成り損ない

 私は死んでしまったらしい。神様が出てきて、お前は死んだんだって言われたとか、そういう大それたことがあったわけではないけど、大型バスにはねられて、体がぽーんと跳ねとばされた瞬間の記憶は残っているから間違いないだろう。
 道路に背中を強かに打ち付けて、血をドクドク流しながら意識を失ってしまった私は、今は血の繋がりもない人間の家で暮らしている。命を失った私は、気が付いたらこの家の前に座り込んでいた。命を保てなくなった体は元通りの綺麗な状態に戻り、しかし自分の命が失われたことを知る胸は晴れない。ここは死後の世界なのだと思い込み、導いてくれる天使の訪れを待っていた。
 だけど民家の塀に背中を預けた私の目の前に現れたのは金髪のあどけない天使ではなく、銀色の髪を一つくくりにした気だるげな少年だった。座り込む私の姿を見るなり不快げな表情を浮かべた少年が唇を薄く開く。形の良い切れ長の瞳は細められている。ああ、美形だなって無難な感想を抱く。

「誰?」
「分からない」

 本当に分からなかった。今の私は自分が生きているのか、死んでいるのかさえ分からない。バスにはねられて死んでしまった女の子のことならよく知っているけれど、今この瞬間にお前は誰なのだと問われても困ってしまうのだ。

「歳は?」
「16歳」
「俺より2つ歳上じゃな」
「14歳か、大人っぽいね」

 会話の運びは自然で、しかし少年は何かを探っているように見えた。大方私のことを怪しい女だと思っているのだろう。怪しいことに異論はないけどいくら探りを入れたところで得られる情報は殆どないはずだ。死人なのだから空っぽに決まっている。

「うちに何か用があるん」
「ないよ。気がついたらここに座ってた」
「まだ夕方じゃ、酔いどれがふらつくには早過ぎる」
「未成年だから、お酒は飲まない」

 嘘だけど。ちょっとくらいは飲んだことある。ぐでんぐでんに酔うほど飲んだことはないけど、夕飯時にビールが出てくるたびちびちび啜ってた。

「記憶喪失ってやつか」

 大真面目な顔で尋ねられて、思わず笑ってしまいそうになった。だけれど行く宛もない、打算的な私はそれを堪えて睫毛を伏せる。そうかもしれない、と呟くと、冷めている様に見えた彼が意外にも同情的な反応を示したので驚いた。
 もしかして一目惚れされたのかな、なんて自惚れたりして、だけどあくまで悲しげに唇を震わせる。

「どうしたらいいんだろう」

 あれ、私ってこんなキャラだっけ? もっと控えめな女じゃなかった? やっぱりバスにはねられて死んじゃったから別の人間になっちゃったのかな。

「――とりあえずうちに入るか」

 彼が私に手を差し伸べる。私もキャラが変わってしまったみたいだけれど、彼自身も普段は見ず知らずの女に同情して家に招き入れる様なキャラではないのではないのだろう。その証拠に、彼はこちらに伸ばした自分の手をまじまじと見つめている。自分自身の行動に驚いているように見えた。



*

 私と、私に手を差し伸べた少年、仁王雅治は姉弟になった。彼の母親は奔放かつ人情味に溢れた女性で、自分を記憶喪失だと言いはる私に同情し、彼によく似た父親は、妻には強くものをいうことが出来ないらしく、お前の好きなようにすればいいとだけ言って、私を養子にする手続きを整えた。笑っちゃうほどにすんなりと、私は仁王家に入り込んだのだ。
 ここは私が元々住んでいた世界ではないらしい、その事実に気づいたのは私が仁王の家に入り込んでひと月ほどが過ぎたころだった。高校に向かう途中ホームシックに陥った私は自分が元々住んでいた家の最寄り駅でふらりと降りてしまったのだ。久々に訪れた自分の街が随分と風変わりしてしまっていたのに驚いた。昔通っていた小学校、記憶に新しい中学校のあった場所にも行ってみたが、そこには別の学校が建っていて、その日の晩に家のパソコンで検索してみても私の母校は存在していなかった。そこでようやく私はここが自分の世界ではないと悟ったのだ。平凡な生活を送っていた私は馴染みの畑から引っこ抜かれて、別の畑に植え直されてしまったのである。
 酷い話だなあ、呟きかけたところで隣に横たわっていた男が寝息を立て始めたことに気がついた。この男は私の書類上の父親だ。自由奔放で気の強い妻との生活に疲れた中年の色男は若い体を貪って潤いを得ているのである。安物の昼ドラの様な展開だ、うんざりする。

