6.



「早いとこ済ませなよね」

「うん」

 返事をすれば、宜しくと言って戻ろうとする。
 で、「あっ」と思い出したように声を上げると、引っ込めた顔をまた出して、にこにこしてこう言ってきた。


「敬、たまにはホットケーキ作ってよ」

「は? なんで?」

「前はよく作ってくれてたじゃん」

「前って……」


 小学生の頃のこと?
 だとしたらどれだけ前のことを言ってるんだろう、この姉は。
 薮から棒にそんなことを言い出した張本人は、それでも


「敬のがいい」

 と言う。
 なんだか呆れてしまって、僕は笑って首を横に振った。


「やだよ。母さんに作ってもらえば?」

「敬のが焼くの上手じゃん。焼いてよ。焼いてくれるでしょ? 約束だからね!」

「あ、えっ――」

「よろしく!」

「ちょっと待――、オイ!!」


 叫ぶより先にスリッパの音は遠ざかっていた。
 前から思ってたけど、なんていう、自由人。
 いつもいつも突発的に、何かしら程よく守れる約束を強引に取り付けては、僕より二つ上の姉は素早く走り去って行く。

 押し付けられた約束にぽかんとしてる僕の耳には「あとお風呂掃除もよろしくー!」なんていう声も随分遠くから聞こえた。
 呼び止められないまま、約束を跳ね返すこともできないまま、湿気た空気を吸って吐いてを繰り返す僕は、なんだか馬鹿みたいだ。

「……しょうがないな」

 言い出したら聞かない。
 約束とやらを破れば激昂する。
 釈然としないながらも、姉のそれは心底嫌いになれないから、尚さらたちが悪いと思う。
 ため息を長く吐き出すと、僕はシャワーを手に、蛇口を捻る。
 途中、乱雑に床に転がったカミソリに目が留まった。

 ああ、なんかまただな。

 心の声は不思議と落ち着いている。
 どっしりとした重みが消えうせて、さっぱりとしていて。
 また僕はいきそびれてしまった。
 その現実はきっと、明日の僕にのしかかって来るんだろうけど、それでも僕は思うんだ。

「まだ、大丈夫」

 呟くと、少しして例のスリッパの音が近づいてきた。
 僕はカミソリを拾い上げると、シャンプー棚に放り込んで、収まったそれを見つめる。

 孤独で満たした地獄がある、なんて誰かが言ってた。
 僕がいる日常はそれに似てるけど、どうやらそうじゃないらしくて、その上名前が分からない。
 カミソリを見つめながら探しても、結局今日も見つからない。

 僕は僕の名前を賑やかに呼び続ける声に、うっとうしげに応えると、シャワーを止めて、バスルームから出る。
 もう肌の下には、何もなくなっていた。



混濁セレモニー 了
2012.11.14


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