〈八〉 初夏と言えど山の上はまだ涼しい。 カーテンの影から見慣れた姿がのそり、とリビングに上がるのを見て、俺は笑みを浮かべた。 「よう」 返ってくる瞳が柔らかく微笑むことに、どこか安心を覚える。いつものように食事の並んだダイニングテーブルを指せば、ゴリラは頭を振って胸元に手をかけた。見覚えのある巾着から出てきたのは、一輪の青い花だ。 このネモフィラは、小さな森を愛するという意味を持つらしい。森林からこぼれる陽だまりの中で愛らしく咲く姿を想像した。きっと、とても優しい色であふれているのだろう。 俺は花を受け取ると、ゴリラをじっと見つめた。 何故、今まで気付かなかったんだ。俺を映す深い緑色の瞳は、確かにあの男と同じ、柔らかな優しさを包んでいる。 「お前、知ってたのか」 確信に近い質問に、ゴリラは頷くことも首を振ることもしなかったが、それで全てを理解した。 拒絶されることを恐れているのか、躊躇い気味に伸びた手が頬を撫であげるのを静かに受け止める。 自分の手をそっと重ねれば、動揺する指が反射的に離れようとしたので握り込んだ。 何もかもが近いようで、人とは違う。 黒い毛衣に発達した腕。短い足に、特徴的な鼻。突き出した唇に、彫りの深い目。耳の場所に、爪の色。どこからどうみても、こいつはゴリラだ。 なのに、誰よりも優しくて、愛しい。 人より少し熱い体温は、じんわりと俺の心を包んでくれる。 「俺は、お前が好きだ」 真っ直ぐゴリラを見つめて、縋るような気持ちで唇を震わせた。 「あいつじゃなくて、お前が好きなんだ」 ほとんど叫びに近い告白に、ゴリラはただ黙ったまま見つめるだけで。 俺は訪れる静寂に少しの後悔を感じて俯いた。けれど、ゴリラは頬に寄せた手をそっと離すと、もう一度両手で包み込むように俺の顔を持ち上げる。 例え非現実的だと言われても、俺は今、ここにある気持ちを信じたい。愛したい。 だから、お前も信じて欲しい。愛して欲しい。 祈りに似た願いに、情けなく顔が歪む。 「俺を、お前のものにしてくれよ」 縋る言葉は、震えて上手く言葉に出来なかった。視界が涙で霞む中、見える黒い影がゆっくりと動く。 返事の代わりに落とされた口付けは、少し甘い香りがした。 [ ←back|title|next→ ] >> index (C)siwasu 2012.03.21 |