「甘い話には裏があるんだなあ……」

 こんな変態と戸籍的に結ばれてしまった今になって知ってももう遅いかもしれないけれどいい勉強になった。
 父よりも随分と若い母には他所に男がいて、私は父のかつて死んでしまった初恋の相手に瓜二つなのだという。だからといって16歳の義娘を四十男が抱いてもいいということにはならないと思うが、それでも私はこの男に抱かれなければ生きていけないのだから仕方がない。
 母が男のところにいっているときはいつも父に抱かれる。母はほとんど毎晩男の家に行くので、私も毎晩父に抱かれている。夕方五時に家に帰ってきて、八時に家族揃って夕食をとる。そのあとは皆ばらばらだ。母は家にいない、私と父は部屋にこもる。雅治は――どうしてるんだろう? よくわからないけど、私が父に抱かれていることは知っていると思う。現にここ最近は家の中ですれ違っても目もあわせてくれない。雅治はちゃらついた見た目をしているけど、強豪のテニス部でレギュラーとして部活に打ち込むようなスポーツマンなので私のような汚い女のことは許せないのだろう。雅治の気持ちはよく分かる。私だって自分のことが許せない。
 学校に馴染めず、趣味もなく、家族内での立場も微妙、生きていたって楽しいことなんて一つもない。それなのに私はどうして生きているんだろうか。自分が何のために生きているのかが分からない。今の私は生きるために父とセックスしているというよりは、父とセックスするために生きているという感じがする。そんなのは嫌だ。冗談じゃない。そんなことを目的に生きるために生まれてきたわけじゃない。だからといって何を目的に生きるために生まれてきたのかも分からない。死ぬ前だってそうだった。私は目的もなく適当に生きていた。だからこそ死にたいと思ったこともなかった。
 それなのに、今の私はときたま本気で死んでしまいたくなる。私は自分が生き続ける目的を、理由を見つけてしまった。だけどそれが認めがたいもので、それ故に私は死んでしまいたいと思う。性を発散し疲れて眠るこの中年男を殺してしまいたいとも思う。しかしこの男とセックスするために生きている私は、この男が死ねば生きる理由を失うのでやはり死ぬしかないのだ。結局私が死なずに済む道はこの男とのセックスに楽しみを見出す以外にはないのかもしれない。なんということだ、考えうる限り最悪の結末じゃないか。


*

「死んでるみたいだ」

 父が出張に行ってしまった。一週間は帰って来ないらしい。母は相変わらず家を留守にしている。あの人は悪人ではないが、母親には向いていない。この家には義理の娘と愛人がいても母親はいないのだ。ちょっと笑えない。だけど笑う、ハハハ。

「なにを一人で笑っとんじゃ、気持ち悪い」

 リビングで一人笑う私に、部活から帰ってきた雅治がそんなことを言った。座椅子に座る私の脇を冷蔵庫に向かって通りすぎていく。汗のにおいがして、ああ、部活頑張って来たんだなあと思う。ペットボトルに入ったミネラルウォーターをグラスに注いでいる間、雅治はずっと俯いていた。どうやらこちらに視線を向けないようにしているらしい。声をかけられたのも久しぶりだった。

「親父はどうしたんじゃ」
「出張だって言ってた」
「お袋は」
「いつもと同じだよ」
「……もう寝とんか」

 これは幼稚園児の弟のことを指している。今年5歳になったばかりの弟は、とてもしっかりしていて、眠たくなったら一人で布団のある部屋に移動して眠る。私には懐いてない。さっき弟の眠る部屋にこっそり寝顔を見に行ったとき、改めてこの家族は歪んでいるなと思った。そしてその歪みの中心に立っているのが私だ。私さえいなければ少なくとも父はまともでいられたのだ。

「可愛い寝顔だったから切なくなった」
「そう思うなら少しはかまってやったらええ」
「あの子は私のこと嫌ってるよ。小さいのに賢いもん、私が悪者だって分かるんだ」
「人見知りしとるだけじゃろ」

 しれっと言った雅治は私に牛乳の入ったグラスを差し出す。どうしてこんなものを……と思いながらも飲み干してローテーブルに置くと、何故か笑われた。

「いい飲みっぷりじゃ」
「牛乳より水がよかった」
「いつもイライラしとるじゃろ、お前さん。カルシウムが足りとらんのじゃ」
「いらいらしてるつもりはなかったけど」
「自分では分からんもんじゃ」
「……どうして今日は普通に話してくれるの、いつも目もあわせてくれないくせに」

