同じ穴

「結婚してくれんか」
 十年も前から好いていた男にプロポーズされた。三十も過ぎて銀色の髪をした男は、瞬きを繰り返す私の手元に桐製の小さな箱を置いた。
「婚約指輪じゃ。高いらしいぜよ」
 他人事のような言葉に引きずられるようにしてそれを開くと、大きなダイヤの輝くプラチナのリングが収まっていた。私はそれに触れることもなく、「高そう」と呟く。
「嵌めてみたらええ。サイズも合っとるはずじゃ」
 流石に話が突然過ぎて指につける気にはなれなかったけど、私も一端の女だ。いかにも高級そうなアクセサリーを目の前にすると、手にとってみたくなる。
「しつれいします」
 紫色の布に包まれたそれを、壊れ物を扱うような手技でつまみあげて、カフェのダウンライトにかざしてみる。人工の光を浴びて優しく輝くそれは、子供の頃憧れていたエンゲージリングに他ならなかった。
「私、付き合ってる人いるんだけど」
 指先でつまんだ現実味のないモノをしげしげと見つめながら、住み慣れた二DKのアパートに横たわる恋人の姿を思い浮かべる。仁王への想いを抱えながら同棲し始めて五年、プロポーズを待ち始めてから三年、最近少し腹の出てきた二つ年上の恋人は、それでも私の幸せな日常の象徴だ。
「別れんしゃい。どうせ大した男でもないんじゃろ」
 左手首に絡めた銀の腕時計を弄りながら仁王は笑った。細いチェーンのついたそれはどう見たって女物で、前に会ったときに、「似合ってないね」と指摘したら彼は不機嫌になった。
「いい男ではないけど、馴染んでるよ」
 指輪を箱に戻すとき、内側に濃いピンク色の石が埋め込まれているのに気がついた。
「裏石まで入ってるね」
 可愛い、素直に漏らすと、
「ピンクトルマリン。十月の誕生石じゃ」
「……私の誕生日、十月じゃないけど」
「ああ知っとるよ」
 そして仁王の誕生日が十二月であることを私は知っている。この辺から少しずつこめかみに痛みが走り始めた。
「じゃあ誰の、」
 言いながら、指輪の内側をじっと眺める。外側のダイヤに比べるとあまりにも小さな裏石を指でなぞっているとき、トルマリンに寄り添うようにして短い文字列が刻印されていることに気がついた。
 石に近い方に私のイニシャル、&を挟んでもう一文字はH。それを認めたとき、心臓の鼓動が早鐘を打ち始めた。落ち着くために大きな氷の浮かんだアイスコーヒーのグラスを傾けると、こめかみの痛みが更に増す。
「私と誰が結婚する話」
 極力冷えた声で分かりきったことを尋ねる。
「柳生じゃよ」
 他に誰がいる、とでも言いたげな口調に胸が冷えた。
「いや、なんで私が柳生君と、だって一度も好きだと思ったことないし、殆ど話したこともないし、」
 相槌がないと独り言のようだった。仁王は私の言葉に対して頷くことすらせずに、小皿に載った豆菓子を食んでいた。
 その態度に無性に腹が立って、だけど好きな男を相手に怒りをあらわにする事も出来ず、私はそっと桐箱の蓋を閉じる。結婚は出来ません、という意思を込めて。それでも相手からの返答がないので、「無理だよ」の四文字も重ねる。
「恋人がおるからか」
 ようやく口を開いた仁王は、いつになく真っ直ぐな眼を私に向けた。

 学生時代、この男のことが好きでたまらなくて、気だるげな男の視線のありかをいつも追っていた。その視線の先にあるのは、窓の外の雲だったり、教室の壁際に立てかけられたモップの柄の部分だったり、なんとなしにその場にあるものを眺めながらぼんやりしているように見えることが殆どだった。そういうとき、彼の体からは力が抜けていた。
 そんな彼が、時たま熱のこもった目で何かを見つめているのに気がついたのは、仁王を好きになって一年が過ぎた頃だっただろうか。
「なに見てるの」
 放課後の教室で、窓際に佇んで外を見つめる仁王に声をかけたことがあった。
「いや……」
 そのときはまだ初心だった彼は言葉を濁して俯いた。しかし数秒前まで彼が視線を向けていた先の、隣の校舎の渡り廊下を柳生君が歩いているのを私は認めた。
 そういうことが何度かあって、「ああ、この人は“そう”なんだな」と私はそれを自然に受け入れた。彼のことはとても好きなつもりでいたけど、私が彼を想う以上に、彼が柳生君を想っていることが分からないほど私は子供ではなかった。

