Pupinaccho

「夏も終わるか」
 ベランダに並んだ袋栽培のミニトマトを見下ろしながら仁王は呟いた。九月も終わりがけ、鈴なりに実った丸い粒は一つ一つが小さくて色もまばらだ。野菜なんか好きでもないくせに世話をしている男には無断で、ときたま口に含んでみると妙に青臭いのに辟易する。
「楽しいことなんて何もなかったね」
「いい男と遊んどったじゃろ」
「でももう終わったよ」
 夏の始まり、私たちの暮らす部屋に、「俺を南西に置くと金運が上がるよ」と髪を真っ金々に染めた風水男が上がり込んできたので二人で共有して遊んでいた。そいつは当然のように無職だったけど素直で可愛いやつで、ハタチの頃から二人きりで暮らしてきた私達も、こんな男ならいつまでも置いておきたいね、冬になったら髪をピンクに染めてやろうなんて話していた。
 それなのに、九月に入るなり、「北で仕事運を上げてくる」と言い出した男は、私たちが桃色に染めることを夢想した髪を真っ黒に染め上げてしまった。仕方がないので、二人で北海道までの移動賃を握らせてやって、骨張った背中を見送った。
 あれから三週間、私たちは今日も活力なく二人きりで過ごしている。風水君がいなくなってしばらくは、あらかじめ定めた予算で各々居酒屋っぽい献立を作り、嫌気が差すまで安酒を飲むような企画に興じたこともあったが、近頃はもっぱらマンションのベランダに椅子を並べて、怠いだのなんだのとボヤきながら道ゆく人々を観察している。つまらない我慢比べをしているわりに、二人とも暑さには弱いので、北に消えていった男を定期的に羨むところまでがワンセット。
「あの子は北海道に辿り着いたかなぁ」
「思いきりのいい男じゃったから、越えてロシアまで行っとるかもしれん」
「あーあるかも」
 思いきりのいい男の子だったから、私たちにお金をもらったその日に全額競馬でスっていたとしても驚かない。貸したんじゃなくてやったんだから、彼があのお金を活かそうが殺そうが私たちには関係ない。
「明日も休みでしょ。実家でも帰ったら」
 返事はなかった。しかし無視をしているという風でもなく、男は私をじっと見つめる。
「いつから顔見せてないんだっけ」
「四月、いや五月じゃったか」四月だったよ。忘れたはずもないのに。
「まさか神奈川にいるはずの両親に東京で男の子と腕組んで歩いてるところを見られちゃうなんてね」
「可愛い奴だったが、外でひっついてくるのだけはかなわんかった」
「満更でもなさそうに見えたけど」
 そのどこでも構わずひっついてくる恋人に、仁王は付き合い始めてから半年も経たない内にフラれた。理由は何だったんだろう。キスも出来ない初恋の男を諦めきれずに同じ空気を吸い続けている私には、仁王を振った男の気持ちなんて理解出来るはずもない。
 仁王が可愛いと評した男は、とても独占欲が強かった。男は家に私がいるときに限って仁王を犯したし、平気で彼を殴った。マゾヒストの気がある仁王は、酷くされれば酷くされる程に嬉しそうに、苦しそうに喘ぐ。
 私は壁一枚隔てた先の情事の音をBGMに、当時付き合っていた恋人と二人で食べたケーキの写真をインスタに載せた。五十ばかりのいいねと、友人から寄せたれた数件のコメント。いかにも悪くない日常、だけど、正方形で切り取られた、自分に優しくしてくれる男との穏やかな生活ではなく、ベランダに出たときにカーテンの隙間から見えた仁王の薄い腹が、魚みたいに跳ねる光景こそが、馬鹿な私にとっては何よりも手放し難いものなのだった。
 だけどそんな相手とも長くは続かない。あのときは、私がかつての同級生と二人で暮らしていることを知った彼が、「相手が男しか相手にしない人ならまあ我慢できるけど」と漏らしたのに、「相手にされなくても、私はあの男のことが好きだよ」と返して駄目になった。仄暗い目をした恋人に、「君の気持ちが分からないのが悲しいよ」なんて言われても私の心は凪いでいた。
 小さく連なった実の中から、あえて青い粒をもいで仁王は食む。薄い肌が揺らぐ、普段は吊り上がっている眉が僅かに落ちる。私はそれを綺麗だと思う。綺麗だと思う自分の胸が痛い。仁王はただ生きているだけで私の心を壊す。
