赤いベランダ


 その花の存在に気がついたのは、小学生の時だった。

 学校から家まで、一人で歩いて帰っていると、なんだか香水のような香りがして、顔を上げた。
 そして視線の先にあったのだ。
 とある集合住宅地にある、大きなボロマンションのベランダ。
 そこに、溢れ出さんばかりに咲き誇る、たくさんの薔薇の花が。

 当時も当時で、凄まじい違和感を感じたものだ。
 上下左右の家は物干し竿に洗濯物が掛かっていたり、布団が干されていたりしてるのに、その家ひとつきりが紅く紅く彩られていたから。

 色褪せた建物に似つかわしくない。
 いや、例え新築であったとしても、その違和感は僕を襲っただろう。


「、そんな、こと。本、人の前で言うものじゃな、いわ」

 2階にある例の一室を食い入るように見上げ続け、立ち尽くしていたあの日。
 それを思い出しながら話していると、部屋の主はギッギッと不規則に言葉を途切れさせ、抑揚のない声でそう口にした。

 蝋燭のように青白い肌。
 ふっくらとして、だけどくすんだ色の唇。
 大きいけど虚ろな瞳と、控えめに高い鼻。
 鹿のように細くて華奢な体と、丈が長い黒のワンピースに、線の細さを隠すように伸び、その体に纏わり付く長い黒髪。
 そして果てが見えない無表情。

 彼女は、地縛霊というものらしかった。


「カズミ、は、お花が嫌いなの」

 家具と呼べる家具が、ちゃぶ台ひとつしかない、だだっ広いフローリングの一室。
 明かりも何もなく、ぬばたの闇が月明かりと溶け合い、掻き消す中、人形が無理矢理その首を曲げられてしまった時のように、青白いその人はぎこちなく首を傾げた。

 僕はそれをやんわりと「そうじゃない」と否定した。

「すごく不思議だったんだよ。薔薇なんて本当は臭いなんてないんじゃないかって思ってたから」

「種類に依る、って前に言ったわ。変な、カズミ」

「じゃあ、香りが好きだからあんなに咲かせてるの?」


 そこまで尋ねると、彼女は口を閉ざした。
 決まってこうだ。
 何故花を咲かせているのかを聞こうとすると、それまでにいくら饒舌にさせたところで、それは水の泡になる。
 元から口を利きたがらない彼女が何故こうなるのかが、分からない。
 知りたいけどきっと無理だろう。



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