すげー大事なもの

 明日は早起きだよ、と何度腕を引いても恋人は聞く耳を持たなかった。
 どこから引っ張り出してきたのか、古いプレステのコントローラーを握りしめてソファの上で体操座りをし、「この部屋に来るのも最後だと思うとなんか寂しいだろ」と言った赤也の、平素は青白く澄んだ角膜は、テレビの液晶に照らされて真っ赤に充血していた。
 最後なのは部屋だけじゃないよ、そう教えてやりたくなるのを堪えて、一人セミダブルのベッドに体を横たえると、すぐさま朝が来る。意識の上ではほんの一瞬。トイレに目覚めることもなかった。
 ベッドから体を起こして、寝室と二間続きになっている手狭なダイニングに足を踏み入れると、赤也は夜に見たときと全く同じ姿勢のまま眠っていた。自分の膝に顎をのせて、小さく丸まる姿が、赤ん坊のようで愛おしい。
 ソファの傍に膝を落とし、白い頬に鼻先を擦り付けた。閉じたままの一重瞼が小さく揺らぐ像を胸の内に描き留める。このまま時間が止まってしまえばいいのに……なんて、浸り過ぎか。
 未だ目覚める気配のない恋人からそっと離れて、洗顔や歯磨きを済ませる。日焼け止めを手早く塗ってからカーテンを開くと、窓の外が白んでいた。今日は晴れの予報だ。私は部屋の片隅に転がっていたガムテープを拾い上げると、壁際に平たく重なった段ボール箱を組み立て始めた。

