ヤナ女

 駅からマンションまでの十分程度の道すがら、隣を歩く男の足音を数えている。三十をひと纏まりとして、つい先程四周目が通り過ぎた。それは波打ちがちな私の心を落ち着かせるためのおまじないとして幼い頃から何度も採用された手段で、二十代も半ば近くなった現在においてもそれなりの成果を保っていた。
 心臓の拍動がまともな速度に戻ったことを確認してから深く息を吸い、三秒静止する。それをゆっくり吐き出したところで、隣の男が口を開いた。
「手、寒いんスか」
「えっ」
「駅出てしばらくしてからずっと擦り合わせてるから」
 頭の中に、部屋の靴箱の上に置き去りにされた手袋の像が浮かぶ。今朝コートに袖を通したときに想像していたよりも、二月の冷え込みは厳しかった。
「無意識だった」
 知らず知らずのうちに擦り合わせていた両の手を、コートのポケットに突っ込んだ。彼に指摘されたその仕草が、とても品の悪いもののように思われたからだ。しかし五歩と歩かない内に、ポケットに手をねじ込む方がなお悪いと気がついて、冷え切ったそれを外気に晒す。
「俺が言うのもアレですけど、アンタ落ち着きないって言われません?」
「あんまり」
「ホントっスか」
 本当だった。常の私は、ここまで挙動不審じゃない。大人になるにつれて、それを押さえ込む手段を身につけていたから。今日は、この時間は特別なのだ。久々に顔を合わせたかつての後輩を前に、私はすっかりペースを崩されていた。
「まあ職場とか仲間内で言われてねぇならいいけど」
「よく言われるのは、おとなしいとか、前に出ないとか、表情がないとか」
「へえ」
 そこで会話が途切れた。全部“暗い”の婉曲表現なんだと思うよ、と言ったら彼はどう応えるだろう。想像してみたけど、上手くいかなかった。私は彼の内面を殆ど知らない。彼が私にかつてかけた言葉を覚えているとも思えなかった。
 街灯の少ない薄暗な道に、レンガ風のタイルのあしらわれた建物が現れた。あそこがうち、と私が指差すと、彼は歩みを緩め、自分はそこで引き返すと言う。マンションのエントランスの光に照らされた彼の耳は赤らんでいた。私がまだ中学に通っていた頃、初めて口を利いた日も彼はそんな風に白い肌を紅潮させていた。

 部に活きがいい二年生がいる、と切原赤也の存在を私に仄めかしてきたのは当時付き合っていた同じクラスの男の子だった。彼はぱっと見、練習に励みレギュラーの座を勝ち取ることにはさほど執着していないようだったが、実際には周りにそう見られるように振る舞っているだけだったと思う。テニスに関心のなかった私に、一年生の頃からレギュラーの座に収まっている後輩の名前をわざわざ聞かせたのがその証だ。
 彼はしばしば、帰宅部だった私に練習風景を見学するようにねだった。殊更友達が多いわけでもなく、趣味もなかった私は、大抵の場合それに応じ、膝を揃えて観戦席に座っていた。
 私は飾りだった。レギュラーではないもののそれなりに形の良い恋人がいることを彼が示し、自分は惨めではないと心を保つための。彼に直接そう言われたわけではないけれど、私が物心ついた頃には既に専業主婦だった母にも、いつも同じような使われ方をしていたのできっと間違いではない。
 身の回りの人間の承認欲求によってのみ形作られた私と切原君が初めて対峙したのは、夏休みに入る少し前のことだったと思う。神奈川県大会の最中で、テニス部の練習は苛烈を極めていたが、その頃には陽が落ちるのも随分と遅くなっていたので、練習を終えてもあたりはまだ明るかった。
 その日の私は、恋人によって遂には部室棟の前で待つことを命じられ、練習終わりの同級生や後輩達とすれ違いながら彼を待っていた。あのときは随分と長いこと立たされていたはずだ。制汗剤の爽やかかつ鬱陶しい香りの種類を五つか六つ程度数えたとき、不意に全てが面倒になった。
 彼との別れを決意した私の目の前に、部活終わりの体を制服に包んだ男の子が現れた。活きがいいのはワカメみたいな頭をしている。彼がそう語っていたので、私はすぐさまその子が切原赤也だと気が付いた。
「赤い」
 コートの内側で駆け回る姿は何度か見たことがあったが、間近で見る彼の存在感に私は怯んでいた。練習終わりで紅潮した耳の色を、思わず口走ってしまったのもそのためだ。
「なんスか」