 抱かれたいだなんて一度も思ったことない。だけど私がオスだったら、この男をごみくずみたいに抱いてやりたかった。嫌だって言われても離してやらなかった。

 両親に男と腕を組んで歩いているのを見られた翌日、ホテルで無茶苦茶に扱われた仁王の頬は僅かに腫れていた。朝ごはんはいらないとごねる口に、私が無理やりねじ込んだ卵焼きを嚥下した男は、「もう神奈川には帰れん」
 それからもう五ヶ月、仁王は宣言通り一度も神奈川に帰っていない。親にゲイだと知られたのが気まずくて、実家の門をくぐれないだなんて、この男は飄々とした風体に似合わず過分に繊細に出来ている。
「そのとき会話したわけじゃないんでしょ」
「目が合っただけぜよ」
「親御さん、怒ってるかもしれないの?」
「親に色恋沙汰で文句を言われるような年齢はとっくに通り過ぎとる」
 三十路前の男は語り、小さく頷いた。
「あっそ」
 いくつになっても、親にとって子供が子供であることには変わりない。育ててやった、産んでやったという意識を拭い去ることは容易ではないだろうし、子が三十路前だろうが、四十路過ぎになろうが、あれやこれやと口出しするような親も珍しくない。それを、案外気にしいの男がさらりとそういう台詞を吐き出せるくらいだから彼の両親は子供との距離のとり方を弁えているのだろう。
「私は仁王の親御さんのことは知らないけど、なんとなく気づいてたと思うよ。わざわざ膝突き合わせてカミングアウトされるよりも、腕組んでたのを見かけたのをきっかけに暗黙の了解ってことになってちょっとホッとしてるんじゃない」
「そうかもしれんが」いやに歯切れが悪い。
「ごめん、ずっと勘違いしてたかも。実はゲイだってことを知られたことが気まずいんじゃなくて、性別に関わらず親にイチャイチャしてたのを見られたのが恥ずかしかったみたいな話だった?」
「半々じゃな」
 日差しが強くなってきたので部屋の中に引き上げる。クーラーを効かせた部屋は涼しいを通り越して寒い。怠い体をソファに横たえて、仁王に視線をやる。あぐらをかいた男は、未だに窓の外を見つめていた。
「仁王ってさ、中学生の時に海外のテニスの大会に出たじゃん」
「メルボルンであった大会か」
「そうそれ。あの大会私もCSのスポーツチャンネルでちょくちょく見てたよ」
 メルボルンとは時差が一時間しかないので夜更かしをする必要もなかった。仁王の親御さんも遠く離れた日本の地からテレビの画面越しに息子を応援していたんじゃないだろうか。
「ドイツのプロにダブルスで勝ったときかな、相方のフランスの人に後ろからがばって抱かれて嬉しそうにしてるのテレビにしっかり抜かれてたけど、あれとは違うの」
 仁王は知らないだろうが、その後の大将戦のときにもベンチで同じ人に肩を抱かれる姿が抜かれていた。
「全然違う」
 あれは試合に勝った解放感で云々と珍しく口数の多くなった仁王はあの時期、彼と組んだ歳上のフランス男に本気になっていたんじゃないかと思う。これで素直なところのある男は、自分が尊敬に値すると認めた人間にいとも容易く惹かれる。そういう愚直さもまた愛おしい。
 なんにせよ、と話を本筋に戻す。
「嫌いで離れてるわけじゃないんだから、そろそろ顔出してもいいと思う」
「用もないのにまめに顔を出すほど仲がいいわけでもない」
「用が欲しいんだ」
 強いカーブを伴った一重瞼が揺らぐ。表情に乏しいわりに分かりやすい。可愛い男だ。
「テレビで見たんだけどね、そういうときは借金したらいいらしいよ」
「話が繋がっとらん」
「用がなくて帰り辛いなら、お金でも借りてきなよって言ってるの」
「時節柄出費も減っとるし、金には困っとらん」
「困ってなくても借りるんだよ。そしたら関わらざるをえないし、向こうからこまめに電話もしてくれるでしょ」
「催促のためにか」
 こいつはアホだとでも思っているのか、仁王の声のトーンが軽くなった。
「あるのに借りるのが悪いなって思うなら今からでも困るような趣味見つけてもイイし。あ、なんならこのあと一緒にパチンコでもいく? 風水君とこの前初めて行ったんだけど、色んな台の音が洪水みたいに溢れ込んできて心臓がバクバクした」
「騒がしいところは好かん」
