首筋を晒す

 物心のついた頃から我が家には母親がいなかった。さびしいと思ったことはなかった。パパは私に優しかったし、私はパパを愛していたからだ。それに母親というものがいる生活なんて知らなかったから、ママがいないからさびしいなんて感情は生まれるはずもなかった。本当の本当に、私は少しもさびしいとは思っていなかった。それなのに、我が家に母親がいないということ知った人たちは皆憐れむような目をして私を見つめた。私のことをかわいそうだと言う大人もいた。
 そんな風に、ときに好奇や憐れみの入り混じった眼差しに晒されながらも私は中学生になった。恋をしたことこそないけれど、決して愛に飢えた子どもではなかった。私はパパを愛していた。パパさえいれば外には何も必要ないと心の底から思っていた。だから……あの人が、あの子が憎かったのだ。
 それはあまりにも唐突に訪れた。慣れない数学の授業に悪戦苦闘し、疲れ切った状態で帰宅した私は夕御飯の準備をしながらパパが帰ってくるのを待っていた。その日のおかずはパパの好物のアジの南蛮漬け、おばあちゃんに教えてもらった料理だった。揚げたアジを玉ねぎの入った南蛮酢に漬けこんだ私はリビングのソファでくつろいでいる。真新しいソファの革には傷の一つも入っていない。指でなぞるとするすると滑る滑らかなそれを引っ掻きたい衝動にかられながらも私は天井を見上げていた。白い天井にはLEDの証明が張り付いている。未だ見慣れない光景だ。今私がくつろいでいるこの家は、私が中学に入学するのと同時にパパがローンを組んだ新しいものだ。二人暮しにはそぐわない程に広い、二階建ての家。それが指し示す未来に、新居に越してきたばかりの私は少しも気が付いていなかった。呑気だった私はこれからも永遠にパパと二人の生活が続いていくと思っていたのだ。
 その日パパは一人の女性と小学生の男の子を連れて帰ってきた。アラフォー間近にしては見栄えのいいパパに並んでも見劣りしないその人は玄関で訳も分からず立ち尽くす私に視線を合わせると美しく微笑んだ。美人なのに幸の薄そうな顔だ、そんなことを思ったのを覚えている。彼女の白く美しい手には彼女のそれに負けず劣らず白く、小さな手が握られていた。その手の主、雅治くんは切れ長の瞳で私を見つめてはいたが、結局のところ最後まで言葉を発することはなく黙り込んでいた。雅治くんは彼女に似て綺麗な容姿をしていたので、彼に見つめられた私は柄にもなくどぎまぎしていた。

「ねえ、この人だれ?」

 私がこんな不躾な物言いをしてしまったのは質問するまでもなく察していたからだ。彼女が、彼女とその子供である彼が、

「俺たちの新しい家族だよ」

私とパパの幸せな生活を崩す敵であるということを。
 その日、南蛮漬けが食べられることはなかった。


*****

 それからと言うもの、私は荒れに荒れた。彼女の作る食事には決して手を付けなかったし、彼女の選んでくれた洋服はどんなに自分好みだったとしても袖を通さなかった。部屋に引きこもってヒステリックに叫ぶこともあった。
 それでも彼女に直接文句を言うようなことはなかった。臆病な私は大人である彼女が恐ろしかったのだ。
 そうして私の抱えた激情の矛先は雅治君に向いた。あの頃の私は悪魔だった。二つも年下の、まだ体の出来上がっていなかった彼の体に数えきれないくらいの傷を作った。あれはれっきとした虐待だ。彼は体だけでなく心にも傷をおった。

お姉ちゃん、許して!

 私に殴られるたび、雅治君はそう言って涙を流していた。体を丸め、変声期前の甲高い声で私に許しを乞うていた雅治君の姿を、私は今でもはっきりと思い出すことが出来る。雅治君はあの時から既に私を姉であると認めていた。私の機嫌の良いときにはお姉ちゃん、お姉ちゃんと嬉しそうにまとわりついてきた。少しも優しくはなかった私に、雅治くんがどうしてあんなにも懐いてくれていたのかは今でも分からない。
 それだけ懐かれていても、私はやはり雅治君を可愛いとは思えなかった。弟だとは認められなかった。それでも虫の居どころの良い日には雅治君が自分の傍にいることを許していた。
 雅治君はいつでも私の傍にいた。私の機嫌が悪くて暴力をふるわれてもその場から逃げ出すことはしなかったのだ。雅治君は仁王の家で居場所を見つけることが出来なかった。パパは家族が増えても私を可愛がってくれていたが、雅治くんには無関心だったし、雅治君の母親であるあの人は何がきっかけで暴れだすのか分からない私を恐れていつもパパに寄り添っていた。彼女もまた雅治君への感心をなくしているようだった。雅治君は淋しかったのだ。四年前の私はある日唐突にそんなことを察した。その事実を察した瞬間、彼に優しくしてやろうという気になった。
 いつものように私の元へ寄り添ってくる彼に、私は出来るかぎり優しい声で話しかけた。そうして戸惑いの表情を浮かべる雅治君にこう言ったのだ。

