食糞



食糞アンソロに寄稿したお話です。



「それじゃあ元気で、さようなら」

 切っ掛けはおそらく些細なものだった。
 恋人同士にありがちな、たわい無い応酬から始まった問掛。思い返せばそれこそ「僕のこと好き?」なんてありきたりな言葉だったような気もする。それが「どこが好き?」と続き「どのくらい好き?」と助長し「僕とどっちが好き?」と泥沼のような問答が繰り返され結果、壊れた。粉々に、原型を留めることなく、破片を散りばめて文字通り砕け散った。
 例えば初めから彼の精神に異常があれば納得できたかもしれないし、自分が生返事であしらっていたのであれば諦めもついただろう。けれど二人の関係の中に異常で不誠実な会話や行動は思い当たることがなく、自分が見ても周囲が見ても同性同士である以外に何も問題はなかった。なかったはずだ。
 なのに彼はいつもの逢瀬の後、愛の囁きを遮りながら切っ掛けを口にした。
「本当に僕の全部を愛してる?」
 と。



 お疲れ様と労いの声をかけられてようやく真尋は就業時間を過ぎていることに気付いた。窓に視線を向けると深く沈んだ海のような空がある。大きく息をつくと背凭れに体重を預けて作業途中だったラップトップの画面をぼんやりと見つめた。恋人には定時で帰ると伝えているので業務は中断するしかない。いつもなら浮足立って会社を去る真尋だったが、今日は腰が重くなかなか立つ気にはなれなかった。隣を見ると残業するつもりなのか教育にあたっている新人が画面を睨んでいる。顔は真剣そのものだが、足が何度も揺すられているので本当は帰りたいのだろう。けれど先輩である真尋が帰らない以上帰りにくいのか、律儀に付き合うつもりのようだ。
 真尋は新人に声をかけると自分はそろそろ上がるから君も急ぎでないのなら残る必要はないと伝えた。すると新人は顔を上げるなり笑みを浮かべながら声だけは申し訳なさそうに足早で帰っていった。待ち合わせでもしているのか携帯電話を取り出して操作しながら去っていく後ろ姿を見ながら真尋も片付けを始めるとタイムカードを差し込んでフロアを出る。今どきタイムカードなんて、とも思うが中小企業にシステムを導入しろと詰めるのも可哀想だ。しかしこうして細かな不満が出始めるということはそろそろ転職を考えていい時期かもしれない。
 空調の効いたエレベーターでそんな思考に耽りながら外に出ると、川から流れてきた涼しい風がこめかみを掠めていく。電車に揺られて二十分、そこから徒歩で十五分。向き合わなければいけないことは分かっているが、体が拒絶を示してなかなか足が進まなかった。しかしこのままでは相手の機嫌を損ねるかもしれないと思えばゆっくりと足が前へと動き出す。のろりのろりと帰路に向かえば、体感以上に早く到着したマンションを見上げて喉を鳴らした。死んだ祖父から譲り受けた分譲マンションは駅から距離はあるが近くに営業時間の長いスーパーやコンビニ、薬局などの生活に必要な店舗が一通り揃っており困ったことはない。そんなお気に入りの我が家を前にしても真尋の心はいつものように踊ることがなかった。
 さして広くはないエントランスホールに立つと電灯に三匹の羽虫を見つけて感情の無い瞳で見つめる。あれでも羽虫たちは真っ直ぐに飛んでいるつもりらしい。光に対して一定の角度で飛び続けていると信じていても、実際のところは的はずれな行為に勤しんでいる憐れな羽虫が自分と重なって耐えきれず目を逸らした。鍵を回しオートロックを解除すると重い足を引きずって中へと入る。閉め切られていた小さなエレベーターホールはこもった熱が充満していて夏が終わったというのにじんわりと汗が滲んだが、エレベーターの中はもっと悲惨だった。
