アリシアの行方02 「先生、原稿出来てる?」 「栞くん…」 「だからその名前で呼ばないでってば」 俺、三木栞(みき しおり)は、恥ずかしい自分の名前を聞いて溜息を吐いた。いくら本好きの親といっても男につける名前じゃないだろう。 「えー、羨ましいけどなぁ」 「嫌です。…で、原稿は?」 「…出来てると思いますか?」 「出来てないなら三十分以内に終わらせてください。じゃなきゃもう二度とこの家に来ませんから」 冷め切った目でそう言えば焦りながら原稿に向かう先生。 「どんなジャンルに限らず創作家ってのはこと作品を作ることに関しては自己中心的で我儘だ」という話は親父からいつも聞いているが、先生は多分それ以上に自己中心的で我儘だと思う。 日本を代表するベストセラー作家、志木暦。執筆した作品の大半は百万部以上売れており、作品はドラマ化や映画化に舞台化と先生の名前は世間で知らない人はいないと言われる程の知名度だ。 けれどそんな先生も人間性に問題があった。 まずご飯は猫の餌を食べようとする。睡眠は玄関でする。お風呂で溺れる。冷蔵庫を閉め忘れて中身を腐らせる。同じく水を閉め忘れて床を浸水させる。そして肝心の作品は、完成した途端破ろうとする。もしくはデータ全消去。 俺は初めて先生の家にお邪魔した時、あまりの腐臭に我慢出来ず背中の治療もそこそこに翌日の祝日も潰して掃除をした。 以来、事情があって何かと俺を家に招待したがる先生。 更にそこに付け込んで、親父は俺に原稿を取りに行かせるようにもなった。そのかわり原稿を親父に渡すだけで小遣いが貰えるというシステムだ。大学受験の為バイトもろくに出来ない高校生にとっては最高のアルバイトだったので俺はついでとばかりに引き受けた。しかも先生は有名大学出身の教員免許持ち。おかげで希望大学は難なく合格出来たのだが、こんな簡単に物事が進んでいいのだろうか。 そして大学に入ってからも呼ばれるままにズルズルと先生の家に来ている俺。ついでに原稿受け取りのバイトも絶賛請負中。だけど他に用事のない俺には暇つぶしのようなもので。 「にゃー 」 「あ、アリシア。会いに来たぞー」 「にゃー」 何よりアリシアに会いたいってのもあったりする。 「ちょ、ちょっと栞くん!アリシアにキスをするな!」 「…アリシアからしてきたんです。なぁアリシア?」 「にゃー」 「くっ…堂々と公開浮気とはやってくれるじゃないかアリシア…!」 「…黙って原稿仕上げなきゃアリシアにディープかましますよ」 その言葉に、悔しそうな顔で机に向かう先生を横目に俺は台所へ向かおうと椅子から立ち上がる。その瞬間躊躇いなく俺の背中に飛び乗って肩までよじ登るアリシアの光景は、もう当たり前なので驚きはしない。 あの日俺を傷モノにした初対面から、先生曰く「先生の嫁」らしいアリシアは俺に懐いてしまった。元々家出癖の酷いアリシアだったのだが(どうやら初めて会った時も家出中の彼女を説得している最中だったとか)俺が二〜三日置きに先生の家に来るようになってからは家の敷地から一歩も出ようとしないらしい。どうやら俺が来ない日は日中ずっと玄関で待っているぐらい焦がれてくれているのだとか。 「にゃー」 「…相変わらずお前の水は綺麗だね」 そう言いながら俺が見るのは台所にあるアリシア用に置かれた毎日取り替えているらしい綺麗な水。それとは反対に先生の机にあったのは埃まみれの水。多分気にせず飲んでいるのだろう。 俺は冷蔵庫から緑茶を出してコップに入れると、それと茶菓子を持って先生の仕事場に戻った。全部俺が買い揃えたものだ。 「先生お茶、ここに置いときますね」 戻って机に近い棚の上にお茶と菓子を置くと汚い水を回収する。次は台所に戻りシンクに溜まった洗い物をして、ついでに洗濯機を回す。流石に首が痛くなってきた頃にアリシアは空気を読んで俺から降りてくれた。けど邪魔にならないように足元をうろうろするアリシアに癒されながら、掃除機を軽くかけて先生の様子を見に行けばまだ原稿とにらめっこ中。 仕方なく洗濯物を干して、テレビを見ながら、アリシアが俺の胸にくっつきながら眠る姿につられるように俺もうたた寝。 「あぁぁぁぁーーー!!!」 して、どれぐらい経ったのだろうか。 突然の叫び声に俺は慌てて跳ね起きると急いで先生の元に走った。 「こんな、こんなっ、…もの!」 「やっ、めて、…っください!!」 部屋を見れば叫びながら原稿を破ろうとしている先生の姿があって、俺は手を伸ばすとそれを奪い取った。これももう毎度の行事なので驚きはしない。 原稿を奪われた先生は暫く呆けた後、肩を落として俯いた。 「こんなに、…こんなに想いを乗せても、アリシアには、…読めないのに」 「…猫が先生の作品を読めるわけないでしょう」 そう。先生が出来上がった作品を破りたがるのはアリシアが小説を読めないから。執筆中はアリシアへの想いをその作品にぶつけているのに夢中らしいのだが、作品が完成した途端アリシアに伝わらない絶望感でいっぱいになるそうだ。 そんな大先生は恋愛小説家。 甘く切ない、時に熱情を孕んだ綺麗な愛の表現は「夫や彼氏にこんな風に想われたい」と特に女性に人気だそうだ。 そんな、本気で猫に恋愛感情を持っている先生は俺の胸にしがみつくアリシアに手を伸ばす。 