そういう風に出来ている



 薄い壁一枚隔てた空間からくぐもった喘ぎが伝わってくるたび、足の親指に手が伸びる。群青色の爪、つるつるした感触、以前に仁王にも同じものを塗ってやった。
 湯上りのふやけた甘皮をプッシャーで押しあげて、ガーゼで丁寧に拭う。適度に液を切ったハケを爪のキワのぎりぎりまで滑らせる私を見下ろして、「器用なもんじゃのう」と呟いた男の声が耳に甘い。
 あれ以降仁王の肌に触れたことはない。触れたいとも思わない。だけど、仁王が私たちの家に連れ込んだ見知らぬ男が、いとも簡単にあいつの深いところに触れているのだと思うと、行き場のない焦燥に苛まれる。
 三十路前の女がいつまで不毛な片思いを続けるのだろうという現実的な焦りと、自分を大切にしない男ばかりを選びとってしまう仁王へのおせっかいな苛立ち。
 一年程前までは、仁王はルームシェアの相手として申し分のないお行儀の良い暮らしをしていた。月に一度か二度、男を漁りに出かけて、知らないシャンプーの匂いをさせて朝方に戻ってくることはあっても、そこで出会った男の話を漏らすことはなかったし、決まった相手が出来たとしても、この部屋の場所は知られないようにしていた。
 えっちの相手をこの部屋につれてきてもいいよ、と言ったのは私だ。朝食で食べたトーストのパンくずをゴミ箱に落としながら、表情を読み取られないように俯いて吐き出した言葉に、仁王は、そうかとしか返さなかったけど、それ以降は夜にうちに帰ってこないことはなくなった。
 初めて内にくる男はみんな、仁王が女と暮らしていることに驚く。なんでこんな場所に連れてくるんだと憤る男もいるが、あっさりと挨拶をした私がそれっきりテレビやらスマートフォンやらに意識を払い、私たちの部屋が分かれていることを知ると、仁王を彼の部屋に押し込んでしまう。そういうときに交わされる、声をひそめたやりとりは生々しい。
 彼らの背中が消える直前、私は時たま、ごゆっくりと吐き出す。声が男に届いたことはない。そして男たちの大半は出すものだけ出してしまうと、さっさとうちから去っていってしまう。気味が悪いのだと思う。
 初めて“その音”を聞いたときは流石に驚いた。あの日は手の指の何本かに金継ぎ風のネイルを施し、疲れた目を癒すべく十時過ぎに自室に入った。
 隣り合った仁王の部屋からは押し殺したような喘ぎが漏れていたが、いつものことなので気にならなかった。そのときの私にとっては、仁王が男に抱かれているかどうかよりも、爪の上にのせたトップコートが充分に乾いているかどうかの方が肝要だった。油断して眠りに落ちたあとに、時間をかけて作り上げた造作が崩れてしまったら目も当てられない。
 ふ、と左手の親指の腹で右手の爪をなぞったとき、隣の部屋から破裂音が響いた。ぱしん、ばちん、と耳に痛い音が耳に届くのに伴って、仁王が甲高い声を上げて喘ぐ。その音が、男が仁王の皮膚を打つ音だと気がつくまでには多少の時間を要した。
 スパンキングという行為自体に特殊性は感じないが、その音は男女のカップルの間で行われる戯れのようなものとは少し違った。
 相手が同性であるが故に遠慮がなく、壁一枚通しても重さの残る鮮烈な響き、きっと跡が残るのだろうなと想像すると堪えようとしても高揚する己の心を厭うている内にその日の行為は幕を閉じた。
 翌朝顔を合わせた仁王は多少バツの悪そうな顔をしていた。私は平素通りの調子を守って、トーストを焼き、インスタントのスープを溶かした。
 そういうことが何度も続くと、壁越しに聞いたおおよその音で今殴られたなとか、痛いのに気持ちいいんだなとか、向こう側で起きていることが分かってくる。
 今日の音は、随分と低い。皮膚を打つ音が鈍く重いだけでなく、体を揺さぶられる仁王が漏らす喘ぎも、苦しげだ。
 殺されやしないだろうか。今日の相手は体格が良くて、仁王の肩を抱く腕が丸太のように太かった。あまり風の良い人間には見えなかったが、いつになくアルコールの回った様子の仁王の目が蕩けていたので、口を挟むことは出来なかった。
 それは行為が始まって、酷い音が響き続ける今も同じ。惚れた男が犯される音に、先週リリースされたばかりの好きなバンドのアルバムを重ねる。
 Bluetoothのスピーカーから流れる浮気男の歌がサビに入ったとき、部屋の壁が叩かれた。腹が立ったけど、叩き返す勇気もなくて膝を抱える。
 踏み潰されたアヒルのおもちゃみたいな仁王の呻めきが耳に届く。遅れて甲高い喘ぎと、淫乱だの便器だのとそれを罵る男の低い声。
 鳩尾に手を差し入れられて、直接かき混ぜられているような心地がした。
 布団に潜って眠ろうとしても、上手くいかない。爪の先に金木犀の匂いのするオイルを塗り込んで、それを嗅ぐ。向こうの音は生々しくて、男の汗の匂いすら感じられそうなくらいだった。
 こういうときのために、惚れた男とは別にいつでも自分を甘やかしてくれる男を用意しておく必要があるのだと今更ながらに思い出した。
 酷くされたがる仁王の気持ちは相変わらず分からないのに、あの男を乱暴に扱いたい男の衝動への理解ばかりが深まる。私が男だったら、夜はめちゃくちゃに仁王をいたぶっても、明るいうちは洋服に包まれた肌に残る赤い跡を愛しんで誰よりも大切にしてやったのに。