 玄関の前で立ち止まると大きく息を吸い込み、吐き出す。そして秋の訪れを感じさせる凛とした空気に背中を押されるような心地で鍵を差し込んだ。扉を開ければ先程までの空気から一転、むせ返るような異臭が鼻をつく。エアコンを付けているのだろうか、空調の効いた玄関で反射的に思わず口元を押さえる。それでも真尋は胃の底から迫り上がってくる泥をなんとか飲み込んで近付いてくる足音に合わせるよう顔をあげると精一杯の笑顔を作った。作ったつもりだった。しかし取って付けたようなことをしなくとも「おかえり」と朗らかな笑みを視界に捉えるだけで緊張は緩み頬が垂れる。持っていた鞄を受け取って「おつかれさま」と労いの言葉を口にする声に心が満たされる。作り笑いでない笑顔が自然と溢れる。
 結局のところ、真尋はどこまでもこの恋人のことが好きだという自覚も自信もあった。例え同時に内蔵をグツグツと煮込むような臭いが部屋中に充満していたとしても、だ。視認すれば男と分かるが中性的な見た目に人当たりの良さそうな笑み。愛されるよりは愛したいと言っていた通り献身的で自己犠牲的で、けれどふとした時に頼もしさを発揮してくれる魅力的な男性。それが真尋の恋人だった。
 靴を脱いで恋人を追うようにリビングへと向かう。えぐみの強い臭気が濃くなるのに比例して体中が悲鳴をあげるように拒絶反応を起こす。それでも恋人の背を見ながらリビングダイニングに入れば、一層濃くなった悪臭は真尋の器官の全てを犯し尽くした。思わずえずきそうになるのを唾を飲み込んで誤魔化す。
 暖かな明かりに照らされたキッチンのカウンター部分に、その元凶があった。シンプルだが高級感のある食器は確かイタリアの有名なブランドだとこだわりの強い彼が得意げに語っていたような気がする。誕生日や記念日などの特別なイベントの時だけ棚から姿を現すそれらだが、今日は誕生日でも記念日でもない。むしろ真尋にとっては死の宣告をされたような感覚だ。いや、どちらかと言えば最後の晩餐に近い。
 まるで血となり体となった葡萄酒とパンに模したような、質素だが重みのある料理が上品な皿の上に盛り付けられていた。黒い塊の上から赤みがかった茶色いソースをかけられたものはハンバーグのつもりだろうか、ワイングラスに注がれた淡褐色の飲み物には沈殿した澱に似たものが見えた。真尋は引き攣りそうになる頬を隠すように顔を背ける。
 綺麗に整理され清々しさを感じるほど清潔感のある室内で、空気中に漂う臭いだけがこの場を異常だと告げていた。真尋の鞄を適当な場所に置きながら「ちょうど今夕食が出来たところだよ、先に食べるでしょ」といつも通りの恋人に曖昧な相槌を打つ。先にシャワーを、と言える空気ではなかった。ダイニングテーブルに並べられる料理を突っ立ったままどこか遠くの出来事のように眺めていると「早く座って」と恋人に急かされてのろのろを席につく。それを目の前にする頃には嗅覚が麻痺していて何も感じなかった。見た目や色に多少の違和感があるものの、臭いさえ気にしなければごくありふれた普通の食事に見える。
 彼との出会いは友人の紹介だった。友人といっても嗜好の合う者同士が集まりやすいバーで知り合った、一夜だけ肉体的な愛を語り合った相手だが。お前の好きそうな子を紹介したいと連れてきたのは柔和な笑みを浮かべた人懐っこそうな青年だった。外見だけなら大学生にも見える彼は真尋よりも年上だと聞いて驚く。姿勢もよく、身嗜みも整った青年を真尋はすぐ気に入った。気に入った以上の感情を心に抱いた。話をすればすぐに打ち解け、知識が豊富で聡明な青年に真尋はのめりこんでいく。過去に付き合った相手は何人かいたが、ここまで胸を締め付けられるような昂ぶりを抱いた相手は初めてだった。その後何回かのデートを繰り返して抑えられない気持ちを吐き出したのは早まったと思ったが、青年も出会った頃から真尋を気にかけてくれていたと聞き迷うことなく恋人という立場を提示した。そうして付き合うことになった二人は真尋の祖父が亡くなりマンションを譲り受けた時当然のように二人で暮らし始める。同棲を始めると家事も得意だった恋人は短時間の仕事に転職し真尋の身の回りの世話を焼いた。料理は勿論、掃除洗濯に仕事で帰れない時は会社の近くまで来て着替えを持ってきてくれることもあった。献身的で一般的な女性よりも女性的な恋人はいつも真尋の喜びが自分の喜びだと言って尽くしたがる。真尋もそれが嬉しくて受け入れては自分に出来る最上の形で愛を示していた。