 さりげなデートの誘いをあっさり流した仁王は、「お前は借りたことがあるんか」と訊いてくる。
「あるある。何年か前にその辺で偶然居合わせて飲んだおじさんに、借金は絆だ、人と人を繋ぐんだって聞いた時にすとんときちゃって、その日の内に当時の彼氏に五万借りたよ。別れるタイミングで利子つけて返したけど」
「妙なところに影響を受けるのう」
「でも分かる気がしない? お金で解決出来ないことの方が少ない社会で暮らしてるんだから、それを貸し借りするって結構なことだよ」
 受け売りの言葉を切り貼りしながら語る私を仁王は胡散臭げに見つめつつも、「いくら借りる」
「百万くらい? あんまり少ないとすぐに返し終わっちゃうし」
「しばらく顔も見せずにおった息子がうちに帰るなり百万貸してくれ、か……そのまま締め出されても文句は言えんぜよ」
「大丈夫でしょ。話を聞くにかなり愛情深い親御さんみたいだし、頼ってくれて嬉しいって思ってくれるんじゃない」
「無茶苦茶じゃ」ほんとにね。
 ここまでくると殆ど暴論に近いが、親に金の無心をするちょっとダメな仁王雅治はどう考えても美しいので仕方がない。
「絆、作っちゃいなよ」
 駄目押しで指を立てると、小さな溜息。体が冷えたからシャワーを浴びると失せた背中を見送って、ソファに転がっていたクッションを抱き寄せる。ぐずぐずと続く実のないやりとり、そこに仁王からの心はない。
 僅かに漏れ聞こえるシャワーの水音、私はあの男の肌を見たいと思う。キスもセックスも、手を繋ぐことすらも出来なくていい。ただ、器用だとは言い難い男のことを、隅々まで知りたい。出来る限り透明な目を持って、湾曲のないありのままの仁王雅治を見守るためだけに今の私は生きている。

「絆作ってきた」
 翌日、早番を終えて五時には帰宅した私を迎えた仁王は、真っ白な封筒をひらつかせた。神奈川に帰れたのか、良かった。
「薄いね、いくら」
「三万円」九十七万も足りない。
 金に困ってない真人間にはこれが限界か。落胆半分安堵したあとで、むしろこの男は実際に金に困っていたら五千円すら借りられなかったかもしれないな、と考える。
「親御さん喜んでたでしょ」
 得意げな声で訊くと、仁王は不本意げに眉を寄せながらも頷いた。
「絶対返せじゃと」
「急げって?」
 今度はかぶりを振る。
「分割にしてあげた方がいいかもね」
 思いもよらぬ場所での邂逅によって息子を気まずがらせてしまったことを、仁王の両親は私たちが想像していたよりも気にしていたのかもしれない。
「これで焼肉でもいくか」
「へ」
 唐突な誘いに、いつも訳もなく作っているニヤニヤ顔が崩れた。
「二人で三万じゃギャンブルは楽しめんじゃろ」
「私、ホルモンモクモクにするけど」
「匂いがついてもいい服に着替えてくる」
 仁王は親御さんとの絆を私に押しつけて、自分の部屋に引っ込んでいった。

 マッチングアプリで新しい恋人を探すのにも飽きてきた。もっと運命的な出会いをしたい。私のことを甘やかしてくれる可愛い男がいいなぁ──。
 違いない、と仁王は頷き、私がもたもたしている間に網にへばりついたホルモンをトングで引き剥がした。透明な脂が炭の上に落ちる。狭い個室に立ち込めた煙の向こう側、「アプリは心がすり減る」そう続けた男の心が遠い。
 こういう場で私が語る恋愛論は日毎に変わるが、それを仁王が指摘することはない。何年も二人で暮らしているというのに、この男は私に無関心だ。こちらだけが好きでいられるのは楽ではあるが、ときたま虚しい。
「私もたまにはうちに帰ろうかな」
 仁王に金を借りろ家に帰れとせっついたくせに、私は正月から神奈川に帰っていない。妹に子供が産まれたばかりなので、両親はそちらにかかりきりである。
「喜んでくれるかもしれんのう」
「大して喜ばないかもしれないね」
「そうじゃな」
 仁王は、真偽の分からないことを言い切りの形で口に出すことをしない。
 男が皿によけてくれたホルモンを口に含むと、甘い脂が舌の上で弾けた。煙が薄れて惚れた男の姿が鮮明になると、脳をダイレクトに刺激するような多幸感は一瞬で融ける。
「親にさ、本気で怒られたことある?」
 適当に話を変えると、「ある」
