5話 そんなやりとりを日吉先生としてからはや数ヶ月、季節は巡り高校二年生だった私は進級の時期をむかえていた。日吉先生のアドバイスを受けながら跡部先生を落とすという計画は、結論から言えば成功はしていない。日吉先生はすぐに上手くいくはずだと言っていたけど、跡部先生は日吉先生が思っているよりもずっと恋人のことを愛していたのだ。とはいえ、私と跡部先生の関係が少したりとも発展していないのかと問われればそれは否だ。相変わらず跡部先生は恋人のことを愛しているようだし、私のことを生徒として見ていることには変わりないけど、告白した当初よりはずっと親しく接してくれるようになった。ときどき、本当にときどきだけど酷く優しい眼差しで私を見つめてくれることもある。だけど私はそんなことがあるたびに先生の恋人のことをおもってしまう。とてつもなく息が苦しくなる。先生に好きになってもらいたい、そう思っていたはずの私は、先生との距離を縮めるたびに何故だか先生の恋人の気持ちを深く考えるようになってしまっていた。 「日吉先生のアドバイスはすごいですよね」 すっかりお馴染みになった放課後の学生食堂、いつものように日吉先生の奢ってくれた紙コップのココアを飲み下した私は向かいの席に座る先生に向かって呟いた。 「たしかに俺のアドバイスは完璧だ。これでお前があの人と付き合えないならそれはお前に問題があるとしか思えない」 「それじゃあ私には問題があるんですね……」 「まだ付き合えないと決まったわけじゃないだろ」 「付き合えっこありませんよ。跡部先生は恋人と別れたりしません」 「それはどうだろうな。俺はあの人が恋人と別れるのは時間の問題だと思うぞ」 先生のその言葉にはそうであってほしいというニュアンスが含まれていた。それは今日のその言葉に限ったものじゃなくて、私の相談にのり始めたときから今日に至るまでずっと、先生は言葉の端々に跡部先生と恋人が別れてしまえばいいという意思を滲ませていたのだ。 「……先生は跡部先生が恋人と別れてしまえばいいと、そう思っているんじゃないですか。だから私の相談にのってくれたんでしょう?」 「卑屈なことを言うんだな。俺はお前が思っているよりもずっとお前のことを気に入ってる。他の生徒にはこんな贔屓はしない。 ……だけど、そうだな、確かに俺はあの人とあの人の恋人に別れが訪れることを願ってる」 そこまで言った日吉先生は切なげに口元を緩ませた。これ以上深入りしたらいけない……これ以上言葉を重ねたらきっと私は先生を傷つけてしまう。そう分かっているのに、 「先生は、どうしてそんなことを願うんですか」 幼い好奇心はおさまらず、私は日吉先生の懐に小さな棘を刺した。 「……どうしてだと思う?」 「えっ……例えば、先生は跡部先生の恋人のことが好きで、だから跡部先生とは別れてほしいとか」 「それはないな。俺はあの人の恋人のことが嫌いだ」 「嫌い……?」 どうしてですかと尋ねてしまいたい。だけどこれ以上はもう……黙りこくる私を見つめていた先生は、私が尋ねられなかった質問の答えを自ら教えてくれた。 「恋があの人からテニスを奪った。だから俺はあの人の恋人が憎いんだ」 「……お二人はテニスをしてたんですね」 「あの人はこの学校の中等部でテニス部の部長をやっていた。一年のときから三年の夏の大会が終わって引退するまでずっとだ」 「それは……」 素直にすごすぎる。氷帝のテニス部と言えば全国大会常連の名門のはずだ。部員だって馬鹿みたいに多い。そんな部で一年生のときから部長をしていたなんて……なんというか、さすが跡部先生って感じだ。 「俺はあの人に憧れてテニスを始めた。あの人を越えるためにテニスをしていたと言っても過言じゃない位だ」 「……日吉先生は、跡部先生を越えることが出来たんですか」 「出来なかった……入学してからあの人が部活を引退するまでの二年半、がむしゃらに努力したがそれでも追いつけなかった。あの人はテニスに対して誰よりも誠実だった。