 最初の一年は順調だった。真尋は母子家庭だったが母親は真尋の性癖を認めており好青年である恋人を紹介した時も素敵な人だと喜んでくれた。恋人は幼いころに家族を失っておりそれが余計に同情心を買ったのもある。最終的には何らかの手段で籍を入れると同等の関係を結んでもいいと思っていた。愛しい恋人がいてくれることが真尋の幸せだった。
 けれど関係を結んで三年目が経とうとする頃。そろそろ将来を誓い合いたいと考えていた真尋に恋人が「僕のこと好き?」と聞いてきた。当然と答えると「どこが好き?」と聞かれ切りがないが答え続けると「真尋のお母さんよりも?」と問われ「好きな映画よりも?食べ物よりも?」と続けてくる。全てに是と返すとそれで話は終わったが、数日後「本当に僕のこと愛してる?」と不安そうな口ぶりで尋ねてきた。恋人を不安にさせるような言動に心当たりがない真尋は逆に問い詰めたが、恋人は頑なに首を振って「僕の全てが好きなら僕が出せるそれを愛してくれる?」と聞いてくる。真尋はそれで恋人の不安が取り除けるならと何度も頷いたが、それが道を誤った最初の一歩だったようにも思う。
 彼の排泄物を使って作られた料理は今回で三度目だ。
 一度目は恋人同士にありがちな戯れの延長で「本当に僕の全部を愛してる?」と聞かれたので最近よくその言葉を耳にするなと思いながら頭から全部食べちゃいたいくらい好きだよ、と比喩的な表現で愛の程度を伝えたら、翌日五感の全てを狂わせるようなこの魔性の料理がテーブルに並べられた。「僕のこと食べたいくらい好きなら、僕の中から出たこれも食べられるよね」と笑顔で言う彼は憤っているわけでも悲しんでいるわけでもなくむしろ初めてにしては上手く作れたと思うんだけど、そう恥ずかしそうにはにかんでいた。その異常な状況に戸惑い躊躇しているとその愛は嘘だったのかと問われたので恐る恐る一口含んでみたが、当然のように喉を通ることなく吐き戻した。その後も嘔吐が止まらず胃液を出し続け一週間食事を取ることさえ困難な状況だったが、全く悪気のない恋人は「次はもっと上達してみせる」と健気に言うものだから真尋も頷くことしか出来なかった。今思えばここでもっと怒るなり諭すなりしていれば良かったのかもしれない。けれど、彼の目があまりにもいつもと同じ澄んだ瞳をしていたせいで流されやすい真尋はその行動を指摘する思考さえ働かなかった。
 二度目は「僕のこと本当に愛してる?」と聞かれた時だ。勿論と首を縦に振ったら「愛を形で示してくれないと不安になる」と呟く恋人に望む通りに形にしてあげる、そう答えれば次の日の夕食で以前よりは形になった排泄物達がテーブルに並べられた。その時は流石に愛を示す他の形はないのかと詰め寄ったが、これ以上形として最上のものは無いと言われ意を決してまた口に含んだ。一口目は胃の中まで入ったが、すぐにトイレに駆け込んでやはり吐き戻してしまった。
 そして昨日。「別れた方がいいかもしれない」と悲しそうに呟く彼を説得すれば「君の愛が伝わってこない」と泣くので意図を理解した真尋は明日の夕食は君の好きなものを作ってくれ、と優しく言った。覚悟を決めたつもりだった。
