ミディアムレア

 庭の金木犀がその年二度目の花をつけたのを見計らって自室の窓の掃除をした。バケツに水を溜めてクロスを搾り、脚立の上で手を伸ばして薄汚れたそれを拭う。何度か往復すると水が濁るので、また組み替えて同じことの繰り返し。途中で腕が怠くなって休憩を挟みながらもちまちまと最後までやり遂げる。
 あら、花がよく見える。
 ぐったりとベランダから引き上げてきた私に母が声をかけてきた。「ついでにリビングの窓もお願い」
 今日は無理、と素気無く断ってシャワーを浴び、窓際のベッドに体を横たえた。そこから見上げたオレンジの花は可憐で、少女だった日の記憶を呼び起こす。今の私は二十三歳。もう一年も実家を出る機を探っている。
 マットレスに背を預けている間に夜になっていた。瞼を擦りながら体を起こしたところで、まだぼんやりとした耳が、外から響くくぐもった声を捉える。
 日中に清めたばかりの窓ガラスに頭を近づける。名前を呼ばれている気がした。聞き馴染みのある声。突っ掛けを履いてベランダに出ると門の前には赤也がいた。
「なにしてんの」
 上から声をかけると、昔と変わらない天然パーマが持ち上がる。街灯の光に味方されてスポットライトを当てられているみたいだ。私と自分を指差してから、二本の指を歩かせるようなジェスチャー。夜の散歩への誘い、階段を上ってきた母が「外でアンタの名前を呼んでる男の子がいるよ」と言った。
「あ、やっと出てきた」
 母のような歳の人間から見ればまだ男の子の赤也は、五年も顔を合わせていなかった私からすればひと息に大人になったように感じられた。
「寒くなかった?」
「全然スよ」
 パーカーのポケットに手を突っ込んだ赤也の頬は赤い。寒いんじゃん、と思いながら隣を並んで歩いた。私も慌てていたので殆ど寝巻きに近いようなスウェットのままで、首筋は冷えるけど、手の届く距離に赤也がいる緊張はそういった感覚を麻痺させた。
「うちの場所……というか、私のこと覚えてたんだ」
「なーに言ってんスか。普通に仲良かったでしょ、俺ら」
 普通に仲が良かったと思っていても良かったのか。高校に通っていた三年間のうちのたった半年程度、赤也と同じ生物室を掃除していたあの日々を、私は片時も忘れたことがない。
「赤也はバカだから忘れたと思ってた」
 怒らせたくて言ったのに隣の男は「ひでえ」と笑っただけだった。その横顔が大人びて見える。なんとなしに寂しい。
 赤也は私の憧れの人だった。歳下で、バカみたいなことばかり言って騒いで、箒の扱いもモップの絞り方も大雑把だけど、気がつけば人の視線を集める……自分の人生を主役として乗りこなすことが出来る男の子。あの頃の私はどんなに遠くにいても赤也の声を聞き分けることが出来た。
 ――初めて口を利いたのは二年の秋。
 学年を隔てた赤也の、響きすぎる声を私は厭うていた。スポーツマンに対する身勝手なコンプレックスも過分にあった。赤也は私をまともに認識していなかったと思う。
 すかした窓から吹き込む風が金木犀の匂いを運んだ。赤也は珍しくやる気をだしていて、きつく絞った雑巾を握り冷たいガラスを拭きあげていた。私はその付近で床拭きを。
 赤也はどこにいても目を惹いてしまう。背伸びをして窓を拭いている姿にグラウンドにいた丸井が気づいた。サボんなよとか、似合わねえぞとか、そんな類の言葉をかけられたのだろう。
「言われなくても分かってますってぇ」
 赤也が大きく腕を振った拍子に、握り込んでいた雑巾がその手を離れた。汚い水を含んだそれは、次の瞬間には私の背にべしゃん。部屋の空気が凍る。私は何も言えなかった。雑巾を床に放って俯いていた。冷たくて、みっともなくて、そのまま自分の教室に戻った。
 カーディガンで背を覆って午後の授業をやり過ごした。濡れた制服が張り付く不快感は、そのまま自分が持つ情けなさに通じていて、シャーペンを持つ手に力が入るあまりに何度も芯を折る。ぽきぽき。窓を拭きながらはしゃぐ赤也の声の残響がその音に重なった。
 放課後に、赤也は私を門の前で待ち伏せていた。部活は、と訊くと「何部か知ってんスか」と質問で返してくる。
「テニス部、強いんでしょ」
 赤也は否定しなかった。やっぱ轟いてんな、と得意げに笑って、購買で手に入れたであろうパックのピーチティーを寄越してくる。「これ昼の分」
 すみませんでした、下がる頭。黒い髪が目前に迫って、思わず手を伸ばしそうになる。
「言っておきますけど、わざとじゃないっスよ」
「疑ってないよ」
「ならいいけど」
 だらだらと語尾を伸ばす喋り方は鬱陶しいのに耳に残る。帰るタイミングを見失って、手の内にあるパックを弄っていると「それ、レアっスよ」と指された。
「普通のだと思うけど」
 限定のパッケージにも見えなかった。
「俺、人に奢られることはあっても奢ることは滅多にないんで」
 赤也は、自分を真ん中に据えるのが得意だった。それが当時の私には眩く見えた。
 家に帰って冷蔵庫にしまいこんだレアなピーチティーはあっさり妹に飲まれてしまったけど、あの日の赤也の記憶はいつまでも胸に甘い。

