6話 『俺はこの春から教師をやめて実家の道場を継ぐことにしました。これからは実家で暮らします。それに差し当たってあなたとの交際も……』 長い恋人生活の終わりはあまりにもあっけのないものだった。終業式を迎えたこの日、恋人の匂いの染み付いたまま跡部の自宅からは既に“彼”の荷物は運びだされている。 それなりに長い年月を跡部の所有するそのマンションの一室で過ごしていたはずの彼の纏めた荷物が引っ越しというよりは旅行に近いような質量しかないことに気付いた跡部は、そのときになってようやく彼がはじめから自分と添い遂げるつもりなどなかったのだと察した。そうして、愛していたのは自分ばかりだったのだと彼の薄情さを呪った。 資料室に籠もり鬱々とした感情を持て余す跡部の鼓膜を扉をノックするコツコツという音が震わせる。生徒が春休みの宿題についての質問に訪れたのだろうか、そうだとしたら今は勘弁願いたい。現在の跡部はとてもじゃないが他人に優しく勉強を教えてやれるような気分ではないのだ。 「悪いが、今日は、」 「失礼します!」 言うが早いか扉を開いて中に入って来たのは三澤宵子だった。跡部に好意を寄せている生徒だ。普段は生意気で口答えばかりしているくせにときたま酷く素直になる彼女の存在は跡部の中で大きくなりつつあった。 「なんの用だ?」 「伝えたいことがあって来ました」 「告白なら聞き飽きたぞ」 「……すみません、告白です」 「それなら、」 「だけど……私からのものじゃないんです。先生の恋人さんからの告白です」 「なっ……」 彼女はどうやって事実を知ったのだろうか。彼が彼女の相談にのっているという話は聞いていたが、まさか素直に話して聞かせたわけではあるまい。 「この前日吉先生が話してくれたんです。自分は実家の古武術の道場を継ぐために教職を離れるって……だからもう相談にのってやることは出来ない、すまないって。……それから、あの人に伝言を頼みたいって、日吉先生は言いました」 あの人というのは無論跡部のことなのだろう。今にも泣き出しそうな表情を浮かべた彼女は蚊の鳴くような声でここからは一言一句違えずに伝えますと呟いた。 「あの人の恋人は、“跡部さん”のことを愛していたし、今でも愛してる。だけどその愛を素直に育てるには跡部さんを越えるという夢は大きすぎた。あの人の恋人はそんな風に恋を憎むことしか出来ない自分では跡部さんを幸せには出来ないと考えて、自分のもう一つの、跡部さんを幸せにするという夢を他の人間に託すと決めた……あなたはあなたの恋人の夢のためにも幸せになってください」 「若が、そう言ったのか」 「間違いなく……」 「そうか、あいつは、」 (俺を愛していないわけじゃなかったんだな……) 愛しているからこそ離れていったのだ。彼の愛は他人には理解出来ない程に壮絶なものだった。現に彼の言葉を伝え切った彼女は不服そうな表情を浮かべてうつむいている。 「愛しているからこそ、自分の手で幸せにしたいって……そう思うものじゃないんですか」 「それは……十人十色だろうよ」 「……私は、自分の手で跡部先生を幸せにしたいんです」 そう言った彼女は遂に泣き出してしまった。彼女は跡部と、それから彼のことを想って泣いているのだ。自分の手で跡部を幸せにしたいと言ったくせに、彼が夢を諦めたことが悲しくて泣いているのだ。そう思うと震える彼女の小さな肩が途端に愛しく思えて跡部は胸元から取り出したハンカチを彼女に差し出した。 「ガキのくせに、俺様を幸せにするなんて十年早いんだよ。せめて高校ぐらいは卒業してから出直しやがれ」 「時間が必要なのは私が子供だからじゃなくて先生が未練を捨てられないからじゃないですか」 売り言葉に買い言葉、しかし跡部の言葉の本質をついた彼女は跡部の差し出したハンカチをはたき落とした。そうして瞳を涙で潤わせたまま跡部に向かって噛み付くようにこんなことを言う。 「大人になるどころか、先生の未練が消える頃には私おじさんの先生は土下座しても付き合えないようないい女になっちゃってますからね! だけどいい女は昔の約束を忘れないから土下座なんかされなくてもあなたを幸せにしてあげるんです……だから、だから……先生は安心してゆっくり私を好きになってください」 はたき落とされたハンカチを持っていた方の手に彼女の利き手が重ねられた。骨々しさのない柔らかく温かい女の手だ。その手に更に自分の空いている方の手を重ねた跡部は彼女につられて泣き出しそうになりながらもそれを堪える。 「……俺を、幸せにしてくれるか」 「先生ったら、情けないことをおっしゃるんですね。だけど、そんなところも嫌いじゃありません」 骨の髄まで愛してますと呟いた彼女は、 「先生を幸せにしてあげるのなんて当たり前です。……だって、それは、私の夢ですから」 彼の全てを背負いこんで涙を拭った。 [back book next] ×
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