真っ黒があった。
なにもあたり一面が真っ黒、というわけではない。
私の足もとには色とりどりの花々が咲き誇り、少し向こう側にはそれはそれは、大きな川が渡っている。
真っ青な空には雲はない。
時折風がそよぎ、髪を連れて行く。
新緑の香りが胸いっぱいに広がり、今にも新たな命が芽吹かんとしてすらいるようだ。
あまりにも青々としていた。
清々しいまでに澄んでいた。
けれど、場違いにも感じるほどの真っ黒が、ただその空間にだけぽっかりと穴のように開いているのだ。
はじめは年老いた自分の目のせいだと思ったのだ。もうじきに九〇歳を迎える私の目は、とうに見たいものすらまともに見せてくれない有様だ。
もしかすると、目の具合が悪いのかも知れない。
けれど、その穴は確かに存在するようなのだ。
私は暫くその穴を見つめた。
花畑の奥。ずっと向こうから微かにきゃあきゃあとはしゃぐ声が響いていた。
そちらもずっと気になってはいる。だというのに、どうにもその穴の前から私は動く気にもなれない。
恐らく、ここから離れてはいけない。
何故かそう、強く思い込んでいた。
壁に染み付いた醤油の染みと同じ程に、胸に支えるのだ。
どうにかして取りたいと意地になるのと同じに、私はその穴へと意識を向けていた。
気がつけば、しわくちゃになった手でその穴の周りを私は何度もなぞっていた。
指先にはなんの突っかかりも感じない、ただ滑らかな円だ。
それを私は、くるくるとなぞっていた。
後ろを振り返る。
別に意味はないけれど、なぜだかあまり人に見られては行けない気がしたからだ。
どうにもこの穴へと意識を向けていることを、誰かに知られてはいけない気がしていたのだ。
けれど、この穴が気になって仕方がない。
重たい体を引きずるように一歩、穴の方へと私は身を寄せた。
穴からは物音一つとして聞こえないのだけれど、それでもやはり、ここには何かがあるような気がした。
そこで、私は中を覗くことにした。
いささか不躾な事ではあると、どこでかそう思ったのだけれど、どうしても気になって仕方がなかったのだ。
そうして大きく開いた穴の中を覗けば、見知った羽織があった。
真白な羽織だ。
物騒な文字の刻まれた、真白な羽織だ。
私は、何度もあれを干した。土が着いたあの羽織は、泥が酷く取れにくく、洗濯板に強く強く擦りつけたものだ。
いつかの背中が、羽織っていたものだ。
「…………さねみさん」
くしゃくしゃに嗄れた声が喉の奥から漏れていた。
すっかりと聞き慣れた、自分の声である。
羽織物は下から伸びてきたなにかに引っ張られ、そのうち落ちた。
よく見れば、葉もつかない枯れた木の枝に引っかかっていたらしい。
穴の奥は、真黒だと思っていたが、そうではなかった。
月もない闇夜であった。
真黒の空の下、そこかしこで火が燃え盛っている。
「さねみさん……」
その中、火に爛れた腕が白い羽織の袖を通っていく。
きっとその、爛れた腕の持ち主が羽織を引っ張った張本人だろう。
つまり、そういうことだ。
つまりは、彼だ。
私はまた彼の名前を口にした。
彼はただ、静かにそこに佇んでいる。
「さねみさん……!」
堪らず、私はもう一度名前を呼んでいた。
真っ黒の中、ゆっくりと振り返る真白な後ろ姿が、とうとう私を見た。
私の方へと向いていた。
「あぁ……ッ!!」
情けない声にもならない声が、喉元から漏れ出した。
「おい……ッ! 危ねぇッ!」
「……っ、ぅ、……ぅ、」
人一人が屈んでやっと入れるか、というほどの穴へと、私は体をねじ込んでいた。
何を考えることもなかった。
ただ、実弥さんに会いたかった。触れたかった。お側に在りたかった。
ただ、それだけだった。
「おいィ! 危ねぇだろォが! 婆さん!!
