。読書しているとはいえあまりに隣の工藤くんが喋らないものだから、何か話しかけるべきなんだろうかとか色々と思案した。けれど考えてみれば彼はもともと他人と会話を長く楽しむような人ではないのだ。クラスメイトどころか同級にはみな一線を引いているようで、平田くんをはじめとした男子グループに迎合することもなく、女子たちからも煙たがられていた。
それでもわたしが工藤くんの横でしゃんとしていられたのは、最初にかけられた声のおかげだった。あれのおかげで、少なくとも嫌われているわけではないのだと妙な自信を得ていた。
二回目、三回目と慣れてしまえばこの時間はとても有意義で、日常とは切り離されたようで心地よくなってくる。工藤くんの傍は時間の流れが緩やかに通りすぎていく。三国志を読み進める工藤くんの横で、わたしも好きに本を手に取り、そっと開いた。
カウンターの中は決して広くはない。したがって自然と椅子の距離も狭まる。今日は特に利用者がまばらだった。新着図書の棚にいた人がハードカバーの本を借りて出て行くと、戸一枚に隔てられた一続きになっている学習室を除き、さっぱり人が消えてしまった。
「返却手続き頼む」とか「蔵書の整理してくるね」とか、事務的な会話しか交わしてこなかった。何か話をして仲良くなるチャンスだ。そう思った。
触れなかったけど、工藤くんは同級生間では専ら有名人だった。――あまり好ましくない方向の。
彼の噂を耳にしたのは昨年の夏ごろだった。――のクラスのやつが浮浪者同然の生活を送っている、という何とも悪意に満ちた話だった。苛められる、暴行されるといった類でなくとも、言葉で相手を貶める卑劣なやり方だ。けれども、その時のわたしは全くの無関心だった。一緒に話の輪に加わることはなかったけれど、別のクラスの話だからと簡単に片づけてしまっていた。関係のない話だと。
学年が上がって同じクラスになって、彼と関わるようになって、工藤くんが実際に廃屋のようなアパートに暮らしているらしいこと、公園で体を洗うのを目撃されたこと、怪しい年配の男とつるんでいること――知っていくうちにもっと工藤くんに近付きたい想いが強くなっていた。
「あのさ」
思い切って話しかけると、彼はぱっと本から視線を離し、カウンター向こうを見やった。なんだろうと思ってわたしも視線の先を追う。二人して同じ方を見てぽかんとする。「なんだ」工藤くんが言った。どうやら利用客の相手をしてくれないかと暗にお願いしたみたいにとられたらしい。わたしに呼びかけられ、居もしない貸出し客を探していたのだ。
それぞれの仕事分担をどうするか、くらいしか話さない間柄なんだから当然だ。
「その『三国志』って面白い?」
「は……?」
言ってからしまった、と思った。案の定工藤くんは喧嘩売ってんのかコイツ人が読んでる本をみたいな表情を、ああ、緊張してどう話題を運んだらいいか――
「面白い。特にこの訳者のは」
工藤くんの言葉で道が拓かれた。すかさずわたしも返す。
「別の訳本読んだことあるんだ?」
「ああ。前のやつは版が古かったから、ここの蔵書は読みやすくていい」
「大河ドラマの原作本とか、司馬遼太郎とか、歴史もの充実してるもんね。司書の先生の趣味が入ってるらしいよ」
「ふーん…」
ぱたりと会話が止む。もう少し工藤くんを知りたかったのでちょっと残念だった。
会話としてカウントされるかは謎だけれど、わたしにしては大きな一歩だ。これから委員会のたびに少しずつ会話量を増やしていって、これまで恥ずかしくて三日に一度くらいだったおはようも毎日欠かさずに言いに行こうと心に決めた。
もっと工藤くんと話がしたい。
時計を見るともう閉館時間が近かった。閲覧室と学習室の施錠をしにカウンターを離れ、雑務をこなして戻ってくると、工藤くんはさっきまで読んでいた三国志の貸出し手続きをしていた。
今度借りてみようかな。工藤くんがこっちを見た。口に出していたらしい。慌てて「面白そうだから」と付け加えた。苦笑いがもれる。
工藤くんは逡巡したか、わたしを見、手元の貸出しカードに鉛筆を走らせた。
わたしも帰る準備をしなければ。名残惜しいが仕方ない。まだ来週の楽しみがあるのだから良し。
カウンター上の整理をして、施錠の鍵を掴んだところで工藤くんが言った。
「持ってけよ」
差し出された手には三国志。
「え…っ、工藤くんが読むんじゃ」
「それは上巻。俺は下巻がありゃいい」
「上下巻だったんだ」
「間に中巻もある」
へえ〜っと関心していると、わたしに三国志上巻を渡し、工藤くんはすたすたと足早に図書室を出て行こうとする。
「ありがとう、また明日ね!」
「…また明日」
思わずまた明日って言ってしまった。そりゃ毎日学校に来るわけだから間違っちゃいないけど。今日のまた明日は特別なのだ。なんだか約束をとりつけたみたいで。
んふふ、とニヤつきながら三国志をバラバラとめくった。読み慣れない文体だけど、工藤くんが面白いと太鼓判を押して借りてくれたのだからそれはもう読了は確約されたも同然だ。
と、裏表紙の貸出しカードに目が留まった。カウンター上のカードケースにしまうのを忘れてしまったらしい。
黄ばんだカードの一番上、工藤くんの字でわたしの苗字と名前。
まただ! またドキドキがやってきた。胸の前で三国志を抱えてぐっと押さえつけても、収束する気配はない。
無骨なようでまっすぐ、きれいな字。
名前覚えてて、ううん、知っててくれたんだ。もしかしたら工藤くんにとってはクラスメイトの名前をフルネームで覚えているくらい普通なのかもしれないけれど、こんな小さな出来事がたまらなく幸福と思えた。
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