奇妙なドアと愉快な猫
アリスは呼吸が少しずつ乱れてきていた。 一度も走っていないし、はや歩きすらしていなかった。 それなのに太陽の位置は変わらず、城の位置も変わらない。 歩いても歩いても、城に近付かないどころか、この森から出られさえしないのだ。
先程まで沢山あったキノコも徐々に無くなっていった。 代わりに今あるのは矢印の形をした沢山の標識。 城、街、会場、教会、市場、一番行きたい所、一番行きたくない所…。 変なことが書かれた標識が沢山ある。 しかも変な方向を指していた。
城と書かれた標識は右を、城の庭と書かれた標識は左を指しているけれど、肝心の城は真っ直ぐの方向に見えているのだ。 こんな状態では困る。 誰がこんな訳のわからない標識を作ったのだろう。 これでは標識の意味がないではないか。
『ああ、もう。ため息しか出ないわね。こんな調子じゃ、お城になんてつかないわ』 「にゃー?なーに?困ってんの?おねーえさん」
またどこからともなく声が聞こえてきた。
「こっちだよー」
声が聞こえてきたほうを向くと誰もいない。
「違うよ、こっちこっち」
反対を向いても誰もいない。
「こっちだってばー」 『もう、どこにいるのよ』 「あれ?怒っちゃった?ごめんね、ここだよ」
全く反省しているとは思えない明るい声は上から聞こえてきた。 太めの枝に少年が座っていた。
『え?あなた…』 「にゃ?人に名前を尋ねるときは、まず自分から、なんじゃないの?」 『あなた猫じゃない』 「まぁね、でも礼儀とかは一緒だよ。僕だって話せるんだからさ」
頭に生えた猫耳はぴくぴく動き、尻尾はゆらゆらと揺れていた。 動きから察するに楽しいらしい。
猫と言っても、人に耳と尻尾が生えているのだけれど、アリスにとってここは夢の世界。 ここに落ちてきた時にすでに不思議を体感し、あり得ない程の大きなキノコを見て、煙で文字を書くギルバートを見たのだ。 不思議だ、変だという感覚が少しずつおかしくなってきていた。
とは言え、やはりその耳と尻尾は気になってしまう。 しかし今何を言っても無駄な気がしたアリスは仕方なく、追求したい耳と尻尾の話題は頭の隅に追いやった。
『私はアリスよ。リオっていう男の子に連れられてここに来たの。それでギルバートって人にお城に行くように言われたわ』 「ふーん。リオがね。リオってね、すごく気が弱いけど、すごく優しいんだよ。良かったね、リオに会えて。あ、僕はイーヴァだよ。よろしくねー。僕とリオは幼なじみなんだ。僕の方がちょっとだけ歳上だけど、この世界じゃ時間はあってないようなものだからね」
イーヴァはアリスが相づちをつく暇もないくらいにぺらぺらと話し続けた。 そしていつの間にかアリスはイーヴァの後ろをついて歩いていた。
「時間はあるけど、日付が無いんだ。君がいた世界にはカレンダーってやつがあるでしょ?それがこっちには無いんだよ」 『どうして?それなら作ればいいじゃない』
「無理だよ。だって太陽も月もみんな適当に昇ったり降りたりするんだ。今日は太陽が昇ってる時間の方が長いみたいだよ。あ、それでね、すごくたまにね、夜に虹がかかるんだ」
『夜の虹?それなら条件さえ揃えば』 「条件なんて必要ないよ。言ったでしょ?適当なんだって。虹も出たいときに出るし、雨も雪も降りたいときに降る」
アリスには理解できないことだった。 天気はあらかた予想できるもの、原因は科学的に証明されているもの、それが当たり前で常識だったのだから。 常識はそう簡単に振り払えるものではない。 習うより慣れろ、というのが一番だろう。
『ねぇ、どこに向かっているのよ』 「標識を見れば分かるでしょ。お城」 『でもあの標識は変な方向を指しているのよ?』 「ちゃんと合ってるよ?分かりにくいけどねー。標識が示してるのはあれだよ」
