小説 | ナノ

不死川さんが、椿油と印字されたラベルの張り付けてある瓶を投げ寄越してきた。

「……ギシギシする、つってただろォ」

つっけんどんに言葉を残して、また私に与えた部屋から出て行った。
全くの無関心で居るものだと思っていたから、その心遣いが私にはとても尊いものに思えてならない。
無意識ににやける頬を抑えながら、もう扉も閉まってしまい、姿も見えない不死川さんに向かって、大きな声で

「ありがとう!!」

と声を飛ばした。
返事は帰ってくることは勿論ないけれど、それでも十分だった。
大体、2時間置き位にやってきてくれる隠の女性は私の事を大層気味悪がって、必要以上に関わることは無い。
生理中の対処法も、丸めた紙をぽいと渡され、「詰めて。定期的に変えます」と一言。
それ以降は定期的にトイレの時間をくれる。
まだまだそのやり方に慣れていないからか、血がたくさん着いてしまった手を洗いたいと言うと、大きなため息がふってくる。
彼女との時間は私にとって苦痛以外の何物でもなく、彼女もそうであることがそうした節々からヒシヒシと伝わってきていた。
いかに先日までの自分が恵まれていて、斎藤君に救われていたのか。
それを実感してしまった今は、斎藤君に帰ってきてほしくて仕方がない。
ただそれも、自分の起こした行動で今の結果が有るのだから、言うことなどできないのだけれど。


そうこうして、また3週間近く経った頃。
夏がきたことを告げるような暑い日だった。
汗が体を湿らせる程の暑さの日。
夕方、外、つまり、縁側の方から声を掛けられて、その覚えのある声に、私は胸が高鳴った。

「名字さん、僕です。斎藤。」
「わ、斎藤君!!久しぶりだね!」

障子越しに聞いた声は、久しぶりだというのにどこか元気が無いようで、

「どうかしたの?」
「……名字さん、風柱様は、今日も戻りません。」
「あ、そう、なんだね」
「あの、僕と、……」

そこまで声に出してから、彼は障子戸を開け放ち、私を見据えた。
久しぶりに見た彼は、以前よりも少しやつれたかもしれない。

「……元気ないね、どうしたの?」
「ああ、ごめんなさい。僕はあなたから逃げてしまった。貴女が大切になれば成るほど、貴女の傍に居るのが怖かった。
わがままな僕を、許してください。
今日、僕は貴女をここから、連れ出したい。一緒に、逃げましょう。僕と」

真剣さを物語るように、彼の目からは、ぽろぽろと、綺麗な涙が零れている。
とっても幻想的。綺麗だった。
彼は、ずっと私に優しかった。最初から。
初めて会った日は、粗相の片付けも文句ひとつ零さず、ご飯だって、私が魘された次の日は絶対に一緒に食べてくれていた。
夜に魘されていた時には、どこからともなくやってきて、ぎゅうと手を握って、ずっとそこにいてくれて。
彼の優しさは、確かに私を救ってくれていた。
本当なら、彼の手を取りたい。
今ここで彼の手を取れば、彼はきっと連れ出してくれる。
彼は、私に、優しくしてくれる。
でも、彼は?
そうしたら、斎藤君はどうなるの?
不死川さんは、どうなるの?
今の私の面倒を見てくれている、隠の彼女は、どうなる?
お館様と呼ばれていた彼の口から出た
「君には申し訳ないけれど、自由を与えてあげられない。ごめんね」
という言葉が、頭の中を反芻する。

「今から出れば、列車に乗れます。それから、出来るだけ遠くに逃げて、誰にも見つからないところで、二人で暮らしましょう」

ぼろぼろ、彼の瞳から、涙がしとどにあふれている。
私の目の前すらも、かすむ。
移った。多分、それだけ。それだけだ。

「そうしたら、貴女の、……名前さんの事を、誰も化け物扱いしない、誰も貴女を知らないところで、新しく始められる。全部」

私の両の手から、彼によって手枷が外される。
彼の背中側から入ってきた風が、生ぬるい。
じとりと汗ばんだ私の体を優しく撫でていく。

「僕と、逃げましょう。」

足から、枷が外される。
後は、私次第だ。とでも言うかのように、差し出された斎藤君の手。
取りたくて仕方がない。
その手を掴んでしまいたい。今すぐ叫んで、逃げ出したい。
でも、そうしたら、そうしたら、私に今関わっている人たちみんなが困ることは頭の良くない私にもありありとわかるのだ。

