02


   *****


 就寝の準備をしている時にかかってきた着信は、ずっと待ち望んでいたものだった。
 聞き慣れた着信に慌ててしまい、よろめいて机の椅子に小指をぶつけて悶絶しながらも受けた電話は、いつもの穏やかな沈黙でホッとする。

「もう来ないのかと思った」

 しばらくして気まずそうに窓から入ってくるゴリラに、俺は嬉しさを噛みしめながら声をかけた。
 首元からぶら下げた携帯電話を弄りながらもじもじとするゴリラに、俺もなんだか気恥ずかしくなってお互い立ったまま手持ち無沙汰に俯いてしまう。

 しかし、このままでは仲直りのタイミングを逃してしまいそうだと思った俺は、意を決して顔を上げた。こういうのは、潔く謝るほうがいい。
 けれど、視界に入ったゴリラの首元から、携帯電話以外に見慣れない巾着がぶら下がっていることに気付いて、俺は首を傾げて指をさす。

「何か入ってんのか、それ」

 その言葉に、もじもじしていたゴリラが巾着を大事そうに持ち上げた。太く大きな指で器用に開くと、一輪の花を取り出して摘む。
 摘んできたのだろうか、枯れないように切り口に透明のキャップをつけたその花への愛情に、佐藤のことを思い出してくすりと笑みが漏れるが、すぐに緩んだ口元を直した。
 すっと差し出される花と共に、下げられたゴリラの頭。その行動に、言葉は必要なかった。

 ごめんなさい。

 そう聞こえた気がして、俺は目頭が熱くなる。
 胸が苦しい。締め付けられて、そのまま潰れてしまいそうだ。気付けば無意識に胸元を握りしめていて、切なさに零れそうになる涙を堪えながらぎこちなく笑った。

「いいって、俺も悪かったよ」

 声は震えなかっただろうか。
 差し出された青い花は幼さを感じるが可憐で、独特の香りがする。もしかして佐藤の言ってたネモフィラとは、この花のことだろうか。
 正直男が花なんてもらっても仕方ないと思うが、ゴリラなりに精一杯考えた謝罪表現なのだろう。
 俺は応えるように花を受け取った。

「不愉快なこと言って……ごめん」

 自分の発言を思い出して、目線が床に落とされる。
 見た目も中身もゴリラだが、こいつは誰よりも人間らしいと思う。人間らしいからこそ、もしかしたら人間にコンプレックスを感じているのかもしれない。
 だから、佐藤と比べられて許せなかったのだろう。

 悪いのは俺のほうなのに、一方的に帰ってしまったことを謝罪するゴリラがいじらしくて、グッと胸に愛しさがこみ上げた。
 何かが満たされて、あたたかい気持ちが湧いてくる。
 まるで恋のようだと、懐かしい想いにおかしくなって、小さく笑った。

 顔を上げれば、ゴリラが躊躇いながら一歩距離を近付ける。
 受け取った花を見つめて視線を遠くに逸らすと、また俺を見て手を伸ばした。少し震えた指が、花を持ったままの俺の手を包み込んで、優しく握りしめる。
 驚いてたじろぐと、背中を丸めたゴリラは俺の指にそっと唇を落として、困ったように深い緑色の瞳を伏せた。

「――っ」

 俺はその時、直感で気付いてしまった。
 こいつは、佐藤と比べられて怒ったんじゃない。
 佐藤と比べられて、嫉妬したんだ。
 ゴリラは、困ったようにキョロキョロと辺りを見回すと、覚悟を決めたように俺を見つめる。
 潤んだ熱っぽい視線は、語るよりも明らかだ。

 そういえば、ゴリラはいつだって優しかった。図々しく部屋に上がり込んで寛ぐくせに、穏やかな目を向けて俺を気遣ってくれていた。
 一緒になって寝てしまった時はベッドに運んでくれたし、疲れた時は慰めてくれていた。
 何を勘違いしていたのだろう。
 俺はようやくゴリラの本当の気持ちを知って、唇を震わせた。



 こいつは、俺のことが、好きなんだ――。



 俺の手を包み込むゴリラの指は、まだ小さく震えている。
 少し力を込めれば骨なんか砕いてしまえる握力の、大きくて厚い掌が、繊細なガラス細工に触れるように優しく握りこんでくる。

 ゴリラは、ただこの間のことを謝るためだけにこの花を差し出してきたわけじゃない。
 俺に、自分の気持ちを伝えたかったんだ。
 向けられる熱情は、とても単純で純粋でけれど一生懸命で、その眩しさに目が眩む。

 俺は何も分かってなかった。
 こいつがどれだけ悩み苦しんで、怯えながらもこの一輪の花を差し出してきたのかを。
 人の頭なんて少し力を加えれば潰せるような、その大きく力強い両手が、優しい心で、優しい温度で、必死に語りかけてくる。

 ――言葉なんていらなかった。

 そもそも、はじめから言葉で会話なんてしたことなんてなかった。
 目が合えば大体言いたいことは分かるし、伝えたいことは行動で示してくれる。そんな俺たちの間に言葉は存在してなかった。
 わずかに震えたその指先が、どうしようもなく愛しくて瞼の裏が熱くなる。

 指先で摘んだ花をゴリラに向けて笑顔を見せれば、優しい瞳が静かに細められて、まるで笑ったように見えた。
 躊躇いながらも頬に触れてきた大きな掌は、人間のものとは違うけれど、誰よりも人間らしい手だと思った。

 ――好きだ。

 好きだ、好きだ、好きだ。
 例え、全ての人間がおかしいと笑おうが、否定しようが、反対しようが、俺はゴリラのことが好きだ。
 じんわりと視界を滲ませる涙を隠すように何度か瞬きして、唇を噛む。息苦しくて深呼吸する。

 好きなのに、こんなにも辛い。

 覚えのある感情に切なくなるが、今度はちゃんと受け取ってもらえたようだ。目尻に浮かぶ涙の粒を親指で拭うゴリラが、小さく頷く。
 離れるのが嫌で一歩足を出せば、向こうも同じタイミングで足を踏み出していて、つい甲を踏んでしまった。
 見れば、とても気まずそうに頭を掻くゴリラの姿に、こみ上げてきた愛しさと息苦しさが色濃くなる。
 こいつも俺と同じ気持ちなのかと、嬉しくなった。

 何度も好きだと心の中で叫び続けて、言葉は交わさずにただ顔を寄せる。
 優しく当てられた大きく厚い唇に、幸せで胸が満たされた。
 何度もせがむようにキスを交わしながら、俺はゴリラの首に腕を回して抱き寄せる。

 良かった。
 初めてのキスは、バナナの味じゃなかった。


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(C)siwasu 2012.03.21


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