小説 | ナノ

もうひとりの君
06
その日、桑原は午後9時に仕事を終え、
勤め先である進学塾を後にした。

自分でも意外なほど子供相手の塾講師という仕事は向いていた。
生徒たちは懐いていて可愛らしい。
当然講師の顔を演じている部分はあるものの、
それは全くの嘘でもなければ義務感からでもない。
それなりに楽しんで演じているのだ。

夜の空気は湿り気を帯びてひんやりと肌に冷たく、
秋の訪れを感じさせた。
桑原は首をすくめて歩き出す。
現状に不満はないのに、なぜだか虚しさを覚えるのは季節のせいだろうか。

そのまま部屋へ帰る気にはなれず、
かといってナンパして女を持ち帰る気力も出ず、
最寄駅を素通りして辿り着いたのは室谷と島木が働く牛丼店だった。


ガラス張りの店内を覗くが、カウンターの中には二人の姿はない。
客席に見知った顔もない。
小腹を満たすために寄ったはずだったが食欲もなくなり、
茫然と立ち尽くしていた。

こんなにも無気力になることは珍しかった。
仕事はそつなくこなすし、それなりの収入も得ている。
傍目からはわりと堅実な男に見えるだろう。
だけど桑原は、それ以外の部分では本能的に生きてきた。
だが今、その本能が停止してしまったように感じる。

店の前で立ち尽くした桑原に気づいた店員が、
ガラス越しにいぶかしげな視線をよこす。
小さく溜息をついて踵を返すと、
ほんの1メートルほど背後で名前がこちらを見上げていた。

「やっぱり桑原やったん。何してんの?」

口調はそっけないものの、口元には笑みが浮かんでいた。
その笑顔を見た瞬間、桑原の中で
静止していたものが一気に動き出した。
ほとんど衝動的に名前に抱きついていた。

「アホ!何すんねんいきなり」

パシッと頭をはたかれる。
ぶたれた部分をさすりながら、桑原は渋々体を離した。

「いってー……冷たいなあ、こないだは仲良く手繋いでたやろ」

「あ、あの時はあの時!今日はまた別!
 それより何してんの?中入らへんの?
 ノブやんに会いに来たんちゃうの?」

微かに赤く染まった頬をごまかすように、
名前は背伸びして店内を覗き込んだ。

「今日はおらへんみたいやねん」

「えー、なんだ、休みなん?せっかく来たのに」

桑原は少しムッとする。
自分にバッタリと会ったことを喜ぶよりも、
室谷に会えなかったことを残念そうにしているのが
おもしろくなかった。

「ノブやんに会ってどないするつもりやねん。
 彼女から奪う気か?オマエじゃあの彼女に喧嘩で勝たれへんで」

つい悪態をつく。

「そんなんちゃうわ。この間のお礼言いに来ただけ」

よく見ると室谷に渡すつもりだったのか、
小さな紙袋を左手に提げていた。

「ノブやんにだけか?俺には?」

半ば冗談で、半ば本気で桑原が聞くと、
名前は口を尖らせてうつむいた。
そして小さな声で呟いた。

「もちろん、桑原には誰より感謝してるけど……
 でもいつ会えるかとかわからへんかったし……
 塾の前で待ち伏せしようかとも思ったけど恥ずかしくって……
 それに桑原に何贈ろうって考えたけど
 結局いくら考えても本当にあげたいものと違う気がして…」

一気に捲し立てて、ふっと溜息をつく。

「何言うてんのやろな、私」

そう言った名前の肩を、桑原は威勢良く叩く。

「礼とか言うんなら、今から飲みに付き合えよ」

名前はキョトンとして桑原を見上げた。

「物とかいらへんから、おまえの時間を少しくれ」

顔いっぱいに笑みを広げて、名前は頷いた。




(あとがき)展開遅くてすみません。
まだもう少し引っ張ります。



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