「アリシア…あぁ、アリシア」 あまりにも苦しそうな先生の表情に、アリシアが人間なら良かったのにと俺はいつも原稿が完成する度に思っていた。でも、多分人間ならばこんなに一方的に愛を押し付け続けることは出来ないと思う。 永遠の片思いが、先生の作品を高めている。それがとても、羨ましい。 「にゃー」 「っ、ちょ、ちょっと、アリシアっ」 俺がぼーっと先生のことで物思いにふけっていると、突然アリシアが俺の顔を舐め始めた。流石に今の先生の状態でアリシアといちゃつくのはまずい。いつもならアリシアは原稿完成後の先生に甘えまくるのに。 「アリ、シア、やめろって…っ!」 俺は離れないアリシアを何とか引き剥がして先生の膝元に置く。今日はもう帰ろう。明日は晴れるって言ってたから洗濯物はそのまま放っても大丈夫だろうし、ご飯は冷蔵庫に出来合いの惣菜が残っている。 「先生、俺今日はもうかえ…っ」 りますね、と続けようとして、止まった。 先生が俺の腕を痛いほどに強く掴んできたからだ。 「せ、先生…?」 真剣な表情で俺を見る先生の目には、嫉妬の色。え、まさか今修羅場とかいうやつなんだろうか。 「…栞くんは、何故そんなにアリシアに好かれるんだい?」 「、え…」 「何故、アリシアからの愛を受け止めるのが私じゃなくて君なんだ?」 「せ、先生?あの、俺、もう、帰り、ますから…」 「答えてくれ。何故なんだ?」 何なんだ今日は。いつもと違う先生に、…アリシア。 俺は助けを求めようとアリシアを見るが、気づけば彼女は先生の膝から俺に飛び移ろうと前足を伸ばしている。 「…ほら。何故なんだ?君にはアリシアを惹きつける魅力でも持っているのか?それは私にはないものなのか?」 「あ、あの、先生、とりあえず落ち着いて…」 「教えてくれ。…あぁ、そう言えばアリシアはいつも君にキスをしていたね。君の唇にはそんなに魅力があるのかい?」 先生を宥めようとするも彼の口から出たのはそんな突拍子もない言葉。確かにアリシアは俺の口や顔をよく舐めるが、一種の愛情表現ではないだろうか。 流石に呆れて溜息を吐くと、先生は俺の腕を引いてこともあろうか顔を近づけてきた。 「っやめ、やめろって!冗談じゃない!」 今からしようとする行動に俺は掴まれた腕を引っ張って抵抗する。先生は何故抵抗するのか分からないのか、不思議そうに首を傾げた。 「アリシアとはするのに?」 「猫と先生は全く別、う、あっ」 足を踏ん張ろうと後ろに一歩下がったのだが、いつの間にか俺の手から零れ落ちていた数枚の原稿用紙に足を滑らせ思いっきり右腕から落ちてしまう。ズキンと鈍い音がしたから、自分の体重で腕を痛めたかもしれない。 とにかく起き上がろうと体を起こすも、肩にいきなり体重がかかってそのまま床に頭を打ってしまった。犯人はアリシアだ。 どいてくれと目で訴えるも、アリシアはいつもと同じく何を考えてるか分からない。 「…教えてくれ、栞くん。アリシアと私の何が違うんだ?同じ生き物だろう」 先生は、アリシアのせいで倒れた俺にのしかかる様に体重を乗せてくる。 「ちょ、せ、先生、勘弁してください。アリシアが一番好きなのは先生だって…」 「見え透いた嘘を吐かないでくれ。私が余計惨めになるだろう?」 近づく先生を右手で止めようとして痛みに眉をしかめた。先生は本気だ。猫を本気で愛する変人なんだから俺は男だとかそんな当たり前のこと、通じる筈がない。そう考えて痛んだ胸をグッと堪える。 「栞くん。アリシアから君を奪えば、アリシアは私のことを見てくれるだろうか?」 「見ないです。見ないからやめてくださっ、ん、」 結局俺の説得も左手だけの抵抗も空しく先生の唇は俺の唇に重なってしまった。けれど思ったよりもすぐに離れてくれたので、とりあえず俺はショックとか罵倒とかそんなものは置いて何故かびっくりしているらしい先生から逃げてしまおうと匍匐前進する。 が、すぐに捕まってしまった。 「…何故…なんだ」 「…え?」 先生は何かぶつぶつ呟きながら俺を見るので、俺は体を仰向けにして先生の言葉を聞き取ろうとした。 「何故、君の唇はアリシアと全く違うんだ?」 「は、はぁ!?」 のが、間違いだった。変人だということは分かってはいたが、まさかここまでとは。 「もう一度させてくれ」 そしてそんな先生の真剣な言葉に俺はイエスなんて言わないけれど、状況的にノーと言って伝わる筈もない。 「え!?い、いや、待 っ、ふっ、…ん」 また塞がった唇に、俺はもう一層のこと先生の好きにさせようと思った。男とキスだとかわーわー騒ぐほど純情でもないければ偏見もないし(というかそういう人たちって人間を愛してるだけ先生よりマシな気がする)何より先生の場合、そもそも俺を人間の男として認識していないだろう。 そう考えてまた胸が痛んだ。 「ん、ぅ、」 流石に舌が入ると嫌悪感は隠せないが、昔アリシアに押し倒される形でベロチューを経験済みなので、先生のこれは猫と変わらないのだと思うことにする。猫と同類扱いするのもどうかと思うが仕方ない。 何故なら、先生のその痛切な姿に出来れば気付きたくなかったことに気付いてしまったからだ。 俺は大人しく目を瞑る。 本当に心から止めて欲しいとは、思っていなかった。 気付きたくなかった醜い自分が、心の扉をノックした、気がした。 >> index (C)siwasu 2012.03.21 |