 グラスの中の氷が溶けるカチリという音とともに、私の意識は三十路の現実に引き戻される。
「恋人がいるからじゃないけど」
 仁王の視線から逃れるように顔を背けて答える。
 私はもしもこの結婚の話がこの男との間に交わされるものだったら、例えそこに彼からの愛がなかったとしても、簡単に恋人を捨てただろう。
 未だにそこまで想っているからこそ、会いたいという気持ちに引きずられて、脈のない男からの呼び出しに応じてしまうのだ。
「柳生が相手ならお前さんの親も納得じゃろ」
「……お医者さんだし、いかにも真面目そうだもんね」
 嫌味のつもりで言ったけど通じなかったのか、仁王は、「真面目が取り柄の男ぜよ」と口元を緩めた。
「だけど柳生君の親御さんは私じゃ納得しないでしょ。良い家柄のお嬢様とかじゃないし、」
「ああ、それはええんじゃ」
 私の言葉を遮った仁王は、一瞬難しげな表情を浮かべた後、
「片親じゃなくて、子供が産める年齢の女なら誰でもええらしいき」
 ポーカーフェイスを装って言った。
「病院を継ぐ息子がいつまでも結婚せずにいたら外聞が悪いってこと?」
「平たく言えばそういうことじゃな。柳生の親御さんは俺とアイツの関係を知っとる」
「……別れろって言われたの」
「何を言われても別れるか。せっかく自分のものにしたんじゃ」
 吐き捨てるように言った男のことが少しだけ怖くて、だけどそれ以上に哀れに思われた。
「あそこの親も大概タヌキぜよ。俺のことは切らんでいいから、適当に見繕ってきた女と結婚せえっちゅうんじゃ」
「その適当に見繕ってきた女に、私をするつもりなんだ」
 足の指先が冷えていく。それは雨降りだというのに効きすぎた空調のせいではなかった。
「お見合いでもなんでもしたらいいのに、なんで私なの」
「見ず知らずの女が柳生の子供を産むなんて想像しただけで気味が悪い」
「私が産んだってそれは同じでしょ」
 膝の上で握りしめた拳を緩めたら、泣き出してしまいそうだった。
「お前さんのことは昔から気に入っとるきに、穴姉妹になるくらいどうってことないぜよ」
「気に入ってるって」
 犬猫のような言い方が腹立たしくて、下唇を噛みしめる。
「私の人生は、私だけのものなの……仁王がそんなこといっても、簡単に結婚とか決められないよ」
「お前は俺のことが好きじゃろ」
 意を決して放った言葉に、あっさりとそう返されて、思わず頷いた。
「俺は柳生のことが好きじゃ。あいつのためならなんでも出来ると思うとる。それはお前も同じじゃろ」
 とんでもない理屈をこねくり回す男に、そんなわけない、お前はおかしいと返さないといけないのに、舌が回らない。
 好きな男に、真っ直ぐに見つめられて、訳の分からないことを迫られて、私の心は追い詰められていた。
「柳生と結婚したら俺との縁もずっと切れんよ」
「本当?」
 熱に浮かされたような声が漏れる。私の心は、狂気に支配されつつある。
「当たり前じゃ。俺と柳生が好きあって、柳生の子供をお前さんが産む。全部まとめて家族みたいなもんぜよ」
「……そうか、そうよね」
 仁王が設計した家を、柳生が貯めたお金で建てて、私と、私の産んだ子供を含めた四人で暮らす。よくよく考えてみれば、これ以上に素敵なことはないように思えた。柳生君の素顔は、仁王に似ているから、私たちの子供はきっと彼に似ている。
 甘美な想像を巡らせていると、脳が痺れるような錯覚に陥った。
「私、柳生君と結婚する」
 桐箱の中から、婚約指輪を取り出して左手の薬指に嵌めてみる。仁王の言った通り、私の指にぴったりのそれは、彼との絆を示しているようで、さっきまでより輝いて見えた。
 妖しく煌めくそれを指先で撫であげていると、なんだか妙な心地がしてきて、私は口を開いた。
「仁王も子供が産めたらよかったのにね」
 この男と、同じ男の種で子供を産む。想像しただけでも悦になる。
 とてもいい考えだと思ったけど、私の言葉を受け止めた仁王はしばらく虚を突かれたように黙り込んだ。
 それから笑顔を作り、くっきりと表情を停止させてから、静かに言った。
「俺が産めるならお前さんはいらんぜよ」




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