元いた場所に戻っちまえェ、こんなとこに来ちゃァいけねぇ……!!」
実弥さんは穴から転がり落ちてくる私を抱き止め「どうすりゃァ戻してやれんだァ」と、腕を擦りながら宥めすかしてくださる。
その少しばかり険しい人相の悪い表情がどうにも懐かしく、鼻の奥がつン、と痛む。
帰ってきた。
やっと、帰れた。
そう思った。
「……お、お会い……しとぅございました……!」
「……あァ……?」
「な、なんども……なんども、連れて行って、と……!!」
そのうちまた、辺りから火の手が上がる。
実弥さんは咄嗟であったからであろうが、私の身体を抱え、庇って下さった。
けれど火の勢いが弱まることなど有りはしない。
業と音を上げ、バチバチと焔が渦を巻くのを、私は確かに見た。
次に気が付いた頃には、目の前にこれでもか、と目を見開いた実弥さんの姿がある。
少しばかり、──若い。
出会ってすぐの頃のようにも見えた。
けれど、みるみるうちに実弥さんの身体は大きく逞しくなり、いつか私を抱え「おかえり」と言ってくださった姿と重なっていく。
「……こ、……んなとこ! 来てんじゃねぇ!! てめぇはとっとと戻りやがれェ!!」
そう怒鳴り上げる実弥さんの両方の目から、ぼろぼろと大粒の雫が滴り、私の顔中を濡らしていった。
実弥さんの頬へと手を這わせていけば、いつか感じていた傷の凹凸が指先へと触れた。
──あぁ、実弥さんだ。
きっと、私の瞼も実弥さんの落とすのと同じ程の涙を押し出した。
私のまぁるいいつの間にかシワの一つとしてなくなっている、けれど、引き攣れの痕が少しばかり残る右の手に、実弥さんの左の手が重なった。
涙が二人の指の隙間に染みていく。
「あ、……会いたかったのぉ……! ど、どうしても!!
わた……私! 実弥さんと、一緒が良いですよぅ……!!」
「だからっ、て……! なに、やってんだァ! てめぇ、……戻れなかったら……!」
「ここがいい! わ、私、こ、ここで! ……ここが!
ここ、が……良いんですッ!!」
「馬鹿ッ!! わざわざてめぇからこんな……ッ!」
実弥さんの鼻が私のそれとぶつかって擦れた。
しっとりと涙が混じり、同じようにぶつかった額から温度が同じになっていく。
──このまま溶けてしまえばいい。
私はそんな阿呆のようなことを、きっと考えていた。
そのうち私の手にはまた、皺が刻まれていく。
しわくちゃになったあたりで、また、業と炎が燃え上がり、私と実弥さんの体中を包んでいった。
冷たいのか熱いのかもわからない程の体中の痛みに目を覚ませば、今度はまだずっと幼い、まるで少年のような実弥さんの姿がそこにはあった。
さっきと変わらず、ずっと私を間近で見てくださる、実弥さんがいた。
「なんでこんなとこに来ちまったんだァ……!!」
「わぁぁあん! あ、会いたかったからですよぉ!!」
私が知るよりもずっと、ずっと高く刺さる声が幼い実弥さんの口元から出ていく。
私のちんまりとした、実弥さんのちいさな手ですら握り隠せてしまう程の手を、実弥さんはぎゅう、と掴んだままに彼は「ちくしょう」と、絞り出した。あまりにも悲痛な掠れた音であった。
「ごめ、ご、……め、なさいぃ、ぃ! で、れも、あ、会いたくて……ぇ!!」
「だからって、……後先ちゃんと、考えて──」
「あれ、は! あれは! 実弥さんだけの罪じゃありません……!」
「……なんの話だァ」
私よりも少しばかり背の高い、けれど、まだ幼い実弥さんは鋭く息を呑んでいた。
「あの人が! ……あの人を殺したことが罪だと言うのなら! 私も! 私も同じですッ……!」
実弥さんの手が、私の手の上からそろそろと離れていってしまう。
ぶらん、と体の横へと手を落としながら、実弥さんはやはり「なんのことだ」と言う。
私の事は背負おうとするくせに、私が荷を持つことを決して良しとしない。その姿が、生前のものとあまりにも変わらないものだから、切なくて仕方がなかった。
悔しくて堪らなかった。
「わたし……! わた、私にもッ、わけてくださいよ、ぅ! ……だ、だって……私たち、夫婦じゃないですかぁ……!」
「ッ勝手な事ばっかり言ってんじゃねェ!! アイツらァ、どうすんだァッ!!」
「勝手なのはあなたですっ! もう私はお婆さんですよぅッ!
