アンバランスな僕等04



 春の始まりは芽吹く草花と生暖かくなってゆく風の心地良さが頬を撫でる所から始まる。
 次に視界に映る桃色。羽織る生地が薄くなる女性。そしてこれでもかと数字の羅列が並ぶ帳簿。あ、これは違う。

「っつかれ様でーす!」
「あぁ、お疲れさん」

 動揺を隠せないまま返事した俺が悪かったのか、少し不思議そうな顔をされたので「すげぇ眠ぃ」と苦笑して誤魔化した。
 従業員のいなくなった店内。内装があの男好みなのはあれだ、家に持って帰った内装案にいちいち口を出されたからだ。
 しかもこれで客に人気があるのだから性質が悪い。これじゃ誰の店か分からないな、と自嘲した。それでも帳簿の現実は変わらない。俺は突っ伏すと盛大な溜息を吐いた。
 自分の店を立ち上げてから1年と8か月。そこそこ上手くやってきたつもりだった。だから先月の売り上げと従業員とその口座の客がいなくなったことにまだ目を合わせられないでいる。現実は厳しい。要は売り上げを持ち逃げされたのだ。丸ごと。
 4年一緒に働いた、信頼ある仲間だと思った。実際オープンから先日まで金銭管理を任せていても問題なかった。店に来なくなって連絡もつかなくなって1週間。
 売り上げがなくなっていることに気付いたのは昨日だ。
 あと3日すれば従業員の給料日もある。光熱費だって来週だ。何とか工面できないかと昨日から考えて考えて考え続けて、ゆっくりと顔を上げた。目の前には男の趣味の、シャンパンタワー用の台座。
 腹を括るしかないのか。ゆっくりと唾を呑んだ。

「まだ起きてる…よな」

 インターフォンを前に思わず笑みが漏れる。最近はもう番号を押しても扉は開かない。けれど起きているのは分かっている。ようやく慣れてきた鍵をポケットから出して差し込んだ。
 エレベーターに乗り込み暖かくなってきた密閉空間でゆっくり深呼吸する。男と俺の関係はもう6年と8か月。思えばもうそれほど経つのかと少し感慨深い気持ちになった。
 部屋の前に立ち、もう一度脳内をまとめる。そして先程と同じように鍵を取り出し開けると、ゆっくりと扉を開いた。玄関から続くリビングの明かりはついている。

「ただいま」

 そう静かにダイニングテーブルに突っ伏す男に声をかければ、勢いよく上がった顔が俺を捉えた。近付いて口付けを落としてから正面の椅子に座る。

「今日は帰りが早いな」
「イベント終わりだからね。客が早く引いたんだよ」

 上手く話せているだろうか。自分の声音を注意深く聞きながら話していると、男が遮るように口を開いた。

「で、いつだ」
「………ん?」
「はぐらかすな。いつまで続けている気だ」
「いや、俺まだ30にもなってないんだよ?」
「三十路になれば辞めるのか?」
「まぁ…その時の状況にもよるけど…てか、40でも代表やってる奴だってい」
「そんな年までしがみ付く程のものでもないだろう」

 そう鼻を鳴らした男の目は侮蔑と、僅かな欲情を孕んでいる。
 今年に入ってから、俺はちょっとした傷害事件の被害者となった。女の勘違いから生まれるちょっとした諍いだ。
 それからだ、男が二の腕に残った傷跡を見て「仕事を辞めろ」と言い出したのは。
 その時はまだ店を立ち上げて1年しか経っておらず、むしろ軌道に乗り始めた所だったのでついカッとなって言い返してしまった。それが気に障ったのか、男はそれから執拗に早く引退しろと迫ってくる。最近になってようやくいつ辞めるか、まで言いくるめられるようになったのだが以来帰りのお出迎えはなくなった。せめてもの意思表示だろう。
 そんな男を、どう納得させればいいのか。自分の中で今まで出会ったどの客よりも強敵だ。思わず溜息が漏れた。

「丁度いい、店をたたんでしまえ。1年以上も続いたんだ、十分楽しんだだろう?」

 諭されるような声に思わず目を見開いた。心の声を聞かれたのだろうか。いや、前から予想はしていた。

「趣味悪ぃ。ストーカーかよ…」
「然るべき機関を雇っている」
「バレても知らないよ」
「問題ない」

 ああ言えばこう言う。昔からそうだ。苛立ちから髪をかき上げる。その仕草に何を思ったのか、男は立ち上がって俺を寝室に押し込んだ。

「悪いけどそんな気分じゃ…」
「2千万。差し当たって従業員の給料と光熱費だけでも1千万弱は必要だろう。先月従業員の数を増やしたからな」
「っ」
「今すぐ辞めるというのなら、全て出してやる」
「っれじゃ、意味ねーじゃん…!」

 金額の問題ではない。これを条件に出されることを分かっていたから、言い辛かったのだ。貯金はそこそこあるが到底及ぶ額ではないし、何より男が管理している。

「では自分ですぐに作れると?」

 馬鹿にしたような物言いに、限界を感じた。追い詰められてストレスが溜まっていたのだろう。吐き捨てるように出た言葉は、自分でも驚くものだった。

「べっ…つに、あんたに頼らなくたって、太客と何人か寝ればそれぐらい―――」

 だから、言ってからしまったと気付くが時既に遅し。勢い良くベッドに押し倒されて、首筋を強く噛まれた。

「い…っっっ」

 痛みから目尻に涙の粒を作りながら男を見上げれば、見たことのない冷え切った顔が俺を見つめていた。思わず背筋が凍る。
 それ以上は何も言わなかった。言えなかった。抵抗すれば縛られ、慣らすことなく執拗に責め立てられ、恐怖からいい年して泣きじゃくっても止めてくれることはなかった。明かりのない、暗い部屋に外からの街灯と男の怒りから血走った眼、そして僅かに光る、薬指の指輪。
 俺は自分で店を持つようになってから一丁前なプライドが生まれていたのだと思う。
 男に向かって、叫びと喘ぎの隙間からずっと罵り続けていた。あんたなんか嫌いだ、偽装結婚なんかする卑怯者、俺の顔と体だけが好きな癖に。初めて男に盾突いた言葉は、どれも男の心を抉るものだったのだろう。少しづつ表情を歪めながら、それでも俺を貪り続けていた。だからひたすら、自分でも何を言ったか思い出せないほどの暴言の数を吐いた。
 朝まで、吐き続けた。

 朝の日差しに眉を顰めながらゆっくりと目を開く。
 汚れきったシーツ。静かな部屋に雀の声が聞こえる。とりあえず、シャワーを浴びたい。

 やっぱり最後まで男の考えは分からなかった。テーブルに置かれた、昨日口に出た額以上の札束。そして一枚のメモ。
 これで暫く問題ないだろう―――そう書いた本人の荷物がそっくりそのまま消えていた時の、ぽっかりと穴が開いたような心情を誰か代わりに説明して欲しい。
 何故かメモの上には、男の薬指にあったものが残されていた。



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(C)siwasu 2012.03.21


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