 何故そうなったかは分からない。真尋にアブノーマルな嗜好はない。むしろどちらかと言えば正常と潔癖を好む部類だったし、彼もそういったタイプのはずだ。あまりにも唐突過ぎて戸惑いと混乱に胸中はひしめくが、もしかしたら彼の中で些細な綻びはあったのかもしれない。もし恋人がこの行為で性的興奮を覚えるような素振りを見せれば強く拒絶していたが、彼の中でこれはキスやセックスと同じ愛情表現の一種であり自己犠牲の中で示せる最上のものだと信じている。自分の排泄物とはいえその臭いに躊躇うことも眉をしかめることもなく、おそらく真尋のことを想って気持ちをこめながら調理した彼の行動は異常なのか正常なのか今ではその判断すら鈍る。
 悪臭を撒き散らすそれをじっと見つめていると正面に恋人が座って頬杖をついた。昨夜出された夕食の時と変わらない優しく穏やかな笑みを浮かべる彼の瞳に一切の曇りはない。スプーンしか出されていないのは暗にそれが崩れやすいものだと示しているのだろう。そもそも通常なら水分を多く含む排泄物に火を通して調理することは可能なのだろうか。思考が現実逃避に耽っていると、恋人が「冷めちゃうよ」と首を傾げるので皿と同じブランドであろう高級感のあるスプーンに手を伸ばした。
 指に馴染むフラットウェアを握りしめておずおずと先端を料理に刺していく。肉も使われているのか、中から肉汁が溢れだす。その瞬間、中で閉じ込められていた異臭が弾けるように四散して真尋はその暴力に胃の底から逆流する熱を抑えきれず胃液を吐き出した。食欲がなく朝から水しか飲んでいない体は何度もしつこくえずいて空っぽの胃を痙攣させる。そして膝の上に吐き散らかすだけ吐き散らかした後、真尋は勢い良く皿の上の料理を勢い良く掬って口に含むと、噛まずに喉奥へと流し込んだ。
 舌がその味を脳に伝える前に二口目を押し込み、体が拒絶反応を見せる前に胃の底へ落としていく。それを何度か繰り返し、最後にワイングラスを一気に煽って飲み切ると、乱暴にテーブルへと叩きつけて俯いた。彼の排泄物を全て胃の中に納める。収縮運動を始めた内臓が食物をこね回し胃液と混ぜ合わせて消化していく。ぼこぼこと勢い良く動いて栄養を吸収しようと暴れだす。けれどそのほとんどが搾り取った後の残り滓であり、細胞の死骸であり、細菌の残骸であり、要するに彼から排出されたただの排泄物だった。
 そんなものを押し込まれた胃が平常でいられるはずがない。すぐにきりきりと音を立てて警告し、痛みで真尋に訴える。肩が震え、足は痙攣を起こす。脂汗が滲み、涙が漏れる。瞳孔が開き、涙で視界が霞む。しかし真尋はそれらを全て無視して奥歯を強く噛みしめると顔を上げてごちそうさま、と笑顔を作った。実際笑えていたかどうかは分からない。が、恋人は目を細めながら微笑むと手を伸ばして「全部食べてえらいね、いいこ、いいこ」と真尋の頭を優しく撫でた。母親が子供にするように何度も愛しそうに頭を撫でた。
 真尋はそれだけで幸せだった。ようやく自分の感情が受け入れてもらえたと引き攣った頬を弛緩させる。嬉しさからなのか苦しさからなのか涙が溢れ、全身が震える。そして目の前で微笑む恋人に向かって感謝の気持ちを伝えると糸が切れたように突っ伏した。体から異物を吐き出そうとする胃を抑え込んで唇を噛みしめると低く唸る。
 そんな真尋を恋人は心配するわけでもなく馬鹿にするわけでもなく変わらない笑みで見守っていたが、暫くして空いた皿を下げるとキッチンへ向かい片付けを始めた。真尋は視線だけでその後ろ姿を追いかける。結局彼の心はこれで満たされたのだろうか、そんな不安を読み取ったように水音と食器の重なる音だけが室内に響く空間で聞こえるか聞こえないか程度の呟きに近い声が真尋の鼓膜を刺激した。脳が理解に追いつかず思わず聞き返すと、恋人は一度ハンドルを閉めると振り返って「明日はパスタでいいかな」と首を傾げる。無邪気にも見えるその仕草に悪意は感じられない。けれど真尋はその言葉に迫り上がってくる吐瀉物を抑え込むことが出来ず慌てて口を塞いだ。口の中に広がる独特の臭いと味に胃が跳ねる。鼻の穴にまで侵入した悪臭に嗅覚が暴れだし頭が痛む。それでも何とかそれを飲み込むと顔を上げて笑った。笑おうとした。
