バカの声

 これ土産、と赤也が先月連れてきて以降可愛がっている鉢からむしったミントでモヒートを作った。勤務終わりの軽率な誘いで部屋に連れ込んだ後輩、素直な彼はそれだけのことに妙に感激して私を誉めそやしてくれる。
 誰でも作るよ。先輩が作ってくれたのが美味しい。ちょっと甘いけど。加減が絶妙で――上滑りしていく会話は前戯のようでかえって心地良かった。ワンルームの狭い部屋、フローリングに伸ばした指が触れ合って、視線がかち合う。
 しよっか。
 呟いた瞬間喉が乾いて、炭酸の薄いモヒートでそれを潤す。こくんと喉が鳴る。彼の喉も。部屋が静まり返るあまりに外の音までもよく聞こえた。足音、足音、ドアの前でそれが止まる。
 ニンテンドーのゲーム機を引っ張り出して、彼の分のコントローラーを繋ぐ。ワイヤレスの充電切れててごめんね、と手渡すとぶんぶん頭を振るのが可愛かった。当然赤也ほどじゃないけど。
 使ったあとすぐ繋いどかないからダメなんスよ。
 赤也ならきっとそう言う。鬱陶しく語尾を伸ばして、両の手を大きく肩の位置まで上げて。誰より私を苛立たせる、誰より私を惹きつける。
 スマブラは白熱して、彼はモヒートを溶けかけの氷まで全て平らげた。九時を回ったころ、空中回避をしくじった私のしずえは夢の泉の底に落ちていき、それを合図に解散を告げた。
 八畳の部屋と玄関を繋ぐキッチンを兼ねた狭い通路で、彼は名残惜しげに何度も立ち止まった。仕方なしに買い置きのチューハイを持たせ、家で呑みなと背中を押す。ここで呑みたいと彼は食い下がる。片足ずつ靴を履かせてやり、サムターンを回した。その瞬間大きくドアが開かれる。
 白い手が、ドアのレバーを握っていた。カーブの強い一重まぶたに縁取られた澄んだ瞳が私たちを射抜く。
「誰ですか」
 勇気のある後輩がたじろぎながらも訊くと、赤也は「あー……っ」と頭を掻きむしった。僅かに充血し始めた目をぎょろつかせながら、私と自分の体を交互に指差して、カレシ、カノジョ。相変わらずいい声だ。後輩は幻滅しきった目で私を見やってから、チューハイを握り込んだまま去っていった。
「信じらんねぇ」
 マンションの廊下いっぱいに声を響かせる男を玄関に引き入れて再び施錠する。こんな状況でも行儀良く靴を揃えて(かつて私は赤也の意外にお育ちの良いところが好きだと言った)、そのくせ下の住人に殴り込まれそうなほどに強く床を踏みつけながら部屋まで進んできた赤也に私は言う。
「サイテー、いい感じだったのに赤也のせいでアバズレだと思われちゃったかも」
 赤也は、私の恋人は、案外まともに傷ついたようだった。
「いい感じって」
「真面目だし優しいし可愛いし、今日は絶対いいムードだった」
 廊下を踏み鳴らす足音だけで、私は赤也を認識することが出来た。
「なんで他の男部屋に入れるんスか」
「均等にしたいから」
 へらへら笑って握り込んだ恋人の手は冷え切っていた。廊下で私達が出てくるのを待っていた小一時間、赤也は何を考えていたんだろう。
「外寒かったでしょ、可哀想に」
「誰のせいだよ」
 きつく力を込めたそばから振り払われ、ベッドに押し倒された。見つめ合って、キスをして、お互いの皮膚が剥き出しになってから、赤也は私の肩を引き寄せる。「さっきの奴とシた?」
「するわけないじゃん。赤也じゃあるまいし、恋人がいるのにテキトーな相手と出来ないよ」
「均等にするって言ったじゃないスか」
「言ったね。言ったけど、あれは当てつけだよ」
 赤也は一瞬押し黙り、私のうなじを優しく撫でた。他の奴とシたらヤダ、と一丁前に独占欲を滲ませて鎖骨に噛み付いてくる。そのまま舌で辿られると、背筋が冷えた。
「それって柳にもシてる?」
 黒々として量のある髪をかき混ぜながら訊くとまた押し黙る。「じゃあ自分がされて気持ちいいことかな」
 赤也は、私の恋人は、私と付き合い始めるよりもずっと前から柳と寝ている。抱いて、抱かれて、喘がせて、喘いで、訳も分からないくらいに高め合うセックスを私以外の人間としている。小一時間程度外で待ちぼうけを食らわしたくらいじゃ割に合わない。
 粘膜を擦り合わせながら、お互いの皮膚を貪り合う間、私は柳と同化したような気分になる。二人が初めて成ったとき、どういうやりとりが交わされたのか、いつか膝を突き合わせて教えてほしい。柳は赤也の自分にしか見せない部分を他人に晒すのを嫌がるかもしれないけど、私は同じ男に執着する人間になら全部を聞かせてやってもいい。
 立海の後輩だった赤也を私は始めから気に入っていた。人間が生まれ持って備えた嗅覚はあながち馬鹿に出来ない。委員会か何かで初めて口を利いた赤也からは、中学生の時点で既に、自分に惹かれる人間を恣意的に傷つけてしまう男の匂いがした。私達はいつだってそういう男に引き寄せられる。
 成人後、たくさんの偶然が重なって夜の街で再会した赤也はあの人懐っこい瞳を揺らがせていた。