「へえ、意外。怒らせるようなこと言わなそうなのに」
「四国におったころ、旅に出るぜよと書き置きをして、しまなみ海道を自転車で走ったことがある」
「それはなんで」
「本州に行ってみようと思った」
「行けた?」
「途中で腹が減って夕方にはうちに戻った」
「その頃はごはん食べてたんだ」
「今も食うとるじゃろ」
 仁王はよく焼けたハラミを口に含む。
「いらないって言うことが多いから」
 白い喉が不自然に上下する。もう少し噛んだ方が良かったんじゃない? という言葉は喉元で塞き止めて、私は仁王が口を開くのを待つ。
「あの日はこっぴどく叱られた」
「それっていくつくらいのとき」
「十かそこらじゃろ」
「叱られて当然、さらわれなくてよかったね」
 私だったら絶対さらう。
「瀬戸内海って綺麗なんでしょ」
「波は穏やかぜよ」
 その声が優しいのに驚く。何気ない風を装って机の下に目を向けると、丸いくるぶしが揺れているのが見えた。
「故郷のことを考えると落ち着くんだね。足が揺れてるよ」
 心が弛緩したときに片足を揺らす自分の習癖を、男は自覚している。指摘しても動きが止まらないところを見ると、今日はまずまずのご機嫌らしい。
「テールスープ頼もうか」
「好きだと言ったことがあったか」
 仁王と二人で焼肉にくるのは初めてだった。一瞬の逡巡、
「昔雑誌のインタビューで見たよ」
 正直に話した私に、仁王は感情の読み取り辛い目を向ける。くるぶしはまだ揺れていた。
「そうか、よく見てくれとるの」
「仁王はさ、」
 私といると楽なのとは訊けなかった。この男と対峙すると、私は時に臆病になる。同性にしか性愛を向けない男、彼が女の私を愛することはない。私は人生で一番心を注いだ男に求められないことに日々傷つきながらも、彼との適度な距離を保った交わりに居心地の良さを感じてもいるのだった。強く求められることもなければ、厭われることも、あえて別れを告げられることもないから。
「焼肉のキャベツ食べないのに一応網にのせるよね」
 普段通りの胡散臭い笑顔を貼りつけて、黒こげになったキャベツを空の皿によける。仁王はしばらく黙りこくってから、
「お前は何を考えとるか分からん」
「なんで、分かりやすいでしょ」
 ぜーんぶ欲望のままだもん、と続けて好きでもないビールで喉を潤す。
「二人で焼肉楽しいよ」
「素顔が見えん」
 見せたところで好きになんかなってくれないくせに。
「私に化けても何もいいことないよ。仕事ブラックだし、男の子にもそこまでモテないし」
「言われんでも分かっとる」
 くるぶしが静止した。あーあ、せっかくの焼肉なのに、緩んでてほしいのに。
「ていうかさ、汚いから見せられない。分かるでしょ」
 早口に言ってから、店員さんを呼ぶ。テールスープと、お代わりのビールをジョッキで頼んで、個室の扉がしまるなり、困らせないで──。

「あ、でもやりたいことは出来たよ」
 テールスープが届いたのを見計らって沈黙に石を投げる。
「なんじゃ」
「しまなみ海道、私も自転車で走ってみたい。こんなとこ子供が一人で走ってたんだな、流石だなってドン引きするの、楽しみ」
 それはええのう、呟いた仁王のきつく目尻の上がった目がこちらに向く。
「二、三日休みがとれたら行くか」
「二人で?」
「あんな鄙びた場所、他に付き合うような人間はおらん」
 とにかく何もない島だ、と仁王は自分の故郷を含んだ四国四県を一括りにして言葉を切った。
 胸の中がむずむずする。仁王がスプーンを落とそうとしていたテールスープの碗を、私は取り上げた。
「行きたいけどお金がない」
 男の好物を人質にするみたいに卓の上で引き寄せると、仁王はゆっくり瞬きをした。そうか、と下唇を親指で撫でさする。笑うでも、怒るでもない、普段通りの仁王雅治。
「十万もあれば充分じゃ」
 貸してやるという旨の言葉を男が吐き出したとき、胸の奥に滞っていた熱が一気にこみ上げてきた。涙が出そうになるのを、欠伸でごまかすと、「俺も今日は寝不足ぜよ」と私の心を雁字搦めにした男は呟いた。




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