俺なんかのがむしゃらでは足りないくらいに努力していたんだ。……それでも、高等部に入ればまたあの人を越える機会は与えられる、いや、あの人がテニスを続けている限りは何度でもあの人とプレイすることが出来る、そう思っていた矢先にあの人は恋をした。あの人は初めてテニス以外に情熱を傾けられるものを見つけたんだ。あの人の恋は本物だった。だからあの人はテニスをやめた」 「えっ……」 気がついたら間抜けな声をあげていた。日吉先生が跡部先生が誰よりもテニスに対して誠実だったと聞かせてくれたからだろうか、好きな人ができたくらいでテニスをやめてしまっただなんて不思議に思えた。 「両立は出来なかったんですか? 跡部先生はとても器用な方なのに」 「いくら器用でもあの人は人間だ。万能じゃない。なによりあの人は誠実だった。二つのものに一緒に情熱を傾けるなんてことは出来なかったんだ」 「そんな……それじゃあ誠実な人間は愛する人と結婚して、夢を叶えることは出来ないっていうんですか」 「そうは言ってない。あの人には出来なかった、それだけの話だ」 「そんなの、悲しすぎます……」 「そうだな、喪失感でいっぱいになった俺はあの人からテニスを奪った恋を、恋人を憎んで、恋人と語らうあの人を視界に入れるたびに後悔した」 (後悔……した?) その言い回しはおかしいんじゃないだろうか。今の話のどこに日吉先生が後悔するポイントがあるというんだろう? 中等部のうちに跡部先生を越えられなかった自分を不甲斐なく思って、もっと努力すればよかったと後悔したとか? ……違う、しっくりこない。 胸の奥に息吹いた小さな違和感は私に今まで日吉先生とかわしたたくさんのやりとりを思い出させる。 (もしかして……いや、まさか) 「先生、聞きたいことがあるんです」 「なんだ?」 「跡部先生の恋人は、跡部先生と別れたいと思っているんですか」 「……そうだな、別れたがっているんじゃないか」 「それってもう跡部先生のことは愛していないということですよね?」 「違う! 愛してる、愛しているから……自分では幸せに出来ないと分かっているから、別れたいと、」 そこまで言った日吉先生はしまったという表情を浮かべて口を噤んだ。だけどもう遅すぎた。私はすべてを察してしまった。 「……どうせなら、最後まで隠し通してくださいよ」 思えば初めからおかしかった。先生はただの後輩にしては跡部先生のことを、そしてその恋人のことを知りすぎていた。 「どういう意味か分からないな」 ……この人、あくまで白を切るつもりなんだ。あんなに簡単にボロを出したくせに。 「余計なことは考えるな。お前は恋人からあの人を奪えばいいだけだ」 「そんなこと……」 「頼む」 急に真剣な表情になった日吉先生は座ったままの姿勢で私に頭を下げた。 「やめてください! 私、頭なんて下げられたくない……むしろこっちが頭を下げたいくらいです」 「あの人もあの人の恋人ももう限界なんだ。互いの名前も呼びあえないくらいに磨耗してる……あの人の恋人は、自分がいなくなったあとにあの人を支えてくれる人間がいないと不安で、あの人から手を離すことが出来ない」 「だから……日吉先生は私を利用したんですか」 「違う、俺はお前にならあの人を任せられると、」 「同じことです……! 酷い……私、来年度も先生が担任だったらって……そう思ってたのに」 このときの私は怒りに身を任せることしか出来ない愚かな子供だった。だけど日吉先生は狡い大人だから私の怒りを冷ます手段を知っていて、すぐに実行に移した。 「……お前に話したいことがある。こんなタイミングで話すのはどうかと思うが……とりあえず、まずは謝る。悪かった、本当にお前を利用するつもりはなかったんだ。俺はお前のことが気に入ってた。 ……これから話すことはまだ誰にも伝えていないことだ。俺は、」 [back book next] ×
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