小説 | ナノ


煉獄杏寿郎
その人は、酷く困惑していた。

父に面倒を見てやってくれと言われた少女は、
先程から貪欲に、杏寿郎の部屋の書物を読めとせがみ
既に読んだ本は山となっていた。

自分は母上に挨拶もしたい。
小芭内と今日は話せていない。
弟もかまえていない。
鍛練も、……
だけれど、彼女を無下にするわけにもいかない。

彼は少し困っていた。

「あ、ええとだな、また」

後にしないか

その言葉は口から出ることは無かった。

名字名前 その少女は人の機微に聡かった。

杏寿郎を困らせた。
そう解ると、三つ指をつき、頭を下げて
ごめんなさい
と口から溢す。

いつもなら折檻が待っているのだが、
彼はどうも焦っているようだ。
用事が有るのだろうか。
ならば、折檻は夜だろうか。
それとも食事を頂けない方だろうか。

ぼぅ、と彼女が考えている間中、
杏寿郎は頭を上げろと言い続けたが、
彼女は頑として上げない。

困り果てた杏寿郎は、
また続きを読み始め、チラチラと名前をうかがい見るが、
バッと立ち上がった彼女は、頭をペコ!と下げて部屋を出ていった。

時間だったのだ。
昼餉の支度の時間である。
昼と夕餉は実家に居た際に、彼女の仕事であった。

こと、煉獄家に置いては瑠火が動けない今は女中が行って居るのだが、
名前はそれも理解していない。

自分の仕事だから、と女中に、飯の仕度も断られ、掃除も終わったと突っぱねられる。

困り果てた名前は、罰してください、
と言わんばかりに、おずおずと女中に両腕を差し出した。

傷だらけの両腕を、女中、もといヤエさんは優しく包んで、さすって、
可愛い手だ、と困ったように笑った。


しょんもりと、庭に出た名前は、木から枝を手折って、兄らのように着物の上を腹まで落として、いつか見たように奮う。

ビュッ、ビュッ、

と風を切る音が響き始め、
煉獄槇寿郎
その人は体を起こした。
いつからか、不調で寝込んでいる瑠火の様子を見に行き、
音がする庭へと目をやる。

杏寿郎かと思っていたが、
予想外の人物に目を向いた。


幼さを感じさせない、流れるような剣さばきに、
ほぅ、と笑みが溢れたのは、剣士の性と言えるのかも知れない。
それから、ゾッとした。

服を、脱いでいる!!!

槇寿郎は慌てて庭へ出て、着物を正し、
着崩さないように言いつける。
そうして、暇を持て余している名前へそのまま稽古をつけた。
キラキラとした顔で、コクコクと頷きながら棒切れを奮う。