 気がつけば赤也の一人暮らしの部屋に連れ込まれていた。
「お茶、コーヒー?」
 簡素な質問に、ろくに唇を動かさずに答える。この歳までにそれなりの経験は積んでいても、数年越しで片思いしている相手の下心を汲み取るのは難しい。
 意識していると思われるのも癪で、澄ました顔でいる私に赤也がお茶請けとして出してきたのは塊の黒糖だった。堪えきれずに噴き出してしまう。
「結構うまいよ。アンタ知らないの?」
「美味しいのは知ってる。赤也っぽくないから笑っただけ」
「俺っぽいとかぽくないとかよく分かんねえけど、それは元カノの沖縄土産」
 どっかの離島のだからイけますよ、という声が耳を通り過ぎていく。一人暮らしの部屋を持つ大学生のカップルはすぐに夫婦の真似事をする。この部屋に長く居座っていたであろう赤也の元カノ。その人の残した黒い砂糖の塊が舌の上に溶け残って、胸を悪くする。赤也は青春の残り火だから、大人になった形を見せつけられるのが怖い。
「カラテアだ」
 黙っているのも気詰まりで部屋の片隅にある観葉植物を指した。絵に描いたような模様の走る葉は、夜になると天井に向かって立ち上がり葉裏を見せる。
「ああいうの育てるの得意?」
「得意じゃないけど、親が好きだからそれなりに。赤也は好きなの?」
「好きそうに見えます?」と逆に訊かれた。全然見えない、と返すと白い歯がこぼれる。
「別に嫌いじゃねえけど、あれは元カノが置いてったの」
 涼しくなるまでは毎日霧吹きで葉水をやっていたと言うので驚いた。赤也が自分以外の生き物の世話をするなんて。
「……だから、預かってもらえません?」
「えっ」
 勝手に作り上げていた赤也像を打ち砕かれて一人傷ついている間に話が進んでいた。赤也は明日からひと月家を留守にするのだという。海外遠征だと聞いて初めて、まだテニスを続けていたのだと知った。
「実家に持っていっても良かったんですけど、アンタの家が近かったの思い出して」
「ずっと会ってなかったのに」
 スウェットの裾を爪と指の間にねじ込む。子供の頃からの癖、これをしないと喉が乾く。
「昔からきっちりしてたじゃないスか。字もすげえキレーだったし」
「あー……うん、まあそれなりに」
 私の字は汚い。ピーチティーのお返しに買ったミニタオルに添えた手紙は、妹が書いたものだった。それ以降に何度かくれてやったささやかな差し入れに添えたメッセージカードも。
 妹は情けない姉をなじることもなく「もしもその子と付き合えたらこういう嘘も笑い話になるね」と笑いながら、カードの端に花の絵を添えていた。赤也は思いがけず喜んで「俺、アンタにもらったカード全部とってるんですよ」と……つまり姑息なのは私だけだった。
 雑巾をぶつけられた日以降、笑顔を向けてくれるようになった赤也の前で、私はいつも背伸びをしていた。今だってだらしのないままなのに。
 赤也は、赤也のままで戦えるから、自分を実際の能力以上に見せるためにつまらない嘘をつく人間がこの世にいることを知らない。この先も知ってほしくない。
 その場から立ち上がって、カラテアの葉を撫でる。
「預かるのはいいけど、情が湧いて返したくなくなっちゃうかも」
「それならそれでいいっスよ。会いに行く口実になるし」
 ワンルームの部屋の壁が迫ってくる錯覚に襲われた。乾いた笑い声を漏らして鉢を抱え、よろよろと玄関に向かう。大人になった赤也は「送りますよ」と当然のように申し出る。それを断って鉢を抱える腕に力を込めた。後ろ背にはドア、唇が触れ合う。

