〈七〉 「遅ぇよ」 「ごめん」 既に他の生徒達は授業を受け始めている時間。 いつものようなざっくりとした着方ではなく、かっちりとネクタイを締め腕章の入ったブレザーを着た、所謂模範的な制服着用をしている俺は、同じような姿の(しかしどこかだらしない)佐藤を一瞥して、挨拶より先に出てしまった悪態に口をまごつかせた。 違う、険悪な空気にしたいわけじゃないんだ。 「……おはよう」 気まずい空気の中、勇気を振り絞って交わした挨拶は呟くような声だったが、目を丸くした佐藤の様子を見るに届いていたらしい。 「おは、よう」 佐藤の気まずそうな返事に、俺はだんだん恥ずかしくなって急いで待たせてあるタクシーに乗り込んだ。前は運転手の荷物が置かれていたため、諦めて後部座席に乗り込めば、当然それに続いて佐藤が横に座る。 扉が閉まってエンジン音が聞こえると、あらかじめ目的地を聞いている運転手は余計な会話を振ることもなく静かに車を進めた。俺達も特に会話がないまま、無言の車内で居た堪れなさを覚えつつ、手持ち無沙汰に訪問先の資料を見つめる。 佐藤は窓から景色を眺めて呆けていた。 「ま、前の書類……遅れて悪かったな」 「別に」 機嫌は直ったのか、以前ほど冷たい印象がなくなった佐藤に、もう怒っていないのだろうかと様子を窺うが、こいつだけは穴が空くほど見つめたって何も分からない。 ぼんやり外を眺めるだけでこちらを見向きもしない佐藤に会話を続ける気はないと判断して、俺は諦めて携帯電話でも弄るかとポケットに手を伸ばした。 そういえば、と思い出したように上着を開いて内ポケットを覗き込む。 昨日ゴリラからもらった花は、保水キャップの中身を新しくして持ち歩くことにした。 花にとってはよくないことだが、持ち歩いているとゴリラと日中も一緒にいるような気分になって、つい嬉しさに花弁に顔を寄せて匂いを堪能してしまう。 真夜中の香りが続いているようで思わず顔が綻ぶ。そんな中、ふと視線を感じて隣を見れば、佐藤が驚いたようにこちらを凝視していた。訝しんでいれば、俺の手を強引に掴んで花を手繰り寄せる。 「何でこんなの持ってるの……」 「も、もらったんだよ」 「誰から?」 「誰でもいいだろ」 それまで呆けていたくせに、急に眉間にしわを寄せながらしつこく詰め寄る佐藤に、俺も負けじと強気で言い返す。しかし、真っ直ぐな瞳につい視線が泳いでしまう。 そんな俺に佐藤は唇をぐっと結んで、窓から遠くの景色を見ながら呟いた。 「ネモフィラの人?」 「は?」 「……この花、学園じゃ園芸部の庭園にしか咲いてないんだけど」 また真っ直ぐな視線が、正面からぶつかってくる。 これはもしかして、庭園を荒らされて怒っているのだろうか。 「俺の花を勝手に奪って、蓮見に渡してるなんて……」 苛立たしげに唸りながら、手を強い力で握られる。思わず痛みに眉をしかめた。 そういえばこいつ、結構な馬鹿力だった。 タクシーに乗っていることなんか忘れたように、佐藤は俺に距離を詰めてくる。逃げるように反対側へ腰を引かせるが、狭い車内の中では何の気休めにもならなかった。 「ねえ、誰?」 「近っ、い!」 「誰なの?」 「――っ」 至近距離で瞳を覗きこまれて、言葉が詰まる。 少しでも車が揺れたら唇が当たりそうだ。 俺は一瞬、佐藤とキスを交わす姿を想像して――昨日のゴリラのことが脳裏をよぎった。 誤魔化すように空いた方の手で佐藤を押し返せば、すんなりと引いてくれてほっとする。 タイミング良く車が目的地に到着したので、俺は逃げるように開いた扉から外に逃げ出した。 「着いたぞ」 外の空気がこんなにも気持ちいいとは知らなかった。 息苦しさから開放されて深呼吸していると、後ろから不機嫌そうな表情を見せる佐藤が小さく舌打ちをして、俺は驚きに二度見する。 よほど花を荒らされたのが気に食わないらしい。 珍しく表に出た感情に戸惑いながら、俺は思い出したように携帯電話を取り出した。 安全のため、学園への到着報告は義務付けられている。 「学園に連絡――」 「俺がする」 外出連絡時のアドレスは何て名前で登録してたっけ、と記憶を頼りに、つらつら並んだアドレス帳をスクロールしていると、佐藤がため息を吐いて携帯電話を取り出した。 確かに必要最低限の連絡先しか入っていないこいつのほうが、番号を探しだすのは早そうだ。 すまない、と俺は顔を上げて口を開いたが、既に学園に連絡している佐藤の姿を見て固まった。 俺の様子に、怪訝な顔でこちらを見つめたまま必要な報告を済ませた佐藤が、通話を切って首を傾げる。 「お、前――携帯電話、それ……だっけ?」 俺が指した佐藤の携帯電話は、とても見覚えがあるものだった。紛失が多いため、ネックストラップを付けているところは昔から変わっていない。 佐藤の手にあるそれは、いつもアイツが首から下げている携帯電話だった。 「去年変えた。防水のが欲しかったから」 なんともなしに言いながら自分の携帯電話を見つめる佐藤に、俺は曖昧な相槌を打って、うるさい動機を鎮めるために胸元をぐっと握りしめる。 先程から有り得ない推測が脳内をぐるぐる回って止まらない。考えては胸中で否定を繰り返して、でも、だったら、という言葉が頭の中を溢れさせた。 「蓮見、この後は別行動なんでしょ?」 「そ、うだな……確か次はお互い違う会社だったか」 機嫌が治ってきたのか、佐藤が携帯電話のスケジュールを開いて声をかけてくる。 俺も今日の予定を確認しながら、そういえば次回る所は業種が大きく違うこともあって、各々で訪問することを思い出した。 「俺の、番号も変わったから一応教えとく。蓮見は変わってない?」 「あ、ああ、そのままだ」 佐藤の言葉に、新しくなった携帯電話にも俺の番号を残してくれていることを知って、胸が苦しくなる。 なんで、なんでこんなに佐藤に対して今でも一喜一憂しなくちゃいけないんだ。俺を満たして、幸せをくれる相手はアイツなのに。 俺は、ゴリラに対して申し訳ない気持ちやら情けない気持ちで顔を歪めながら、佐藤からの着信を待った。 しばらくして聞き慣れた着信音に、どうしようもなく心を掻き毟られる。 画面の文字を見て、泣きそうになった。 「な、んで――」 なんで、お前の番号がもう登録されているんだ。 着信履歴の半分を埋め尽くす真夜中の訪問者の名前。 それが今、着信コールを鳴らしながら画面に表示されているのを、俺は絶望的な気分で見つめていた。 [ ←back|title|next→ ] >> index (C)siwasu 2012.03.21 |