イーヴァの指が示す先にはアリスにとって信じられないものだった。 そこは意味の分からない標識とドアに溢れた森だった。 そのドアには文字が書かれているものもある。
「ぼくが目指していたのはこれ。この薔薇が描かれたドアだよ。このドアは城に繋がってるんだ」 『え?でも待って、お城はあそこに見えているのよ?こんなドアじゃ』
(行けるはずがないじゃない。)
ドアは木の幹に張り付いている。 幹の大きさによってドアのサイズもばらばらだった。 標識にはハートの城と書かれていて、その向きは薔薇が描かれたドアを指している。
白いドア。 ドアノブはとてもおしゃれなもので、色はゴールド。 真っ赤な薔薇の絵は浮き出ているように見えるほど印象的だった。
「ギルバートに会ったってことは、キノコの森から矢印の森まで歩いてきたんでしょ?それなら分かるよね?この森の広さ。矢印の森からドアの森まではそんなに遠くはないんだけどね」 『そうね、思ったより遠かったわ』
「この森から城なんて、もっと遠いよ。今日は昼が長いけど、今日中になんて着かないよ。夜になったらここは真っ暗で危ないよ」 『でも信じられないわ』 「なら、開けてみれば?ほら、」
イーヴァはアリスの手をとり、そのまま薔薇のドアノブに触れさせた。 アリスは息を飲む。 ゆっくりとドアノブを回して、ゆっくりとドアを開いた。 ドアの向こうから光が差し込み、アリスは反射的に目を瞑った。
「ほら、僕の言った通りだった。このドアの先がハートの城だよ。リオもこのドアを使ってるよ」 『そう、なの』
(信じられないわ、本当に。こんな不思議なドアがあるなんて。お城はあんなに遠くにあるのに。)
「にゃはは、びっくりした?あのね、この薔薇のドアは1つじゃないんだ。森のあちこちにあって、どれも城に繋がってる。 でも色と模様は忘れちゃダメだよ?ドアはそれぞれ違う所に繋がってるんだ。例えば緑に薔薇がついてたら、ハートの城の庭につく。あと、街に行ったら建物のドアを見てみればいいよ。もし同じのが森にあったら、そこに繋がってるから」
イーヴァは楽しそうに尻尾を揺らした。
「どこに通じているのか分からなかったら一回開けてみたらいいよ。でも気を付けてね。少しでもドアの中に体が入れば場所は移動しちゃうから。もしも迷ったら僕がまた案内してあげるよ」 『分かったわ、ありがとう、イーヴァ』 「どういたしまして。あ、そうだ、僕の名前ね、違うんだ」 『え?ごめんなさい、私聞き間違えたのかしら』
「聞き間違えてはいないよ。ぼくは確かにイーヴァって名乗ったよ。でも僕は飼い猫じゃないからさ。だから好きなように呼んでよ。ギルバートもシルヴァも猫って言うし」 『じゃあリオは?』 「リオ?リオはウィルって呼んでる。他はイーヴァとかエドとかみんな勝手に。だから君も好きなように呼んでいいよ」
(ペットに名前をつける飼い主みたいね。本人がいいならいいけれど。)
『なんて呼ばれることが多いの?』
素朴な疑問だった。 決まった名前が無いなんて、名前自体が無いのと同じではないか。 そう思ったアリスだったが、当の本人は特に気にしていないらしい。
「え?そんなの決まってるよ。一番多いのは猫。一番楽だし、分かりやすいからね。その次はウィルかイーヴァだね」 『そ、そう。なら、ウィルって呼ぼうかしら』
「うん、改めてよろしく。じゃあそろそろ行きなよ。女王はいい人だよ、気に入られればね」 『ちょっと、怖くなるようなこと言わないで。ただでさえ緊張しているのに』 「でも行かなきゃ始まらない。女王の許可は絶対だから。じゃあ、行ってらっしゃい、アリス」
ウィルはひらひらと手を降って一歩後ろに下がった。 ドアの向こうには目的地の城がある。 アリスはウィルに手を降り返すと、開いたドアから漏れる光の中に足を踏み入れた。
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