 耳に届いた怪訝な声の響きにまた怯む。その声は、今までの人生で聞いたことのない性質のもので、いい声なのか面白い声なのかの判別すらつかなかった。
 先輩としての矜持のかけらもない私がまごついていると、切原君は彼の苗字を呟いてから「彼女さんっスよね」と人懐っこい笑顔を浮かべた。一重まぶたに縁取られた瞳が、かまぼこのような形を作る。それを認めると、また何も言えなくなった。元々口数の多い方ではなかったが、あそこまで言葉に詰まったのは人生の中であの瞬間だけだ。
 気まずい沈黙が流れていた。一度やりとりが始まってしまった手前、先に帰るわけにもいかないとでも思っていたのか、切原君は閉ざされたままの私の唇を見つめていた。あるいは表情に乏しい顔の全体を観察していたのかもしれない。私もまた彼の相貌を見つめていた。途中で通り過ぎていった何人かの二年生にも、切原君は声をかけなかった。
 待っててくれたのか。
 ラケットバッグを背にした彼が現れたのは、奇妙な睨み合いが飽和点を迎える直前だった。彼は気がつけば随分と近くまで迫ってきていた切原君の姿に気がつくと、一瞬不快げに眉をひそめた。
 切原と話してたんだな。
 私は控えめに頷いた。
「喋るってほどのもんじゃありませんけど」
 一年近く付き合っていた彼の声は記憶の底に沈んで取り戻すことが出来ないのに、切原君の声を忘れたことは一度もない。
「これから下校デートっスか」
 へらへら笑う切原君に、私は憤りを覚えていた。
 今日もすごかったな、というような言葉を彼は切原君にかけた。あのときの彼の、卑屈げに下がった眉の角度ばかりをはっきりと思い出すことが出来る。それがどうしようもなく悲しい。特別な存在ではないのは、私も同じだから。
「副部長にはコテンパンにやられましたけどね。今からまたクラブに打ちにいくんで、明日こそは勝ちますよ」
 切原君の言葉通り、私と帰宅路でデートを楽しむつもりだったらしい彼が生唾を飲んだのが分かった。流石だなぁ、とその場から立ち去るために私の手首を握り込んだ手のひらは震えていた。切原君の視線は、その段になっても私に向けられていた、と思う。

「先輩の彼女さん、キレーだけど暗いっスね」

 彼は、それを否定しなかった。私にそれを責める権利はない。
 なんとなしに陰鬱な二人きりの帰路を経て、自宅に辿り着いた私は、洗面台の前で作ってみた自分の笑顔があまりにも歪なのに驚いた。幼い娘に、カメラのレンズを向けるたびに、歯を出すな、と口を酸っぱくしていた母の言葉の意味がそのときようやく分かった。
 私はそれ以降極力人前で大きな笑顔を見せないように努めるようになった。細い肩を軽く前に巻きこみ、意味深に睫毛を伏せ、歯を噛み締めることなく唇をとざす。その形を保っている限り、私は美人の扱いを受けることが出来た。
 その内、心までもが外見に巻き込まれて、私はより一層陰気な人間になった。
 切原君の姿は、その後も校内で幾度となく見かけた。再び口を利くことこそなかったものの、一号館と二号館を結ぶ吹き抜け廊下ですれ違ったときに堪えきれずに振り返ると、彼もまたこちらを見ていたことがあった。
 キレーだけど、暗い。
 改めてそう思われている気がした。
 十三歳だった切原君に投げつけられた言葉に縛られ続けたまま、私は社会人になっていた。
 美人と呼ばれるだけの容姿を持っているものの、快活とは程遠い女にばかり耽溺してしまう男性がこの世には一定数存在する。私はしばしその手の異性と交際し、彼らが自分にのめり込んでいる予兆を感じると、あっさりと手を離した。性格の暗い人間の大半と同じように、私には根気がなく、彼らの好む形を保ち続けるのが億劫になってしまう。
 そういう風に雑に関係を絶った男がストーカーと化し、元カノに復縁を迫る手段としてはポピュラーであろう待ち伏せを発端に、決死の揉み合いに至っていた駅前で、私は切原君と再会した。
「痴話喧嘩?」
 駅前に並んだ自転車を横倒しにしながら私を押さえつけていた元彼に切原君は訊いた。私は声の主が切原君であることがすぐに分かったが、彼は腹にサドルのめり込む痛みを押し殺していた女がかつての立海の上級生であったことには気がついていなかったと思う。
「切原君!」