杏寿郎までもがトテトテとやって来て、
三人並んで、稽古をする。

瑠火や、ヤエは、いつからかその光景を、眩しそうに眺めていた。

この日々が、続けば良いのに、と。
思っていたのは誰なのか。

あるときは、小芭内と三人で。
棒切れを震い始めた名前は、いつかと同じように着物を崩し、発見した杏寿郎にしかられる。
「よ、よもや!!名前!!!き、着物が!!」

あるときは、槇寿郎も交ざって四人で。
着崩れている名前の姿を発見した小芭内が、あわてふためき槇寿郎に助けを請うたことで、始まった。


棒切れを奮うのが、こんなにも楽しい時間だと、知らなかった名前は、この時が、大層気に入って居た。

小芭内と、杏寿郎に言葉を教わり、千寿郎へと教わった言葉を伝える。

今日あったことを、杏寿郎と一緒に瑠火さんへとお話しして、
小芭内と庭を眺める。

時たま兄や父がしていたように、着物を崩して棒切れを震い、何事かを叱られて、よく分からないままに皆と剣術をする。

まるで、天国にでもいるような。
まぁ、名前は天国なんて言葉も知らないのだけれど。




幸せは、簡単に壊れてしまう。
それは、とてもとても
簡単に。


名前は、初めてそれを知った。




いつの間にか、一緒に鍛練をしてくれなくなった槇寿郎。
今日こそは、と部屋にやってきた名前はにこやかに詰め寄った。

「槇、寿郎、さん。名前、出きるようになった」

槇寿郎には恐らく、昨日教えた型の事であろう事は理解できた。
けれど、名前?
と、少し怪訝な顔をした槇寿郎に、名前はにこやかに言った。


「槇、寿郎、」

小さなゆびが、槇寿郎へ向く。

「名前!」

そのまま自分に指を向けて、それはそれは、嬉しそうに笑う。

彼女は、産まれながらに疎まれていた訳ではないのか、と。
名前を送られる程度には、きちんと愛されて居たのか、と。
嬉しくなった槇寿郎は、どんな字を書くのか問うた。

『名前』

まさか。
と。

彼女に出会ったあの山は、
鬼に、捧げ物をして、
生きていた一族の、
小芭内と同じような一族のものだった。

図らずしも、槇寿郎は、
同じ境遇の二人を、引き取って居たのだった。



そう、
何度も同じことが有るものか、と。

思いたかった。

人間とは、なぜこんなにも、醜いのか。

貧弱で
脆弱で
薄弱で
羸弱。

彼女は、産声を上げてから、もしくは、生まれるその前から、鬼の生け贄だった。




「槇寿、郎さん!名前、あれ、びゅーんってやつ、できた!」

見て!
と笑う少女に、
槇寿郎は苛立ちをぶつけてしまった。
何故笑っていられる。
そんな名前をつけられて。
そんな扱いを受けて。
何がそんなに奮い立たせる。
そんなに手も足もぼろぼろにして。
自分はこんなにも弱いことを知ったのに。

男は、力のない自分を嘆き、
苦しんでいた。
少女は、男と、その子供達と同じになれることが嬉しかった。

「ねぇ、槇寿郎、さん!」

「うるさい!出ていけ!」

文卓の湯飲みが転がった。


ぴく、と肩を上げた少女、もとい名前は、
三つ指をつき、
ありがとうございました。
と、溢して部屋を出ていった。

名前はよく知っていた。
拒絶の言葉を。
嫌悪の顔を。

嫌われたのかもしれない。
いや、そうなのだろう。

と、名前は考える。

嫌われたからには、出ていかねばならないのだ。
何故なら、父がかつて言っていたのだ。
お前は俺の温情で此処に居られる。
俺の一声でお前は消えなくてはならない。
その一声があれだったのだ。
その消えなくてはならないのが、今なのだ。

仕方がない。

と、これでこれ以上嫌われる事もない。
これで怖いことはなくなる。
とどこか少し晴れやかな気持ちになるのは事実だ。

瑠火さんに挨拶をする。
ずっと臥せっているから、心配していたのだ。

「瑠、火、さん。いつも、ありがと。」

ニッコリと、笑うと、
こちらこそ、あなたが来てから
杏寿郎が良く笑うようになった。


暖かいキレイな腕で、少女の腕を撫でるのだ。

名前は、このやり取りが苦手だった。
汚い自分の腕で、汚してしまいそうで。

一度、そう言うと、しかられたので、もう言わないけれど。
考えない訳ではないのだ。

トテトテと、また部屋を移る。

「小芭、内。」

声をかけて、部屋に入り、
何時ものように縁側で過ごす。
これが最後か、と。
少し哀しくなった。

彼女は初めて、
悲しいを知った。

「もういく。」

小芭内は、二人並んで静かに外を眺めるこの時間が、好きだった。
彼女は、何も、遠慮をしないから、こちらもしなくて良いのだと思える。
言葉も何も知らない少女に、どこか自分と似た『同じ』を感じて。
明るい太陽のような煉獄の家の中で、
羽を休めることの出来る木陰であった。