あなたより何倍も何倍も歳をとって! ずっとあの子たちを見てきました!
もう、あの子達、一人で立派にやってますよぅ……ッ!」
また燃え始めた実弥さんの袖口を、しわくちゃの私の手はぎゅう、と掴んだ。
熱い。
痛い、
冷たい。
凍る、
燃える。
また気が付いた頃には、実弥さんがそこにいた。
まろい頬が膨らんだ大きな目。それがくり、とした愛らしいお顔。それがここにあった。
私は実弥さんのものよりもまだもう少し小さな手で、実弥さんの体にしがみついた。
熱いのも、痛いのも怖い。
またきっと、来る。
辛いのは嫌いだ。
悲しいことなんて知りたくない。
熱いのは苦しい。
けれど、実弥さんが一緒なら、一緒に居られるのなら、それですらなんだって良かった。
「シ、シュウスケさんは、実弥さんのあとを継いだんですよぅ。あとを継いで、神楽を見事に舞っていました!
い、家は出てしまったけれど、今でもたまに、会いに来てくれます。
チエちゃんは、立派にお医者になりました。女だからと、たくさん苦労もしてますけれど、いっぱいいっぱいお勉強して、……立派にやってます。
うちの二人は、奔放で……エゲレスに行ったきり、便りを切らしたり、今度はアメリカからの便りに変わってたりと、忙しくやってます。
宇髄様のところの息子さんとの間にね、子供が出来たんですよぅ。それに、それにね……みんなでシュウスケさんの神楽を、みるんです。ほ、本当に、凄いんですよぅ……」
「……」
「みんな、……みんなとっても、立派にやってます……」
実弥さんの手が、そろそろと持ち上がった。
「もう、私の手なんて握らないんですよぅ……」
「そ……うかィ」
「自分たちで、守らなくちゃいけないものを、きちんと守っていける、立派な子たちになったんですよぅ……」
「……そうかィ」
「私、……だから、……実弥さん、……だからね、」
そろそろと持ち上がった手が、私の背を撫でて下さった。
「わ、私を、……わたしをひとりにしないで、ください、よぉ……っ」
「……」
「わた、し、……実弥さんと、いっしょが、いいんですよ、ぅ!!」
「あァ」
「ひとりに……ならないで、くださいよぅ!!」
「あァ」
「もう、置いてかないで、くださいよ、ぉ!!」
「あァ……」
「こんどは、一緒に……居てくださいよぅッ!」
実弥さんは「あァ」と頷くばっかりで、お顔の一つも見せてくださらなかった。
轟、と火が上がっていた。
まだ頼りのない、小さな背中を実弥さんは私へと向けていた。
「乗れぇ」
「……歩けますよぅ……?」
「乗れって言ってんだろォ」
私が乗るまで梃子でも動きません! とでも言うように背を見せたまま屈む実弥さんの背中に、私はとうとう手をついた。
刻一刻と大きくなっていく実弥さんの背中へと身体を預けると、そのうち私の手がしわくちゃになっていく。
そうしてまた、二人で火に包まれた。
「ねぇ、実弥さん」
「おゥ」
「聞いてほしいことが、いっぱいあるんですよぅ」
「ここじゃァ、時間だけは馬鹿みてぇにあるからなァ」
「うん」
「いくらでも、聞いてやらァ」
実弥さんの背中が、小刻みに揺れる。
「あのね、荒木のおじさんがね──」
「あれからすぐ、震災があってね。凄く、凄く大変だったんですけど、シュウスケさんがねすごく頑張ってくれてね──」
「あのお屋敷の周りには、もう神社しか残って無いんです。全部変わってしまって……
山は半分を削って道路が出来たんです。だから、あの川にはもう行けないんですよぅ。残念ですよねぇ──」
「クリィムソォダ。今じゃすっかり、そこいらの喫茶で飲めるようになっているんですよぅ!
やっぱりシュワッとして、……あぁ! でも、ソォダがすごく効いてて、ちょっと私にはキツかったです。それでね──」
「ね、本当に全部全部変わって行ってしまって……」
実弥さんはずっと前を向いたまま、どこへ向かっているのか、ただひた歩いておられた。
時折私の話に頷きながら、ただ、何かを待つように、歩いておられた。
「私、本当にずぅっと、ずぅっとばたばたとやっていたでしょう?