「……行けない。……行けないよ、斎藤君。」
「一緒に、逃げてください。……この手を、取って。お願いだ!!」

多分、これを断ったら、彼はもう私に関わることは無くなるのだろう。
今後一生。
それはわかる。悲しいけれど。
どこまでも私は勝手だ。
貴方の気持ちは受け取れない。貴方の今後を背負う覚悟が全然、できないから。こんなにも真剣に私の事を助けようと思ってくれているのに、それはわかる。だからこそ、私はその手を取れない。

「ありがとう。本当に、嬉しかった。友達でいてくれて、ありがとう。……元気でね。」

そう、笑って言った。
斎藤君を部屋から押し出して、障子戸を閉めた。
静かになった部屋に、自分の息遣いだけが響いている。
障子戸の向こうに、ずっと、斎藤君の影が見えている。

(早く。早く向こうに行って。)

声を漏らさないように食いしばった唇が、ブツッと食い込んだ。
痛い。
痛い。
喉が痛いのは、胸が痛いのは、そんなものでは誤魔化すことは全然できなくて、彼の影が消えてからやっと漏らすことのできた嗚咽は自分が思っていたよりもずっとずっと大きなもので。
まるで何かの唸り声のようにすら聞こえていた。

スっと、斎藤君が出て行ったのと反対の襖が開いて、私はあわてて息を止めた。

「……錠が、手枷が外れていますね」
「……」

そう言って、新しくやってきた隠の女性は私に枷をはめなおしていく。

「……行けば、良かったんじゃないですか。」
「!!……何のことか、わかりません。」

彼女の声に、バッと顔を上げてしまう。
眉をハの字に下げて、目を弓のようにしならせたその人は、また口を開く。

「こんなところで一生を終えたいんですか。良いじゃないですか、逃げてしまっても。あなた、悪い人でもないのにね。」
「……っ、ぅ、」

ぎゅう、と彼女は私を抱きしめて背中をさすり始めた。
もう、私は涙をこらえる事などこれっぽちも出来なくて、わんわん声をあげてぼろぼろ泣いた。

「ああ、もう。斎藤の二の舞なんてなりたくないのに!!貴女ずうっと、私に嫌がらせみたいなことされてるのにバッカみたいに『ありがとう、ありがとう』って、本当に!
嫌味の一つでも言ってくれたら同情なんてしないのに!!」
「この事、し、不死川さんには、言わないでぇ、お願い、」
「また、斎藤まで庇おうとして!」

隠のその人は、私の顔をぐい、と持ち上げて目をすぼめて宣う。

「報告は仕事です。しなくてはいけません!だから、ここまでされても、貴女が逃げないことも、ちゃんと伝えます。良いですね!」
「……斎藤君、お咎めあるかなぁ、それは、嫌、だなぁ……ごめんなさい。友達なの。友達、なの!」

はぁ、と彼女は一際大きなため息を落として少しばかり潤んだ目で私を見る。

「わかりません。でもそれは彼も承知の上でしょう。名前さん、彼の事は、出来る範囲で答えますから。」

私がコクコクと頷くのを確認して、朗らかな声で言った。

「お話し、してみたかったの。あなたの事教えて。一緒にご飯食べましょう。」
「……」
「私も、いつかは斎藤と同じことをしてしまうのかもしれないわね。あぁ、もうやんなっちゃう!今日は斎藤がよく作ってたっていう煮物よ!」

どこかで怒ったふりをしながら部屋を出た彼女は、お盆に二人分の食事を持ってやってくる。

「ほんと、厄介な人!」
「……ありがとう。」
「どういたしまして!」

笑った彼女は、そこで初めて口を隠していた布を取って、自らを『嗣永 秋つぐなが あき』と名乗った。


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