 そんな風に大きな声を出すのは久しぶりだった。自分の名前に反応して落ちた彼の視線は、横倒しになった自転車のライトに照らされた私の顔を捉えた。アンタ、と呟く声が僅かに掠れていて、ろくでもない状況なのに、私は彼が自分を覚えていたことを喜んだ。
 この人と約束してたの、と切原君を指差したときの私の声の強さに、元彼はすっかり気の萎えた様子だった。私は、鈍く痛むみぞおちをさすりながら立ち上がり、空いた手で切原君のダウンの裾を掴んで見せた。切原君はその手を振り払わず、未だこちらに手を伸ばそうとする元彼を睨んだが、表情の細部には、つまらない女に捕まった男に対する同性なりの憐憫が入り混じっていた。

 結局うちで一杯温かいものでも、ということになったのはどちらの下心によるものだったのだろう。一人暮らし用の小さなコタツに足を差し入れた切原君は、私が淹れたマシュマロ入りのココアをちびちびと傾けていた。
「テレビとかつけません? なんか無音緊張すんだけど」
 一週間の視聴予定に組みこんでいないテレビ番組をだらだらと流すのは私の苦手なことの一つだったが、言われた通りにした。適当にザッピングして行き着いた国営放送のドキュメンタリー番組では、関東のとある県にある巨大な大仏に見下ろされた霊園に密着しており、思いがけず興味を引かれる。
 愛人宅で亡くなった父の墓参りに現れた家族が画面に映り込んだ頃、視界の端に揺らぐ黒い髪が揺らいでいるのに気がついた。顔を向けると、目線が合う。切原君は産まれたての子猫のような、とびきり害のない欠伸を漏らした。
「眠たいの?」
 声をかけられたことによって些か意識がはっきりしてきたらしい。彼は「寝たの朝方なんで」と冷めたココアを含んだ。週末のうちにクリアすると決めていたゲームの最後の一面をやり遂げるのが億劫で、日が登り始めるまで動画サイトを眺めていたのだと言う。
「さっさと眠っちゃえばよかったのに」
 本当は睡眠をとるのも最善とはいえない、やはり彼は残りの一面をクリアするべきだった。だってそうしないと、全てが無駄になってしまう。私は、自分で決めていた予定を為すことが出来ずに、他の手段で時間を浪費してしまうことをいつも極端に恐れている。
「目が冴えてたんだから仕方ねえじゃん」
「なんの動画を見てたの」
「架空請求詐欺の業者同士を戦わせる動画とか、人口いくらが無限に作られる動画とか」
 座っているのに足元が崩れ落ちていくような錯覚を覚えた。私は彼の話を少し聞いただけで、自分がそれと同じ時間の使い方をする想像をして怯えている。学生時代のように知識を詰め込むことに追われているわけでもないのに。
「顔色悪いけど、大丈夫っスか」
 あなたの話が怖いとも言えず私はテレビの画面に視線を戻す。ドキュメンタリーは終わっていた。机の上に投げ打っていた手の先にかちん、と何かが触れてそちらに意識をやるとそこにはマグカップがあった。
「飲めば」
 彼の飲みかけのココアは練りが甘かったのかやや粉っぽい。喉につかえながら嚥下すると「まずそうな顔」と笑われた。恥ずかしくて俯くと、マグカップが机の上を滑って戻っていく。
「アンタ、昔と変わんない」
 口を利いたこと自体一度しかないのに、切原君は私の何を知っているというのだろう。
「切原君も変わらない」
「昔の俺のことなんか知らないでしょ」
 彼も同じ感想を持ってくれたことが嬉しかった。
「たまにすれ違ったときとか、体育祭のときに見てた」
 彼は学内でも目立つ存在だったが、それに関係なく私はいつも切原君を意識していた。囚われていたと言ってもいい。
「うわ、なんか恥ず……アンタじゃなくて俺が」
 遅刻して門の付近を走るところも見たことがあるとは言わなかった。私は空になったカップを洗いに流しの前に立つ。水切り台に残った皿を片付けていると、テレビの電源が消されたのが分かった。
 彼はそろそろ帰るつもりなのかもしれない。そしてもう二度と私の人生に現れることはない。そうして私は明日から今より少しだけ明るい女になる、彼にかけられた呪いが解けていくように。
 悲観的とも楽観的ともつかない空想を巡らせながら部屋に戻ると、私は彼の隣にかけた。ベッドを背もたれにして、あぐらをかいた膝に触れるか触れないかのところで揺らぐ。
「なんか近くないスか」
「ちゃんと声聴きたいから」