「今日は一緒にお風呂に入ろうか」

 小学生の頃にパパと一緒に風呂に入るのが好きだった私は、雅治君も人と一緒に風呂に入るのが好きだろうと勝手に決め付けた。そして実際のところ彼が人との入浴を好む性格だったのかどうかは分からないが彼は嬉々として私の誘いに応じた。
 私は湯船にお湯を貯め、先に自分が体を洗い流してから雅治君に手招きをした。素っ裸の雅治君はしばらくは恥ずかしそうにもじもじしていたが、待たされるのが好きではない私が苛立ち始めると焦ったように湯船に浸かった。
 二人の間に会話はなかった。今までろくに会話をしたことがなかったのだから当たり前だ。私は雅治君の存在など始めからなかったかのように鼻歌を歌っていた。しばらくして雅治君が口を開いた。

「お姉ちゃん、下に毛生えとんやね」

 馬鹿にしたような声色ではなかった。雅治君はただ事実を言っただけだった。しかし私は、申し訳程度に毛が生え始めたばかりだった私はそれを許すことが出来なかった。頭に血が登り、自分の行動を制御することの出来なくなった私は、私は……雅治君の銀色の髪に包まれた小さな頭に手をかけ、彼を湯船に沈めた。雅治君は苦しそうにもがいていた。手足をばたつかせて、必死に頭を上げようとしていた。私は一度雅治君の頭から手を離し、酸素を求めて喘ぐ雅治君を怒鳴りとばした。

「友達に言うんでしょっ!」
「いわ、言わな……ぐっ」

 言い切るのを待たずにまた沈める。雅治君はやはりもがき苦しんでいた。私は泣いていた。泣いていいはずがないのに泣いていた。雅治君に優しくしたかった。それなのにこんな風に彼を痛め付けることしか出来ない自分が恐ろしくて泣いていた。涙だか雅治君が散らした湯船のお湯だか分からないものが頬を幾筋も伝っていた。


*****

 鬱陶しいくらいに伸びた銀色の髪に鋏を入れる。じょきりじょきり、音が鳴る度に煌めく銀髪が雅治君の体を覆うゴミ袋を滑り落ちていく。浴室に無理矢理に置いた椅子に座った状態で首を反らす雅治君と視線が合うので私は苦笑いを浮かべた。

「首、反らさないで。切りにくいから」
「お前さんの姿が見たいんじゃ」
「何も面白くないでしょ」

 雅治君が我が家に来てから四年の月日が経った。私は高校二年生に、雅治君は中学三年生だ。二人とも立海大附属に通っている。
 この四年の間に仁王家は少し変わった。ギザギザハートを極めていた私は弟が生まれてからすっかり大人しくなり、雅治君のお母さんのことをママと呼ぶようになった。勿論雅治君に暴力をふるうことなんてなくなったし、今では雅治君のことを大切な弟だと認めている。それとは逆に、中学生になって私よりも背が高くなった雅治君は私をお姉ちゃんと呼ばなくなった。だけど家にいるときは私にべったりなのは昔から変わらない。私にたくさん傷つけられたことは忘れていないだろうに、雅治君はやっぱり不思議だ。

「あっ、変なとこ切っちゃった」
「もっと慎重に切りんしゃい」
「……ごめん。でもさ、そんなこと言うなら美容室に行ってくればいいのに。中三にもなってお姉ちゃんの床屋さんなんて人、雅治君くらいだよ」

 我が家は雅治君が美容室に通うのに困るほど困窮しているわけではないはずだ。むしろ金銭的には余裕があるくらいだと思う。それなのに中学生になったころからずっと雅治君は私に髪を切ってくれとせがみ続けているのだ。特別器用なわけではない私は雅治君に髪を切ってくれと頼まれるたびにこうして神経をすり減らしている。