 切原赤也とは、大学時代に時たま従姉妹と通っていた乗馬クラブで知り合った。当時の彼は大学に入りたてで、「こいつウマなのに顔がイヌみたいで可愛いっスね」と我が家がそのクラブに世話を任せていた愛馬を褒めてくれた。
 気位の高い従姉妹は、あんな頭の悪そうな男と口をきいたらバカが伝染る、と帰りの車で彼を悪様に語っていたけど、私は一目見た瞬間から彼に惹かれていた。
 赤也はいつでも頭の悪そうな言葉の並べ方をするし、実際にあまり賢くはなかったけど、それなりに裕福な家庭で育ったからか、時たま妙にお行儀の良い所作を見せてくれるのがチグハグで可愛い。
 例えば、どんなに急いでいるときでも、椅子を引くときに足を床から持ち上げるところとか。赤也は無意識でやってるから、指摘しても「そんなことしてました?」ってキョトンとするのがまたいい。
 鼓膜を掻き毟るような、あの特異な声で、名前を呼ばれると、自分が特別な人間になったような心地がする。
 そういう彼を構成する要素の全てが、愛おしくてたまらない。頭のてっぺんから丸呑みにしてやりたいくらいに。
 だけど私が彼と顔を合わせることは、明日以降二度とない。美しく輝いていたこの数年間が、結婚という言葉に絡めとられてしまう前に、今の生活は終わりにしないといけない。
「あー」
 丸まった背中を伸ばした赤也があげた呻き声で、現実に引き戻される。部屋の入り口が私が組み立てた空の段ボール箱で占領されてるのを認めた赤也は、「まだそんなに詰めるもんあんの」とまぶたを擦った。
「四年も住んでたから」
「四年? 案外短いんスね」
 私と赤也では、時間の感覚が違う。私にとって、赤也と付き合い始めてから今日までの四年強はとても長かった。それこそこの男にいつ飽きられてしまうのだろうと戦々恐々としてしまう程に。
「歯、磨いてきたら。朝ごはんどうする?」
 久々に朝マックが食いたい、と赤也が言うので、マフィンとグリドルをデリバリーしてもらった。テーブルは前日のうちに解体してしまっていたので、床に尻を落としてソファを机代わりに空腹を満たす。
「こぼしたらシミになるかも」
 赤也が気遣わしげにしてくれるのは嬉しかったけど、このソファを新居で使うことはない。ソファどころか、昨夜仕事を終えてうちに訪れたばかりの赤也が必死に新聞に包んで割れ物の箱にしまい込んだ皿も、この夏に気に入って何度も袖を通した半袖のブラウスも、引っ越しのトラックに詰め込んで、全て廃棄してもらう手筈になっている。
「少しくらいいいよ。それも思い出になるし」
「それ見るたびに、俺がこぼしたとこだって言われ続けるのなんかヤなんですけど」
「そこまで意地悪じゃないよ」
 笑いながら、マフィンの包み紙を折り畳んで、紙袋に落とす。赤也はこの先もまだ私と一緒にいてくれるつもりらしい。
「三時には引っ越し屋さん来ちゃうから急がないと」
「分かりましたよ。つーか引っ越し当日に詰め終わってないって結構ヤバいと思うんですけど。もっと早いうちから計画的に……って、なに笑ってんスか」
「ごめん、赤也に計画性を説かれるとは思わなかったから」
「明後日引っ越すから、明日の晩から泊まりで手伝いに来いってラインきたとき、夜逃げでもすんのかと思ってめちゃくちゃビビったんスよ。柳先輩にも駆け落ちでも企てているんじゃないか、とか言われるし、ありえねーけど」
 赤也はレールにかかったままのカーテンを外しにかかる。夜逃げという言葉はある種適当だった。ついでに駆け落ちも。
 数ヶ月前、赤也の褒めてくれたうちの馬が死んだ。悲しかった。赤也と付き合い始めてからは月に一度も会わないこともザラだったけど。
 新しい馬はウォーターホースがいいとねだった私に、父は家業が傾きかけていることを教えてくれた。
 恋人とは仲良くやっているのかという問いかけに、そこまででもないと返したのは、目の前に対峙した父の目尻に年齢を感じたからだ。大きな人だと思っていたのに、そのときばかりは萎んで見えた。
 私は明日から、父の決めた相手と新しい生活を始める。入籍は来年になるのかな。相手の御眼鏡に適えばいいけど、あまり自信はない。
「カーテン、外せたんで一緒に畳んでもらってもいいっスか」
「おっけー」
 赤也と最後の時間を過ごす場所についてはとても迷ったけど、結局二人で長い時間を過ごしたこの家以外は考えられなかった。
 藍色のカーテンを各々持って、二人で四隅を合わせたとき、私たちは今日で終わるのだと叫び出したい衝動に駆られた。実際黙って去るよりも、そうした方がいいに違いないのに、どうしても出来ない。四年という月日を、案外短いんスねと言った赤也の心に、十年残る傷になりたかった。
「赤也にしては上手く畳めたね」
 角の揃ったカーテンを段ボール箱に押し込みながら私が言うと、赤也は淡い色をした唇を尖らせる。
「俺のことなんだと思ってんだよ」
「切原赤也くん」
 カーテンなんか畳めなくても、馬を褒めてくれなくても、赤也が赤也でいてくれるだけで、私は彼を永遠に愛しんでいられた。
「さっきソファに少しこぼしたでしょ」
「げ、バレてないと思ってたのに」
「小さいシミが出来てたよ」
「すみませんでした」
「……赤也が赤也らしくしてるとこが見られて嬉しい」
「はあ」
「ごめん、忘れて」
 その言葉が震えなかったことを褒めてほしい。赤也の白い手が、私の手からガムテープのロールを引き受けて床に置く。
「……あの」
 深刻な面持ち。なに、と首を傾げると、赤也の視線がソファの小さなシミに向く。
「俺、ガサツだし、いつもアンタに迷惑ばっかかけてますよね」
「ガサツだとは思うけど迷惑だと思ったことはない」
 私の否定には応じず、赤也は頭を横に振る。
「これからは出来るだけやらかさないようにするんで、ずっと一緒にいてほしいんですけど」
「……何をやらかされても、死ぬまで一緒にいたいよ」
 真摯な言葉で打ち抜かれた心臓が痛かった。
「あー! 恥ずいこと言っちまった。誰にも言わないでくださいよ」
 口止めをされたところで共通の知人などいない。
 耳殻を赤く染めた恋人は、大雑把ながらも手早く、我が家に残った細々とした物品を箱詰めにしてくれた。最後の一つ、小ぶりな段ボールにガムテープで封をした赤也は、太字のマジックのキャップをきゅぽんとひねる。
 それには何を入れたのかと訊くと、口角をニっと持ち上げて、“すげー大事なもの”と書き込む。
「ただの大事なものじゃダメなの?」
「すげー大事だからダメ」
 ほら、と手渡されたその箱は軽かった。何も入ってないんじゃないかと思って振ってみると、中で小さなものが転がる音が聞こえる。
「しばらく忙しくて、荷ほどきは手伝いにいけそうにないんスけど、それは新しい家が片付いてから開けてくださいね」
「うん、分かった」
 そこで引っ越し業者が来た。午後二時半、約束の時間よりも三十分早い。トラックに最後の荷物が積み終わる瞬間までは一緒にいてくれるものだとばかり思っていた赤也は、ベッドやらソファやら大型の家具家電が運び出され始めると、「じゃあ俺はこのへんで」と保護材の敷かれた玄関に立った。
「……落ち着いたら連絡するね」
「新しい家見るの楽しみっス。じゃ」
 あまりにも呆気ない幕切れ。エレベーターに乗り込んだ赤也を、下まで見送る気にはなれなかった。
 人の心に色があるのなら、あのときの私のそれは赤く染まっていたと思う。そしてあれから十年が過ぎて、一人の男の妻として毎日を過ごす私の心は、少しずつ色が抜けて、今ではほとんど白みきってしまっていた。
 あの日私が唯一新居に持ち込んだ、“すげー大事なもの”の箱は未だ封を切られることもなく、夫と二人で肩を並べて眠る部屋のクローゼットの奥に今でも佇んでいる。




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