 彼の肩の方に小さく頭を傾けると、切原君は一瞬ためらってからこちらに側頭部を預けてきた。こめかみを撫でる髪は充分すぎるほどの存在感があり、お世辞にも肌触りが良いとは言い難かったけど、私はそれを楽しむように目を細める。
 このままセックスは必要ないとまで思えたらロマンティックなのに、彼の息遣いを聞いていると、普通の人間なりに俗っぽい欲求が鎌首をもたげ始めた。
「あのささっきの相手、ああいう切り方、結構ヤバい気がするんですけど」
「悪いことしたかな」
「それもあるっちゃあるけど」そこで口籠る。
「ああ」
 私は今更になって、素っ裸に剥かれて雑木林に差し込まれた自分の遺体を想像した。まぶたは閉じ切らず、朝の光を浴びた角膜が曇りガラスのように淡く輝く。犬の散歩に出向き私の遺体を見つけた近所の老人は、取材用のマイクを向けられてこう答えるのだ。
 キレイな遺体だったので初めは精巧なダッチワイフかと思いました。
 いかにも追い詰められたときの私が繰り広げそうな妄想なのに、切原君の名前を呼んだときは、最初の一行すらも浮かばなかった。あのときの私は、自分のあしらいのまずさによって暴力的になった元恋人への恐れすらも吹き飛んで、とにかく切原君の姿を目に焼き付けたくて必死だったから。
「たぶん私早死にすると思う」
 しばらく黙り込んでいた私が唐突に発した言葉に、彼はかなり引いたようだった。いいムードで触れ合っていた頭が離れていく。
「別れた彼氏大体ああなっちゃうし」
 言いながら、あぐらをかいた腿の上にのせられていた彼の手に自分のそれを重ねる。
「あー……」空いた手で切原君は頭をかきむしった。
「大体って今まで具体的に何人くらい?」
 片手では足りない数を口で示すと、筋肉の膜に覆われた腿が震える。
「最悪、アンタって見かけによらず軽い?」
「見かけがどうかは知らないけど、そうかも。幻滅した?」
 切原君は小さく頷いてから、私の手を握り返してきた。
「幻滅したっつーより、ショックなのかも。俺、昔アンタに憧れてたんで」
「へえ」
 緊張が極限に達すると、私は極端に愛想を失ってしまう。
「アンタが昔付き合ってた人、別にヤナ奴でもなかったけど、俺あの頃あんまモテなかったし、大して打てもしねえのにキレーな彼女連れてきてるってだけで軽く僻んでたんスよ」
「今からでも言ってあげたら喜ぶと思うよ」
「はあ」
 あの頃の彼の行き場のない鬱屈が救われた気がして、私は口角を持ち上げた。
「うわ、アンタ笑うんだ」
 この声を聞いてすぐに引き結ぶ。もっと見せてくださいよ、とねだる声を視線で封じた。
「形が崩れるから駄目」
「俺、一緒にいて楽しい子が好みなんですけど」
「じゃあ、私には憧れてくれてただけなんだね」
「……まともに話すの今日が初めてだけど、アンタってかなり感じ悪い」
 暗い上に感じが悪いまで重なると、もうただの嫌な女だ。そこまで落ちてしまうと、恐れも何も吹き飛んで、私は部屋の明かりを落とした。
 戸惑い混じりの声をあげる切原君を、ベッドの上に誘う。そのままの勢いで壁際に押しつけ、標本のようになった彼をじっと見つめた。
「ヤバい」
 上擦った声が耳に吸い込まれた。
「なにが」
「ビビり過ぎて勃った」
 勃たせたままでいいよ、と言ってやると彼が喉を鳴らすのが分かった。
 窓から差し込む強い月の光が、彼の白い肌に奇妙な影を落としている。それはくらくらと絡れ合った黒い髪が形作ったものだ。中学生の頃よりしっかりとした体が揺らぐたび形を変えるその影を眺めているとたまらなくなって、私は彼の唇にキスをした。空に浮かぶ月にも似た鋭い曲線で形作られた切原君のまぶたが揺らぐ。
 舌先を絡め合わせ、並びの良い歯列をなぞり、とろけた唾液を奪い取って嚥下する。今日限りになってもいいから、切原君を構成するものの全てを記憶と胎内に集めてしまいたかった。
 長いキスの終わり、息を荒くした切原君は私の体をベッドに引き倒した。私は瞬きもせずに彼を見上げる。青白く澄んでいた結膜が充血する過程を取りこぼさないように。
 やっぱりアンタ、キレーっスね。
 頬を撫でるように降ってきた言葉だけでは物足りなくて、暗いけどね、と付け足すと、ヤナ女、と吐き捨てられた。私の服を剥ぎ取る彼の手は震えていた。



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