風邪

『シルバー?』

聴き慣れた優しい声がする。
紫水晶のような瞳は何時も透き通り、何の穢れもない。
そんな愛しい恋人の声だ。
薄っすらと目を開ければ、ぼやけた視界が徐々にはっきりとしてきた。
そして見えたのは、倒れた時も見た優美な紫だった。

「……小夜?」

『シルバー!

起きたのね!』

シルバーは白くて柔らかいベッドに寝かされていた。
小夜が椅子に腰掛けてシルバーを看ている姿は昨日の二人と位置が逆だ。
小夜はまだぼんやりとしたシルバーの顔を覗き込んだ。

「お前も…起きたんだな。」

シルバーの声は掠れていた。
此方を見つめてくる小夜を見て、心から安堵した。

『気分は如何?』

「大分良くなった。」

シルバーが額に違和感を覚えて手を置くと、冷却シートが貼ってあった。
顔を起こさないまま部屋を見渡せば、此処が小夜の部屋ではないと気付く。
家具は同じような物が同じような場所に配置されていたが、小夜の部屋にはないテレビやソファーもある。
カーテンの色は薄い水色だった。
加湿機とヒーターが同時に作動している。
誰か此処に住んでいるのだろうか。
だがそれにしては生活感がなく、まるで新しく模様替えしたかのような部屋だ。
そして二人のポケモンたちの姿がない。

「此処は何処だ?

あいつらは…?」

『此処は私の部屋の隣にある部屋。

ポケモンたちは庭にいるよ。』

エーフィとスイクンにはとあるポケモンを探しに庭へ行って貰っている、と小夜は加えて説明した。
他のポケモンたちはオーキド研究所に勤務する研究員と一緒に、庭のポケモンの餌やりをしていると小夜は説明した。
丁度昼食の時間なのだ。
小夜が旅立つまでは、小夜とエーフィとボーマンダで庭のポケモン全てに餌を与えていた。
だが小夜がいない今、研究員に餌やりを覚えて貰っているそうだ。
ロケット団から解放された小夜は自分の存在を隠す必要がなくなった為、小夜のポケモンであるバクフーンとボーマンダは研究員の前に堂々と顔を出せるようになった。

「誰を探しているんだ?」

『ネンドール。

能力が戻ったから、ネンドールを直接見ればボールを遠隔で破壊出来るから。』

ネンドールは何処かにあるバショウのボールから誰かに放たれ、その際にテレポートしてきた。
ネンドールが入っているボールが小夜の手に渡らない限り、まだ正式に小夜のポケモンではない。
小夜の手持ちになる道を選んだネンドールのボールを遠隔で破壊し、新しいボールに入れるのだ。
そうなった時、ネンドールはやっと小夜のポケモンとなる。

「お前の言っていたやらないといけない事っていうのはこの事か。」

『そう。

もう今日やってしまうつもりよ。』

「そうか。

するなら早い方がいいだろうしな。」

小夜は後々庭の何処かにいるハガネールとも話そうと考えていた。
バショウからボールごと託されたハガネールは正式に小夜のポケモンだ。

「辛くないのか?」

『え?』

「あいつの遺品だろ。」

小夜は視線を斜め下に落としたが、哀しみを含んだ瞳で微笑んだ。
それでも小夜からは明瞭な覚悟が見て取れた。

『大丈夫、やり遂げてみせるよ。』

「…。」

『心配しないで。』

これは小夜の問題だ。
シルバーが安易に口出し出来る内容ではない。
それ以上シルバーが何かを追究しようとする事はなかった。
小夜は窓から庭を見つめた。
オーキド研究所は天井が高い為、四階からとは思えない程に見晴らしがいい。
シルバーは話題を変えた。

「此処はお前の部屋の隣なのか?」

『うん。』

そういえば四階には他にも沢山の部屋があるが、角部屋である小夜の部屋の隣が何の部屋なのか、シルバーには未知の領域だった。
もしかすると、此処はオーキド博士の別部屋なのかもしれない。
この四階は人目に入ってはいけない小夜が暮らしていた為、他の研究員が上がってくる用事がないようにしてある筈だ。
いや、それにしてはやはり生活感がなさ過ぎる。
色々な考えが痛みの残る頭に巡ったが、支離滅裂で上手く噛み合わない。
寝起きのせいもあるかもしれない。

『まあ、それはいいとして。』

小夜がシルバーの前髪をさらりと撫で、シルバーはその心地良さに目を閉じた。

『食欲は?』

「……今はいい。

夜は食べる。」

小夜は少しでも食べさせた方がいいと思ったが、まだ眠そうなシルバーを見て、先に寝かせてやった方がいいと妥協した。

「あの時、お前が受け止めてくれたのか?」

小夜は敢えて話を変えたシルバーに微笑みながら頷いた。
やはりシルバーが倒れる直前に見た紫は小夜だったのだ。

『コイルから聴いたよ?