 意地の悪い言い方をすると微妙な表情を浮かべた雅治が、視線を上げる。視線が絡み合ってどぎまぎした。

「俺は情けないんじゃ」
「情けない?」
「いい年したオッサンが16の女に熱を上げるなんて少しも笑えん」
「確かに面白くはないけど」
「まるで他人ごとみたいな口ぶりじゃな」
「なんか、最近もうどうでもよくなっちゃって。生きてても何も楽しいことないから、私ってお父さんとセックスするために生きてるんじゃないかって考え始めたらもうそうとしか思えなくて、それならこれは体感型の映画なんだって思い込んだ方がいいかもしれないとか思ってたら他人ごとみたいになっちゃって、なっちゃって、なっちゃって――まあ最悪」

 顔色を悪くした雅治が私を見つめている。可愛い弟だとは思ってないけど、こんな顔もさせたくない。それなのに言葉の弾丸は止まらなくて、酸欠みたいになる。

「ねえ私どうしたらいいのかな。正直生きてるのがすごく辛くてもう死んじゃいたいんだけど、死んでも雅治とかみんなに迷惑かかるよね。どうしよ、どうしたらいいか教えてよ」

 床に投げ出されていた雅治の利き手を掴む。雅治はこの手でラケットを握り、振るうのだ。雅治には夢中になれるものがある。生きている理由がある。羨ましくて、憎くて仕方がない。

「ねえ、雅治は私に手を差し伸べたことを後悔してるんでしょ」
「……しとるよ。当たり前じゃ」
「私みたいな女が家族になるなんていやだよね、最悪だよね、ごめんね」
「そうじゃなか……こんな目に合わせるくらいなら放っておけばよかったと思っとるだけじゃ」
「なにそれ、私が憎くないの?」
「憎い」
「それなら、」
「じゃけどお前さんが来ようが来まいがうちが駄目になっとったんは知っとる。親父はもう限界だったんじゃ。お前さんがおるからなんとか持ちこたえとる」

 雅治はたぶん、お前が緩和剤になったのだと言いたいのだと思う。これからも父とセックスし続けろという風にも聞こえるのは私がひねくれているからだろうか。

「お父さんは若い女の子が好きなのかな」
「若い女が好きなオッサンってだけならむしろ健全じゃろ。親父が若い女なら誰でもいいと思っとるんなら俺は情けないとは思わんぜよ。親父がお前さんを愛しとるのがたまらんのじゃ」
「私、愛されてるのかな」
「親父はいつもお前さんのことばかり見とる」
「気持ち悪いね」

 雅治の言うとおり、父が若い女なら誰でもいいという気持ちで私を抱いているならまだ気が楽だ。だけどおそらく父はそういう男ではないのだと思う。雅治が「元はお袋が悪いんじゃ」と言う。そうなのかもしれない。元々父は母のことを愛していたのだろう。いや、今だって愛しているはずだ。それは食事時などに見せる父の母に対する細やかな気配りを見ていれば分かる。
 ただ、疲れてしまっただけなのだ。父は見かけに似合わず小市民的な男だ。あの母と上手くやっていけるはずがない。
 私は美しく優しい母のことも、毎晩抱いてもいいだろうかとご丁寧に尋ねてくる父のことも人間的には嫌いでない。家族にするには向かないと見切りをつけているが、それだけだ。元々血が繋がっているわけでもないのだから問題もないだろう。
 しかし雅治と、末の弟はあの壊滅的にどうしようもない二人の大人に見切りをつけることが出来ないのだ。血を分けるというのはそういうことだ。子供は親から逃げられない。雅治と弟は可哀想だ。

「ごめん、今私同情した。愛人の分際で雅治のことを少し見下しちゃった。あんな親がいて可哀想だなって、これなら私の方がマシだって思い込むことによって生きながらえようとした」
「……おしゃべりじゃのう」
「だけど私、あの二人のことはとても家族だとは思えないけど二人のことは結構愛してるよ」
「それなら俺とあいつの母親になりんしゃい。父親の愛人も姉貴もいらんけど母親は欲しい」

 雅治が訳の分からないことを言っている。雅治自身自分がおかしなことを言っている自覚はあるらしく苦笑いを浮かべた。雅治は私に引きずられておかしなことを言っているのかもしれない、なんとなくそう思った。

「いいよ、じゃあ今日から私がお母さんになってあげる。ときどきはお父さんとのセックスを断って添い寝してあげてもいい」
「添い寝はいらん」
「じゃあセックスする?」
「お前さんはおかしい」
「雅治も少しおかしいよ、私達やばいかもね」

 言いながらなんだかおかしくなってきて笑った。つられて雅治も笑い出す。そうしてリビングから笑い声が耐えたころ、私たちは初めてお互いに泣いている顔を見せた。
 生きる理由はまだ見つからない。






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