一泡
扉は施錠した筈だったのに。
何故、外から開けられたのか。
ベッドに横になっていたシラヌイは、突如現れたマントの人物に目を見張った。
「よぉ、クソ野郎。」
「何だ貴様は…!」
その人物、シルバーはベッドから降りたシラヌイの襟首を手袋越しにあっという間に掴んだ。
ベッドライトが灯っている丸テーブルの横で、シラヌイは背中を壁にぶつけられた。
更に首筋に何かを突き刺され、鋭い痛みを感じた。
シルバーが注射器の針を深々と刺し込んだのだ。
顔を歪めるシラヌイに、マントのフードで顔を隠しているシルバーは口角を上げた。
「この中身は俺が毒薬から抽出した神経毒テトロドトキシンの濃縮液だ。
もし体内に注入すれば如何なるか…研究者のてめぇなら分かるな?」
シルバーは注射器のプロテクターに指を掛けながらも、シラヌイの襟首を離さない。
顔面蒼白のシラヌイは両手を挙げて無抵抗を示し、目を血走らせながら身体を震わせた。
ほんの数mgで致死量に達する神経毒、テトロドトキシン。
一部の毒タイプのポケモンが体内に溜めているという猛毒だ。
その濃縮液となれば、数滴で死に至るかもしれない。
今、自分の生死の運命はこの青年に握られている。
「鍵は…か、かけ…。」
鍵はかけた筈だ、と言いたいらしい。
シラヌイの震える声に、ゲンガーが姿を現した。
扉を解錠したのは、透明化していたゲンガーだったのだ。
シルバーの後から室内に侵入したオーダイルは、シラヌイのパソコンの電源を入れた。
クロバットはパソコンの隣に置かれていた資料を短い足でペラペラと適当に捲った。
シルバーはシラヌイの襟首を掴む手に力を込めた。
「今から俺の質問に全て答えろ。
少しでも嘘を吐いていると思えば、これを一気に押し込む。」
「わ、分かった…何でも答える…!」
ロケット団という組織が後ろ盾にあるとはいえ、本来は小心者らしい。
シルバーは見下すような視線でシラヌイを睨んだ。
「ポケモンに感染させるウイルスを開発しているのは本当か?」
「何故それを…!」
シルバーが襟首を更にきつく掴み、シラヌイの呼吸が苦しくなった。
「ほ、本当だ!」
シルバーの背後では、オーダイルが事前に支持された通りにシラヌイの小型タブレットを触っていた。
設定画面を操作してインターネットから切断し、USBコードでパソコンと繋いだ。
データ削除をスムーズに行う為の準備だ。
「誰と共同開発している?」
「開発しているのは私だけだ…サカキ様に賞賛して頂こうと…!」
シルバーは注射器を限界まで刺し込み、ねじ込んだ。
鋭い痛みに顔を顰めるシラヌイは、目に恐怖の涙を浮かべた。
「嘘じゃ、ない…本当だ!」
「開発の経過状況を全て話せ。」
開発経過という言葉を聞くと、シラヌイは恐怖の中に誇らしげな色を見せた。
シルバーは目を細めた。
「ウイルスは…もうすぐ完成する。」
自分の研究成果を自慢するかのように、シラヌイは震えながらも傲然と話し始めた。
「私が開発したコンピュータソフトで、ウイルスの生成工程や感染のシミュレーションを繰り返している。
成功は目前だ。
感染した個体はその能力を劇的に伸ばして変異し、我々ロケット団に忠実に従うであろう。」
ポケモンを個体≠ニ表現するシラヌイに、シルバーは怒りを覚えた。
この男はポケモンを道具としか見ていない。
小夜に出逢う前の、嘗ての自分のように。
その一方で、コンピュータ上で開発を進めているというのは本当の話だった。
「弱い個体はウイルスに耐え切れずに生き絶え、強い個体のみが生き残る。」
「生態系が崩れる。」
「私には関係ない。」
シラヌイは両手を小刻みに震わせながら、狂気的な目をした。
その目にオーダイルたちは警戒した。
「もうすぐ…もうすぐだ。
私はサカキ様に偉大なる功績を讃えられ、世界最高権威の学者となるのだ。
全世界は私とロケット団に脅え、跪き、服従するであろう!
貴様はウイルスの生成方法を知りたいのだろうが、絶対に渡さん!」
シルバーは嘲笑した。
饒舌に語るシラヌイは、シルバーがウイルス生成方法を盗み出そうとしているのだと思っているらしい。
本来の目的はそれよりもタチが悪い。
シラヌイの研究成果どころか、シラヌイ自身の記憶さえ抹消してしまうのだから。
「俺は開発の経過を話せと言った。
無駄な事は喋るな。」
シルバーは注射器のプロテクターを指で外す動作をし、カチリと不気味な音がした。
実際には外していないが、シラヌイにはそれが見えていない。
雄弁を振るっていたシラヌイの顔から血の気が引いた。
その唇は真っ青になり、顎が小刻みに震えている。
身体中に戦慄が駆け巡っていた。
「ウイルス製造の実験段階には入ったのか。」
「それはまだだ…。
実験対象となる、こ…個体を…生体実験施設に集めているだけだ。」
「それは何処にある?」
「チョウジタウンの北にある、い…怒りの湖の更に北…森の奥深くの…ち、地下だ。」
シルバーは繰り返し吃るシラヌイが嘘を吐いているようには思えなかった。
実際、シラヌイは嘘を吐いていなかった。
チョウジタウンの遥か北にロケット団の生体実験施設があるのを、シルバーは知っている。
「…もういい。」
シルバーは注射器のプロテクターを外し、中身を押し込んだ。
シラヌイの足が震え、襟首を放された途端にその身体は床に崩れ落ちた。
死の恐怖に慄いて倒れ込むと、冷たい表情をしたシルバーに見下ろされた。
「ぐっ…貴様…私は全て話したというのに…!」
「俺には関係ない。」
シルバーは先程のシラヌイの台詞を真似て、皮肉った。
ゲンガーに目配せして合図を送ると、シラヌイの意識は其処で途切れた。
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