「美容室に行ったら洗髪されるじゃろ」
「気持ちいいよね」
「俺はあれが嫌いなんじゃ」
「どうして?」
「他人に喉元を晒すなんて不安で仕方ない。刃物を持った他人に近づくんも嫌じゃ」
「用心深いなあ……」

 現代日本の美容室で喉元晒して殺されるなんてまずありえないと思うけど。呆れたように笑うと、浴室の鏡に映った雅治君がくっと口角を上げるのが見えた。

「昔から何度も殺されかけとるんじゃ、用心深くもなるぜよ」
「っ、あ……」

 じょきり。鋏が予定とは異なる部位を切り落とした。大量の銀髪が浴室の床に散らばる。雅治君がもうええよ、と言ってごみ袋を脱ぎ捨てた。椅子から降りた雅治君は、呆然としている私の体を抱えて空っぽの湯船に押し込む。そうして縮こまる私の体に馬乗りになった。

「……まさ、はるくん?」

 鋏を握る手に力がこもる。私が悪いんだ。雅治君を傷つける気なんてない。それなのに、何故だか鋏から手を離すことが出来ない。

「昔のお前さんなら今の時点で俺は流血しとったな」
「……そう、だね」
「美容室で喉元を晒せんなったんはお前のせいじゃ。刃物を持った人間に近づけんのも、お前の……」
「それじゃあ、それなら……どうして、私に髪を切らせるの? 一番怖いのは私でしょ、だって雅治君にトラウマを植え付けたのは私なんだから」

 雅治君の手が鋏を握る私のそれに重なった。大きな手だ。いつの間にこんなに成長していたんだろう? 初めてこの家に来たときにはママに繋がれていた手はとても小さなものだったのに。
 雅治君が握りこんだ私の手を持ち上げて、鋏の切っ先を自分の喉元へ向けた。

「お前さんになら殺されてもええ」
「意味、分からない……」
「昔のお前さんはそうじゃなかった。もっと強い目で俺を見とった。俺のことを本気で殺そうとしとった」

 雅治君は歪んでいる。私に昔のような目で見られることを望んでいるのだ。私に殺意を抱かれることを望んでいるのだ。そして、彼を歪ませてしまったのは過去の私だ。

「今の私はもう雅治君のことをあんな目で見ることは出来ないよ。だって、」

 それ以上は言葉にならなかった。雅治君によって唇が塞がれてしまったからだ。息も出来ない程に激しいキスに頭がぼうっとする。狭い湯船の中で押さえ付けられて、私に湯船に沈められた雅治君もこんな感覚だったのだろうか、なんて馬鹿げたことを考えた。私は馬鹿だ。同じ感覚であるはずがない。だって今しているこれは酷く心地よいものなのだから、体の芯に灯った熱に、私は熱い溜息を漏らした。雅治君の手が私の体をまさぐり始める。そこにきてようやく冷静さを取り戻した私は自分に覆いかぶさっている雅治君の体を弱々しく押し戻した。意外にもすんなりと体を離した雅治君が口を開く。

「殺したくなったじゃろ?」

 私は弱々しく首を横に振った。雅治君が苛立った様子で私の肩を掴む。

「どうしてじゃ、どうしたら昔みたいに俺に集中してくれる」
「……充分集中してるよ。私、ほとんど雅治君しか見てない。殺したいなんて思えないよ、二人で生きていきたい」

 二人で生きていきたい。そう言ったとき、雅治君はたしかに驚いたような表情を浮かべた。

「……雅治君を殴り殺さなくてよかった、雅治君を湯船に沈めて殺しちゃわなくてよかった、雅治君が……私を好いてくれててよかった」
「俺は、お前さんのことが好きだなんて言ってなか」
「今から言えばいい」
「お前、」
「言ってよ……言えないなら今日からはまた私のことお姉ちゃんて呼んで」

 長い沈黙の後、雅治君は私の上半身にのしかかり体重をかけてきた。重たいよ……と呻く私の喉元を甘噛みする。

「喉元を晒すのは危険なんじゃ」
「……こんなこと雅治君しかしない」
「惚れた女にしかせんよ」
「……そっか」
「一目惚れだったんじゃ」
「そう……」

 今にも消え入りそうな声で呟く雅治君の頭を撫でる私は、四年前に初めて出会ったときの雅治君のことを思い出していた。あのときの小さな彼は私の弟ではなかった。

「大きくなったね、雅治君」

 そうして今、私を押し潰しそうなくらいに成長した彼は、




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