ドライバー

 深夜のタクシーの車内には、舗装された道路をタイヤが滑る走行音だけが響いとった。窓の外に顔を向けたナマエちゃんの頬を、繁華街の電飾が照らしあげる。さっきの店で勧められるがままに杯を重ねて、二人きりになれることなんて滅多にない。適当な話題を見つけてこっちに意識を引っ張りたいのに、アルコールに侵された頭は、気の利いた話題の一つもよこさへん。
 自己嫌悪に陥りかけながら、助手席の裏に引っ掛けられた運ちゃんの写真を眺める。六十絡みに見えるその人は、頬と顎いっぱいに無精髭が散っとるのに、目元がえらいクリクリしとるのがアンバランスでなかなかおもろい。
 写真から受ける印象やと、客に鬱陶しいくらい話しかけてきそうなおいさんやのに、実際には行き先を始めに聞いたきりずっと黙りこくっとんのが憎たらしかった。いっそのこと、「自分らカップルやろ、こんな夜中にわざわざ別々の家帰らんでもええやん」とかなんとか捲し立ててくれたら話もスムーズに進むのに……ってあかんな。一年も気にしとる子への告白のお膳立てに見知らぬおいさんを使おうとするやなんて、ヘタレが過ぎるわ。
「あの、謙也さん」
 思考を中断する声に視線を上げると、いつの間にか車窓から俺の方へ向き直っとったナマエちゃんと目が合った。
「なに」
「いや、あの……あけましておめでとうございます」
「えっ」
「今年会うの今日が初めてだったのに言えてなかったので」
「ああ! そういえばそうやな、おめでとう」
 会話を繋げるチャンスやと思ったのに、新年の挨拶だけしたら満足してしもたんか、ナマエちゃんは座席の背面に背中を預けて緩く瞼を閉じる。無防備な顔にどぎまぎして、眠たいん、て訊いたら、「すみません」ってちっさい声。
「起きてますから」
 無理矢理瞼をこじ開けようとするのを、
「そのまま閉じとって」
 言葉で制したとき、このやりとりも全部運ちゃんには聞かれとるんやなって不意に思った。それでも堪えきれずに、座面に投げ出された指先に触れる。
「え」
「タチの悪い酔い方しとる。ごめんな」
「いや、その……謝らなくても大丈夫です」
 そろそろと前に進み出てきたナマエちゃんの指が、俺のそれの付け根に絡んだ。俺の言うことを守って瞼は閉じたまま、それでも外の灯りに照らされた耳は赤い。
「絶対今やないと思うんやけど」
「……はい」
「俺な、ナマエちゃんのことが好きや」
 口に出した瞬間、車内の空気が停滞したのが分かった。交差点で車が左に曲がって、二人の体がぐらんて揺らぐ。
「……それ、どういうやつですか」
 絡んどった指が後退して、瞼が開く、アルコールのせいか潤んだ目をしたナマエちゃんの唇は震えとった。
「デートしたり、それ以上のこともしたいって意味の好き」
 オーケーされてないのに何言うてんねん。口に出したそばから後悔する俺の顔をじっと見つめたナマエちゃんは、「私は……」と口籠る。これはあかんな、と思った。酒の勢いで告白したくせに、フラれたらちゃんと傷つくやつや。そんでももう巻き戻しは効かん。
「ここじゃないですか」
 遠慮がちな運ちゃんの声。顔を上げたら、馴染み深いマンションの前に着いとった。最後は徒歩で帰ってもええし、よっぽどナマエちゃんちまで同乗してもええか聞きたかったけど、気持ちを伝えてしもたからこそ、怖がられそうな気がして言い出せへんかった。
 店長にもろたタクシー代をナマエちゃんに託す。雑に折り畳まれた千円札の束を受け取ったときに触れたナマエちゃんの指は冷たかった。
「また今度店で」
 それだけ言うて車を降りたとき、背中に俺の名前を呼ぶナマエちゃんの声がぶつかった気がした。




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