だから、きっと実弥さんの事はそのうち忘れてしまって、もうほかの事でいっぱいいっぱいになるんだと思っていたんですよぅ」
駄目だと思った事だって、沢山あった。
辛くて、泣きわめいて突っ伏してしまった事だってあった。
実弥さんが亡くなってすぐ。
震災があったとき。
娘が始めて熱を出したとき。三日も熱が下がらなかったのだ。
本当に、本当に怖かった。
シュウスケさんに、赤紙がきたとき。
空襲のとき。
集落から、人が去っていくのを、見送るしか出来なかったあのとき。
息子からの手紙が途絶えたとき。
屋敷の直ぐ側の建物が、次々に取り壊されていったとき。
けれど、その度に実弥さんは私の夢枕に立って言う。
「頑張れなァ」「諦めるんじゃねェ」「しっかり立てぇ」って。
あの真っ白な羽織に身を包んで、凛とした姿を私に見せてくださっていた。
意地が悪い、と思った。
もう、何度だって諦めさせてほしい、と泣いた。
もう嫌だ、と叫んでいた。
けれど、実弥さんのぴンと伸びた背中が、ずっとずっと私の前を歩いているような心地がしていたのだ。
ずっと、実弥さんが導いてくれている。そんな気がしていた。
「いっぱい、生きました。
私、しっかりと生きましたよ」
実弥さんはとうとう立ち止まり、私をそこへと降ろしてくださった。
真っ直ぐに伸びた背中が、いつだって私の少し前にあって、いつだって私を慰めてくれていた。
今も、私の少し前で、その精悍な背中が凛と立っていた。
「あァ」
実弥さんはそう、呟くように言って頷いた。
小さく、けれど確実に頷いた。
「私、頑張りました?」
実弥さんの手がすッ、と向こうを指さした。
足元は崖になっているらしく、そこから先へは進めそうにない。
ころころと小石が転がり落ちている音がしている。
実弥さんの指をさすその先へと視線を向ければ、仄明かりが見えた。
夜明けだ。
「……夜明け、ですか……?」
「あァ」
「ここの夜も、明けますかねぇ!」
「多分、そのうちなァ」
「それまで、……こうしてても、良いですか?」
私は実弥さんの手に、そろそろと指を絡めた。
実弥さんの右手の小指と、薬指に絡めていた手が、そのうち実弥さんにきゅう、と握り込まれていく。
私はただ、実弥さんと絡めた指をもっとぎゅ、と握り静かに彼は誰ときの空を見た。
「これからも、……こうしていても、良いですか?」
「駄目だって言っても、聞かねぇんだろォが」
実弥さんが少しばかり喉を鳴らして笑う。
「さ、流石に一緒に居たくない、とか……そういう事を言われたら、その、いくら私でも、離れますよぅ……」
「言わねぇよ」
「本当ですかぁ? でもさっきも、怒りましたよぅ!」
「もう言わねぇ」
「どうしてですか?」
「お前、どうせ聞きゃしねぇだろぉがァ」
「わ、わかりませんよぅ……?」
「だが……まァ、頑張った嫁には、褒美の一つや二つ。あっても誰も文句は言わねぇよなァ」
「だろ?」なんて実弥さんは冗談ぽく言って、私の額を何度も撫でて下さる。
それから、まだまだ遠い夜明けの薄暗がりで、私をぎゅうと抱きしめてくださった。
「いっぱい変わったって、言ったでしょう?」
「言ったなァ」
「けど、私の気持ちだけは、ずぅっとずぅっとそのままでしたよぅ」
私も、実弥さんの背中へと手を伸ばした。
「また、実弥さんと一緒にクリィムソォダを、飲みたいです」
頭半分は低い私の額へと実弥さんはご自身の額をぶつけられた。
鼻同士が触れ、すり、と擦れた。
私は思わず、足の指先をきゅッと丸めていた。
「──名前」
「はい」
「名前」
「はぁい」
「なんでもねぇ」そう言った実弥さんは少しばかり、微笑んでいる気がした。
すぐに私達は炎に包まれてしまったものだから、私はその表情の意味をきちんと測り知る事は出来なかったし、変わらずのろまだから、きっとわかることはない。
だから、実弥さんに尋ねてみたいと思った。
これから。
ここで。
実弥さんといっしょに。
彼誰時を、待つ間。
彼誰時を待つ君と
次へ
戻る
目次