 飲みに行きません? 今、懐あったかいんで奢りますよ。
 数年のブランクを感じさせない気安さで擦り寄ってきた後輩に「ナマイキすぎ」と私は返したはずだ。赤也は「じゃあやっぱりアンタの奢りで」と私の鞄の肩紐に指をかけた。
 店を吟味するのも億劫で、通りがかりに目についた焼き鳥屋に二人で入った。味はそれなりでもだらだらと滞在するには悪くない店で、私達はそこに何時間も二人でいた。
 池の底みたいに色の濃いショウヨウジュリンが飲み進められずぼんやりしていると、酒に酔って傾いた赤也の毛先が私の首筋に触れた。押しのけずにいると更に傾いて、ついには完全に頭を肩に預けられる。
「こういうの、普通は性別逆」
「いいじゃないすか、俺先輩のこといいって思ってるし」
「いいってなに」
「いいんすよ、顔とか話し方とか」
「いいなら付き合う?」
「いいっスよ」
 語彙力のない二人でその晩のうちに二回した。酔っていたせいか行為の仔細は思い出せない。赤也は優しかったと思う。思い込みかもしれない。
「ミントの葉、むしりすぎ」
 全てを吐き出したあと、私がモヒートのために荒らした鉢を見つめながら赤也は言った。
「最悪枯れてもいいし」
「ひでえ、せっかくプレゼントしたのに」
 それが柳の実家で株分けをしてもらったものだということを私は知っていた。その上で土が乾けば水やりをして、葉が重なればそれを摘み、適度に日を当てることを心がける自分を愚かしく思う。
「ねえ、合鍵返して」
「なんで、いるときならあけてあげるから必要ないじゃん」
「また男連れこんだら嫌だ」
 剥き出しの背に赤也の汗に濡れた胸が吸い付いてくる。首に、肩に、腕が回されると、この愛しい生き物を独占出来ない柳が憐れに思われてきた。
「赤也のさ、そういうところが好きだよ。自分のことを棚に上げて平気で私を責められるとこ」
 喉で笑うとベッドが軋んだ。昔どうぶつの森が流行っていたときに、よくお互いの村を行き来していた男の子のことを不意に思い出す。生身の体では二人で遊んだことすらなかった子なのに、各々の家から電波を飛ばして夜の村でいつも二人きりで遊んでいた。彼の村はいつも綺麗に整備され、お気に入りの住民がひしめき、当然のように家の増築は全て済んでいた。あるときいい部屋が出来たと呼ばれて訪れた彼の部屋には、新しいベッドがひとつきり。反応に困ってしまったのだと思う。私の作った吊り目のキャラは何の気なしにそこに体を横たえた。
 なんかすごいな。
 しばらくの沈黙ののち吹き出しにそういう文字が浮かんで、彼のキャラクターが隣に寝そべってきた。ああなると奥に寝た方は身動きをとれなくなる。ゲーム機を握る唇からは鋭い吐息。返事もせずに電源を切って以降、その子とは口を利いていない。
 事後にはこの手の嫌な記憶ばかりが胸をくすぐる。
「柳先輩ともシてるから嫌いになった?」
「好きって言ってるじゃん」
「最近うちに来ないし、鍵もとりあげるし」
「柳と鉢合わせするのヤだし」
「あっちの家でしか会いませんよ」
 さぞかし立派な部屋に住んでいるのだろう。小金持ちの家に育った赤也には似合いの相手だ。
「付き合い始めたばっかの頃の赤也は可愛かったよね」
 ささくれた心のままに吐き出すと、赤也の腕に力がこもった。終わりになんてしたくないのに、近頃の私はすぐに言い過ぎてしまう。「別れたくない」
 赤也の放った掠れた声は部屋の空気に霧散した。
 初めて赤也が柳と寝ているのを知った次の日は、仕事が休みだったのをいいことに一日中布団に包まって過ごした。何も考えたくないからずっと眠っていたかったけど、そうそう簡単に睡魔は訪れず、どれだけ傷ついていても空腹を伝える胃袋を撫ですかしながら時計の針が進むのを待った。窓の外で夕陽が落ち、空が青墨色に染まるのを眺めているとスマホが震えた。
 実家で唐揚げ大量にもらったから家行く。
 赤也がいつも通りなのに気圧されて、私はシャワーを浴びた。許してやるつもりはなかったけど、汗をかいてベタついた体で赤也に会うのは嫌だった。その日に食べた唐揚げはシナモンの風味がして美味しくて、結局は私は赤也じゃないとダメで、セックスが全てを有耶無耶にしたまま今に至る。赤也はいつだって、私から特別を奪った。この男をそばに置いている限り、私は自分の人生の主役でいることすらままならない。
「別れ話じゃないよ」
 鎖骨をたどる指に自分のそれを絡めると、濡れた呼気がうなじを撫でた。指を掴んで唇に近づける。そのまま歯を立てたら、痛いっスよと声をうわずらせながらも腰に張り付いたものが芯を持つ。柳は赤也に痛くするらしい。
「私しか持ってないものを赤也にあげたい」
 噛み跡を舌でなぞりながら吐き出すと、私の愛しい男は「そんなのいくらでもあるでしょ」といつものバカの声で笑った。



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