 薄い皮膚にミミズ腫れが浮かぶのを想像している内に、朝が来ていた。歯磨きと洗顔だけ済ませて、寝巻きのまま仁王の部屋を訪れる。
 仁王は既に目を覚ましていたが、気怠げにベッドに横たわり、細やかな瞬きを繰り返していた。
「眩しい?」
 カーテンの隙間をぴっちりと閉じてやると、部屋は青白く染まった。お互いの表情も読み取れないような薄暗い空間で、ベッドの際に膝を詰める。
 シーツに投げ出された手を掴むと、思いがけず強い力で握り返された。怯みそうになるのを堪えて、口を開く。
「昨日の人、強そうだったね」
「力か」
「力もエッチも」
 口に出した端から後悔した。言わなくてもいいことを言ってしまったと悔やんでいるのが伝わったのか、指先を優しく撫でられる。
「若い男は加減を知らんの、ところどころ跡になっとる」
 仁王は笑いながら、空いた手でスウェットの襟首を引いた。
「見せてよ」
 握り合った手に自分から力を込めた。どちらのものとも知れない汗の感触が気持ちいい。
「剥き出しの仁王が見たい」
 流石に渋っていた仁王も、どうせ暗いから細かいところまでは見えないよと説得すると渋々体を起こした。上半身を包むスウェットを脱いで、床に落とす。
「下も全部だよ、いいでしょ」
 足の甲をさすりながら乞うと、「やけに積極的じゃな」と揶揄うように言いながら下着まで全てを剥ぎ取った。
 ベッドの上で背中を丸めて体操座りをする体を、シーツの上に押し倒す。分厚いマットレスのスプリングが軋む音を、直接聞くのは初めてだった。
「ここ吸われた?」
 薄いカーテンを透かす青白い光に導かれるようにして鎖骨の下をなぞる。緩く下に振れた顎が頼りない。
「舐めてもいいよね」
「間接キスか」
「仁王に触れるならどうでもいいよ」
 薄い皮膚に散った赤黒い鬱血を一つ一つ舌と唇で辿る。ときどき関係のないところまで吸い上げて跡を増やしたら、「はしゃぎ過ぎぜよ」と髪を梳かれた。
「ずっと触りたくないって強がってたんだけど、目の前にぶら下げられたらやっぱり駄目だね」
「人を人参みたいに」
「例えるとしたらもっといいものだよ」
 腰のあたりまで後退して、外腿にそっと触れる。随分重たいのをくらったらしいそこは、赤く熱を持っていた。冷たい手のひらの温度を移してやるように撫でさすりながら、足を開かせる。内腿の際どいところに触れても、仁王の呼吸は平坦だった。涼しい態度が憎たらしくて、皮膚の薄い場所に爪を立てる。
「っ、」
「指、入れていい」
「どこの話をしとる」
「お尻以外に入るところってあるの」
 これで流されやすい男は、諦めたようにローションとコンドームを取り出した。指にゴムを被せて、入り口を撫でさすりながらローションを垂らす。
 とぷん、と押し入ったそこは、ねっとりと濡れていて、昨夜の情事の激しさを改めて想起させた。
「あ、ナカ柔らかいよ」
 鼻先には、くたりと力の抜けた仁王のモノ。兆したところが見てみたくて、腹側のそれらしいところを押したり、内腿に舌を這わせたり、出来る限りのことを試してみる。
 男の太いものを日常的に受け入れる仁王の入り口は、さして時間も取らせずに、三本の指を受け入れることが出来た。
「たくさん入った」
 歌うように言ってみたものの達成感はない。仁王の中心は、彼の下腹に寝そべったまま、どれだけ刺激を与えても起きるつもりはないみたいだった。
「すごい、ちゃんと出来てるね」
 頭を持ち上げると、こちらを見下ろしていた渇いた目と視線がかち合った。こうなることくらい分かっていたはずなのに。
「私じゃダメなようにちゃんと出来てるんだ。すごいね、仁王の体は」
 抱かれる想像なんて一度もしたことはない。縋りついてねだって、同情してくれたところで、私の愛した男は初めからそういう風に出来ている。せめて一度くらいこの手で登り詰める姿が見たいという浅はかな願いも、この瞬間につゆと消えた。それでも離れられない。突き放してくれとも思えない。同じ空間で、同じ空気を吸っているだけで慰められる。朝が弱いのに、私の作った朝食を無理やり嚥下する喉の動きを見るのが好きだ。好きだ、好きだ、好きだ。求められなくても、手を離すことなんか出来ない。
 気がつけば仁王の先端が濡れていた。熱くなった目頭から溢れてしたたり落ちるその液体に晒される仁王のそれは、いつまでも萎びたまま、自分を悦ばせてくれる相手の到来を待っているようだった。



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