 しかし勿論、と告げようとした口は唇を薄く開いて音を発する前にこぽりと羊羹色の液体を零し、瞬間滝のような嘔吐が堰を切ったように流れ出してテーブル一面を汚した。口を塞げば鼻から漏れ、鼻を吸えば耳に入る。喉が詰まり、呼吸が止まる。全ての器官が恋人の排泄物で閉じられる。水の中でもないのに溺れたような心地に真尋は苦しさから喉をかきむしった。すぐに恋人が駆け寄って背中を叩いてくれたおかげで息をすることは出来たが、充血した瞳は視線が定まらず何度も肩で息をしながら自分の体を抱き込む。そして持ってきてくれた水を勢いよく煽ると、心配そうな表情で様子を窺う恋人に振り返って謝罪の言葉を漏らした。恋人は首を横に振って微笑むだけで責めなかった。次こそは、と何度も言い聞かせるように漏らす真尋の言葉には覇気がない。恋人を見ることもなく、吐き散らかした吐瀉物を指で掬う。目的を忘れた執着はもはや迷妄の執念だったが、虚ろな意識のまま呟く真尋の中で正常な判断は失われていた。
 恋人はそんな真尋の背中を優しく何度も擦って愛しそうに微笑む。「頑張ってね」とかける声はどこまでも甘く、穏やかだった。



「もし愛という不確かな、少し難しく言えば概念を形にするとして人はどういったものを想像するんだろう。大抵は贈り物だったり金が無ければ気持ちを捧げると思うんだけど、結局そのどちらも根本的には自分の人生の一部を相手に切り売りしてると俺は考えるんだ。ああ、ちなみに俺は本当は自分のことを僕ではなく俺と言う人間なんだ、僕なんておそらく物心ついてから君相手以外に一回も使ったことはない。それも君が僕である俺を好いているために俺は人生の中で俺と名乗る自分を君相手の時だけ捨てて僕と演じ続けてたんだ。いや、こんな些末な違いなんてどうでもいいんだよ。小煩い君にとっては重要なことかもしれないけど最早君だって今は僕であろうが俺であろうがどっちだっていいと思っているだろう。話を戻すけど、切り売り、そう、切り売りなんだ。俺達は愛を相手に伝えるために自分のどこかしらを切り取って相手に売ってるんだよ。無償の愛なんて言葉があるけど、それは愛が無償でないことを知っているからこそ存在するものなんじゃないかな。屁理屈だって言われれば俺の言葉全てがそうなのかもしれないけどでも確かに愛は売られている、それもほとんどが一方的に。贈り物の対価に体を求めたり心の対価と同等の心を要求したり、売りつけた相手はどうしても愛に見合う対価が無いと憤りや不満不平を自分の中に巣くわせる。それは巣の中でどんどん大きくなっていつか外へと飛び出すと決別を言い渡すんだ。お互いの対価が見合っていれば問題ないのかもしれないけど、とはいえとても一方的なものだと俺は思った。だから愛を売りつけられ見合う対価を支払うことが出来ず恨みばかりを買わされる人生を送り続けてきた俺は売りつけられる側じゃなく売りつける側に回りたいと思った。思ったから君を好きになったんだ。言っておくけど、君から見て献身的で尽くし上手な俺は演技ではないよ、相手に尽くすことは好きなんだ。だから今まで相手に売りつけられた愛の対価を支払うために尽くし続けてたんだけど何故か失敗するんだよね。足りないと言われまだ出せるだろうと催促される。思えば今までの相手はろくでもない奴ばかりだったのかもしれない、それでもまあ俺は好きだったからその愛を受け取って支払ってきたわけだけども。結局それに疲れちゃったんだ、まるで多額の借金を背負っているような払っても払っても終わりが見えない愛に俺の気持ちが報われない。