頭痛で辛そうだったって。

今は如何?』

「痛みはかなり引いた。

明日には治る。」

早朝に酷かった頭痛はかなり和らいだし、部屋にあるヒーターのお陰か寒気もない。
それでもまだ若干の痛みは残る。
小夜はアウターのポケットから、半透明なプラスチックの容器に入った体温計を出して見せた。
耳に短いセンサーを入れるだけで二秒とかからず計測出来る最新型の耳式体温計だ。

『さっき測ったら熱があったよ。』

「何度だ。」

『八度二分。

朝はもっとあったんだから。』

「……。」

『だから明日には治るって言ってるけど、明日も安静にね。』

情けなくなったシルバーは小夜から視線を逸らした。
折角小夜が目覚めたというのに、次は自分が寝込むとは。
それにオーキド博士に何か手伝いたいと申し出たのに、この状態では無理だ。
小夜が溜息を吐くシルバーの首筋に手を当ててみると、まだ熱かった。
珍しく首筋に触れられてどきりとしたシルバーが小夜の瞳を見ると、それは伏せられていた。

『ごめんね、起きるのが遅れて。』

「また何日も意識が戻らないのかと思った。」

小夜が眠っていたのは一日に加えて半日といった程度で、二日も眠っていないのだ。
すっかり回復している小夜はすっと立ち上がり、作業用の机の上に置いてあったグラスと薬のシートを手に取った。
グラスには水が入っている。
シートから一錠だけ取り出し、シルバーの元へと戻った。

『風邪薬、飲んで。』

「ああ。」

小夜が椅子に腰掛け、シルバーは上半身を起こした。
すると小夜はシルバーに肩と腰を引き寄せられ、思い切り抱き込められた。

『っ!』

見事な反射神経でグラスの水を溢さずに済んだ小夜は真っ赤になった。
シルバーはお構いなしに小夜をきつく抱き締める。

『危ないじゃない!

溢すところでしょう!』

「お前なら溢さないと思った。」

『…もう。』

小夜は両手に其々グラスと薬を持っていた為、シルバーの背に上手く腕を回せない。
シルバーだけずるい。
そう言おうと思った矢先に、シルバーが小夜の耳元で囁いた。

「お前の意識が…早く戻って良かった。」

大きな心配事が解消された。
意識不明から回復した経歴があったとしても、目を覚ますと信じていたとしても、心配なものは心配なのだ。
心臓の高鳴りが止められない小夜はシルバーの温もりに陶酔し、そっと瞳を閉じた。
シルバーの肩口に頬を擦り寄せると、シルバーが腕に力を込めた。
小夜を包むシルバーの身体は何時もより熱い。

『シルバーの事、看病出来るから良かった。』

「看病…か。

お前に看病されるのは妙な感じがする。」

今まではシルバーが意識不明の小夜を看たり、小夜の怪我を治療したりしていた。
今日はそれが逆なのだ。

『妙って何よ。

ほら、薬飲んで。』

「ああ、悪い。」

身体を離す際に間近で視線が合い、二人は思わずぴたりと動作を止めた。
お互いの心拍数が自然と上がっていく。
小夜がぽうっとしながらシルバーを見つめていると、シルバーは小夜の肩を優しく押した。
無防備にも熱の籠った瞳を向けてくる小夜を見ていると、如何も手を出したくなってしまう。
シルバーは思い出したように言った。

「移らないようにしないとな…。」

『シルバーの風邪なら貰ってあげてもいいよ。』

「貰われると困る。」

『でもシルバーが風邪を引いたのは私のせいよね?』

「そんな訳ないだろ。」

シルバーは小夜からグラスと薬を受け取り、一気に流し込んだ。
飲み終わった後にゆっくりと息を吐き、小夜にグラスを受け取って貰った。
小夜は申し訳なさそうに言葉を続けた。

『だって私の意識がなくなってなかったら、此処まで帰ってくる必要はなかったもの。

そうしたらあんな長時間も寒い中で空を飛ばなくてもよかったのに。』

「俺が柔だっただけだ。」

『ブランケットだって二人で寄り添って一緒に被れば暖かかったのに。』

「深く考え過ぎだろ。」

『でも…。』

シルバーはグラスを持ったまま俯く小夜の頭を手の甲で小突いた。

『む。』

「お前が看病してくれるんだろ?」

小夜は驚いたように数回瞬きをしてから頷いた。
微笑むシルバーに頭を撫でられると幸せな気持ちになり、無意識に顔が綻んだ。
そろそろシルバーを寝かせようと思った時、ある事を思い立った。

『そうだ、聴こうと思ってたの。

コイルの事。』

「癒しの波導か?」

『そう。』

コイルの主人はシルバーだ。
小夜はシルバーに相談してからコイルに癒しの波導を使用すると決めていた。

「頼まれてくれるか?」

『勿論。』

「助かる。」

小夜が可愛らしくウインクし、不意を打たれたシルバーは真っ赤になった。
それを誤魔化すように布団に素早く横になった。
仰向けで布団を口元まで上げる。

「っ、寝る。」

『?』

小夜は赤面するシルバーに不思議そうな顔をしたが、布団を丁寧に直してやった。

『早く良くなってね。』

「ああ、迷惑掛けて悪いな。」

『気にしないで。』

シルバーは小夜がふわりと微笑むのを見ると、愛らしいと感じると同時に眠気が襲ってきた。
目を閉じると、早くも眠りに誘われた。




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