 ひと月が過ぎても、私は赤也にカラテアを返せなかった。窓際の特等席に寂しく佇むその子に、赤也の部屋から連れ出された日の面影はない。
 珍しくやる気を出して、葉の枚数まで数えて世話をしていたのに枯らしてしまった。水をやりすぎたのだ。プラスチックのように光沢のある質感、濃い緑と黄緑のコントラストの美しかった葉は、我が家にきて二週間が過ぎた頃には薄茶けて変色し、水気を失っていた。どうしても諦めがつかなくて、未練がましく葉水を吹きかけ続けたけど、次の週もその次の週も萎びた葉が色を取り戻すことはなかった。
 遠征先のメルボルンから赤也は何度もメッセージをくれた。南半球の青い海、仲間のカメラが捉えた後ろ背は大きい。初めの内は葉の写真と共に返事をしていたけど、枯らしてしまってからは知らんぷりを続けている。素直に謝ればいいのに、こんな私にきっちりしてたという評価を下したあの瞬間の目を思うともう駄目だった。
『回収しに行くついでに飯でもどうスか』
 帰国前最後のメッセージには既読すらつけられずにいる。

 植物としての死を迎えて以降も、一応は鉢の上に直立していたカラテアが腐葉土と一体化した頃、冬の始まり。外から自分の名前を呼ぶ声に微睡みから引き戻された。掃除をさぼっているせいで曇りきった窓越しに、その声は鮮やかに響く。今度はベランダに出て確認するまでもない。
 寂しすぎる鉢を胸に抱いて門の外に出ると、赤也は「げえ」と顔をしかめた。
「跡形もないっスね」
「ごめん」
 雑巾の日の赤也よりも鋭い角度で頭を下げる。悔しくて唇を噛んだら「別にいいっスよ。俺が買ったもんでもねえし」なんてあっさりと。
 酷く罪に思っていたのに。怒りと、落胆と、何か得体の知れない感覚が胸に迫った。
「そんなのってないよ」
 吐き出した声が震えている。殆ど泣きそうになっていた――大人の女が。
「可哀想だとは思いますけど」
 語尾の伸びた声が耳に届いて、ようやく顔を上げることが出来た。私の目が潤んでいるのに気づいた赤也は気まずげに頭を傾けた。
「今は腹減ってて、肉でも食いにいきません?」
 奢るんで、と赤也は言った。きっと今だって人に奢られる方が得意だろうに。肩から力が抜ける。怒りと落胆が解けて、得体の知れないものの正体に気がついた。
 私も腹が減っていたのだ。
「それはレアだね」
「ステーキがいいんスか」
 俺はミディアムレア、と何故だか得意げに吐き出した唇が可愛かった。街灯に照らされた頬の産毛が、子供のそれのように眩い。



[back book next]

×
- ナノ -