だから君だったんだ、出会った時君が俺に恋する音が聞こえたから君なら俺が売る側に回れると確信したんだ。勿論俺も君のことが好きだったよ、真面目で誠実なところとか約束を破らないところや嘘が下手なところに休日は伸ばしっぱなしの無精髭が似合うところもそうだけど何より俺を愛してくれているところが。今まで付き合ってきたタイプとは真逆でそこが新鮮で魅力的だった。だから君を選んだんだけど結果は今こうして君が俺の愛の対価を支払ってくれていて……駄目だな、売りつける側になって初めてその気持ちが分かった。俺の愛は相手に見合う対価に足りなかったんじゃない、多すぎたんだ。多すぎたせいで相手が受け止めきれなくなって逃げていたんだ、ずっと誤解していたよ。足りないと言い続けられていたのも多すぎた愛が逆に相手を不安にさせていたんだろうね。長々と話したけど、要するに俺は売りつけたものより十分すぎるくらい多い対価を貰ってそれを持て余しているんだ。そして貰いすぎたものを掌で転がしているうちに段々と冷静になってきてそもそも俺はこんなものを払ってもらうために愛を売りつけていたのだろうかと考えるようになった。誤解してほしくないんだけど君のことが嫌いになったわけじゃない、今までと変わらず愛しいと思う気持ちはまだあるよ。でもこれ以上君から貰うものはもうないんだ、言ってしまうと満足したって感じかな。例えると満腹で動けないのに次々と食事が出される感じかな。好物だとしても流石に嫌気がさすだろう、それに近いんだと思う。とは言え君はもう出せる分まで出し尽くしてもう何も出ないみたいだけど。ちゃんと俺の話頭に入ってるかな、そもそも聞こえているのかも怪しいな。普通に考えれば他人の出した糞を食べ続けて身体がまともなままでいられるわけないよね。最初は腸だっけ、それから内臓がおかしくなってそれでも頑張り続けてきたのはすごいと思う。俺のことを愛している証拠だよね。でも頭は駄目だ、頭がイカれたら君の対価に価値がなくなってしまう。事務のように俺の愛を食べられても何も響かないよ。君をこんな状態にした俺のことを罵りたければ罵ればいい、縋りたければ縋ればいい、でも俺の心はもう決まってるんだ。これ以上君と共に居続けても何も生まれない。分かってるのかな、俺は君に今別れを告げてるんだ。俺は君との時間で得た対価の支払い方をこれからの新しい出会いで生かしていく、一気に支払うよりは少し物足りないぐらいの方がいいって学んだからね。とは言えそんな状態の君を捨てるように去るのは忍びないからせめてもの置き土産に一週間分の食事を作っておいたんだ。鍋に入っているスープは調味料代わりに俺のものを混ぜておいたし、冷蔵庫に入っている味噌漬けは勿論言うまでもないよね。冷凍庫に入っている炊き込みご飯や餃子はちゃんと解凍して食べるんだよ、水分が多いから温める時ははねないように気をつけてね。本当なら固い時のものがいいんだろうけど最近とても快便で理想のものしか出なかったんだ。ジノリの食器も置いていくから好きに使ってくれて構わない。それからご近所さんから異臭がするってクレームが入ったみたいで管理会社から昨日電話があったんだけど適当に誤魔化しておいたからまた連絡があった時はよろしくね。一週間後食べるものがなくなった時に君が正常に戻れることを願っておくよ。もしいつかどこかで会うことがあった時は君も相手からの愛への支払い方を学んでいればいいと思う。まあ、君にとっては何もかもが終わったあとだからそんな機会は訪れないと思うけど。――それじゃあ元気で、さようなら」



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(C)siwasu 2012.03.21


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