部屋を出た彼女が、
もうこの部屋に訪れる事がないのを、彼は知らない。



名前は、杏寿郎には挨拶をしなかった。
もう、耐えられそうに無かったのだ。

持ってきていた風呂敷に、
持ってきたときよりも更に擦りきれて、歯抜けになった幼年の友を包み、杏寿郎に貰った、新しい幼年の友を包む。
厨から、少しだけの生米を引っ付かんで、食む。
これが、ここでの最後の食事だと、
もう一口だけ、食む。

山で食べた時よりも、美味しい気がした。

ごしごしと、目元を擦る。
手が汚れたから、もうご飯は触ってはいけないな、と。

手のひらを見る。

杏寿郎と、小芭内と同じ。
槇寿郎と、同じ。
そこにはたくさんの肉刺。
これは、名前にとって、皆との思い出であった。


パタパタと、厨を後にして、
幾分か小さくなったように感じるつっかけに足を乗せて、
敷居を、ゆっくり、
それはゆっくりと跨いだ。

門の前で、何度も、何度も
頭を下げた。
三つ指をついて、地面に、ずりずりと頭を擦った。



名前は、ここに来てから初めて涙を溢した。
否、産まれてすぐに泣いて以降、初めてと言っても言いかもしれない。
それは言いすぎだとしても、それくらい、彼女は泣かなかった。
けれど、その両目からは滝のように涙がこぼれている。
道行く人は、ギョッとして、
彼女を避けて通った。

少女は人間が苦手だった。

行き先は、山。
人のなるだけ居ないところ。


ズビズビと鼻を鳴らしながら歩き続けた。

「じん、じゅろ、ざぁん。ごめんなぁざぁぁい。」

聞く人は居ないけれど。
少女は何度も何度も謝った。

いい加減に泣きつかれ、
山の麓に着いた名前は、いそいそと手近な木に登る。

日が沈むのを見て、目を閉じた。

日が開けると、見知らぬ家に居た。

グツグツと、なにかが煮える音がしていて、
ノシノシと、厨を歩く音。


ちらり、と
覗くと、髭を蓄えた大きな人。

名前は、少しだけ肩を落とした。
どこかで、槇寿郎かもしれない、と
期待していたから。

ズビズビと鳴り始めた音に、髭は振り向いた。

「起きたか。」

男は東雲(シノノメ)と名乗った。



そこが彼女の第3の家となったのだった。




煉獄槇寿郎
その人は、自分の一言で少女が家を出て去っていった事を悟った。
杏寿郎が、夜になってもどこにも名前がいないのだ、と泣きついてきたことが発端だった。

自分が見ていろと言われたのに、と酷く落ち込んで居た。

自分のせいなのだ、と笑って言い聞かせ、瑠火と小芭内と千寿郎を頼んだ、と。
言付けたのは一刻前。
既に暗くなった通りに人はまばらで、
少女の特徴を告げながら、探した。
任務の間を縫って、
幾日も探した。
時間を見つけては探した。
けれどついぞ、彼女を見つけることは出来なかった。

毎日「居なかった」
と伝えたときの
杏寿郎や、瑠火の落胆の顔を見るのが、彼は少しだけ怖かった。

そうして、家に帰った際に
杏寿郎の叫ぶ声を聞いた。

「ははうぇぇえ!!」












名前という少女は何も知らない。
息を止めた瑠火の姿も
泣き崩れた杏寿郎の姿も
小さく震えた小芭内も
兄にひしとすがる千寿郎も
臆病になった槇寿郎の姿も
何も知ることはない。




「斧の呼吸 壱の型___」

その体躯に似合わない大きなマサカリ、斧の形をしたそれを、振りかぶる。
ザァ、と砂埃が立つ。

ドッ

音と共に振り落とされたそれは、鬼の首をぼとり、
と落とした。

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