小説 | ナノ

その日、教室はにわかに浮足立っていた。
なにぶん、三年生の一学期半ば。そんな時期外れに新任の先生が来られるからだ。

私達のクラスの担任であった胡蝶先生は、この土日が挟まる前の金曜日でこのキメツ学園を退職された。
おめでたであった。
大きなお腹を抱え、よいしょ、よいしょと歩く様は誰が見ても幸せそうな妊婦そのものであったし、胡蝶先生は先生なりに私達と離れることを惜しまれていた。クラスの殆どの生徒がそれをわかってもいたものだから、誰からも文句は出なかったし、ささやかながらお見送りをしたほどだ。

そんなことがあった次の月曜日だ。
特別なことでもなんでもないとは思うのだけれど、とにかく、クラスの雰囲気が浮わついているのだ。
理由としてはつまり、臨時講師が来る、ということだ。

更に詳しく言えば、臨時講師が男である。という事と、年若い独身男性である、という情報がまことしやかにどこかから齎されたからだ。

「ね、どんな人かな! 素敵な人だと良いなぁ」

そういう私も、本当はドキドキしていた。
隣の席で本を読んでいる十数年来の幼馴染である小芭内君に尋ねてみるが「興味がない」の一言でバッサリとやられてしまった。
何か不機嫌になるような事でもあったのだろうか、と顔を伺うが、左右の色違いの目は本の文字列に沿って上下するのみで、伺い知れるものなど一つとして無い。
「ちぇ」とでも言いたくなるのを抑え込み、頬杖をついて小芭内君とは反対側の窓の外へと視線をやる事にした。

晴れている。
もうじき夏が来るのだろうな、とジメジメとした雨の季節の終わりを告げるような風がひとつ、大きく吹いていた。

それと同時にチャイムが鳴り、皆が席に付き始める。けれどチャイムの音すらかき消しそうな程の勢いで教室の前の扉が開いていた。

「席につけェ」

たくさんの教師を知っているわけではないが、胡蝶先生を覚えていれば『教師らしからぬ』と形容したくなるような間延びした声に、皆が皆教室へと足を踏み入れた新しい先生へと意識を向けた。

「臨時として入った不死川だ。悪ィが、顔と名前がまだ一致してねぇ。暫く出席確認時は挙手を頼む」

はぁい、オッケー、などと言う気の抜けた返事を口々にする生徒たちをそのままに、「シナズガワ」と名乗った先生は宣言通り生徒一人ひとりの名前を確認するように読んでいった。

「相生」
「はぁい! せんせ、彼女いる?!」
「そういうのは今度なァ、浅間」
「っす! 先生、マッチョすね!なんかしてんすか!」
「てめぇら敬語は使うならちゃんと使えェ、伊黒」
「はい」
「池田」
「はーい! 先生ダンベルどれくらい持ち上がります?!」
「今度つってんだろォが、小野」

なんというか、黒板に名前を書くと言うことすらせず、名字だけを名乗ったシナズガワ先生は、目を伏せ、名前を一つ一つ確認しながら生徒の顔を見ていく。
そのたびに、長いまつ毛がばさ、と空を扇ぐ。
なんとも色っぽい先生だ。きっと女子たちが黙っちゃいない。
張った胸元が見え隠れするスーツの着方だとか、腕まくりされた腕の血管だ、とか。
きっと過去に何かあった、ということだけがわかる、顔や体の傷だとか。
本当を言えばギョッとしたけれど、シナズガワ先生は静かに生徒の名前を呼んでいく。
その様に、きっと、女子たちの餌食になるんだろう。そんなことを考えていれば、とうとう私の名前が呼ばれる番になる。

シナズガワ先生は私の顔を一瞥し、今まで名簿の上から下までをするすると下ろしていっていた指を唐突に横へとなぞっていた。
それが何を意味しているのか、何も意味なんてないのかも知れない。
きっと、自意識過剰と言うやつだ。
私は他へと意識を向けるのに躍起になった。

「名字」
「……は、い」
「名字」
「はい、ッ!」

ぼぅ、としていたら名前を呼ばれてしまった。
名前を呼ばれてしまったのだ。
シナズガワ先生に、名前を呼ばれた。
2回も、だ。
けれど、それだけだ。
たったそれだけの事だったのだ。だというのになんだか胸が張り裂けそうなほどにドキドキと高鳴り、顔がほてる。
思わず立ち上がったから椅子が倒れてしまったけれど、そんな事にも気を回せないくらいに、なんだかいっぱいいっぱいになった。

思えば、先生と初めて目があったその瞬間からだ。
体全部が心臓になったみたいだった。
指先が震えるし、足も笑っている。顔だって熱くて泣いてしまいそうだし、心臓が痛い。

「やだ名前ちゃん、緊張してますねぇ」

友達の須磨ちゃんが私を茶化してくれたことで「え、えへ」だか「あは」だかと笑って誤魔化すことが出来たけれど、「とっとと座れェ」とシナズガワ先生が呆れたように出した声に、とうとう私は飛び上がった。

「挙手で良ィ」
「あ! は、はいっ!
座ります!! ッす、座りますよぅ!!」

小芭内君が戻してくれた椅子に座り、私は両手で顔を隠した。
もう恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
頭の中で、ずっとずっと繰り返されるのだ。呆れたような声のシナズガワ先生と、そのときにほんの少し緩んだ口もと。
けれど、あの視線が教室に入った時からずっとあったから、だからだ。きっと、きっと。きっとそうだ。
だって先生、傷やら何やらも相まって怖い顔をしているじゃないか。
きっとそうだ。私は怖かったんだ。
きっとそうだ。
きっと、先生は怖い人だ。
そう決めつけてしまえば、先生はとてもとても怖い人に思えてくるのだから不思議だ。
だから何度も何度も言い聞かせた。
シナズガワ先生は怖い先生だ、と。

ホームルームを終え、小芭内君の背中にひっつきながら「怖かった」「あの先生めちゃくちゃ怖い」「ね、怖かったよねぇ」などと、まるで呪詛のように呟く。
そうしたら「悪いクセが出ている。お前は都合が悪くなると自分に何かしら言い聞かせるのをやめろと俺は何度も言っているが?」なんて意地の悪いことを言う。
けれどこれも私のことを考えて言ってくれていることもわかるので、私は口を膨らませるばかりでまともな反論の一つも出来ないのだ。



放課後の日直の仕事として、最後の授業の板書を消していると、反対側からキュッと音が鳴る。

「……わ!
須磨ちゃん! ありがとう!!」
「いいえー、お安いご用ですよーぉ」
「あ! 須磨ちゃん、あれわかった? 数学の……」
「「問3!!」」

声が重なっただけでも楽しくなって、きゃあきゃあとはしゃいでいれば、うっかりと問3の難しさであるとか、ややこしかった事であったりだなんかを忘れてしまうと言うものだ。
そうこうする間も無く、話題は結局「シナズガワ先生」へと移っていった。

「ここに、傷がぶわぁーって! あれはきっと過去に何かあったんですよぉ……!」
「私も同じこと考えてたんですよぅ!!」
「婚約者が暴漢に襲われかかっていてですねぇ!!」
「刃物を持ってるんでしょぅ!!」
「まさしく!! それをこう!
いい具合に! バァーッと!」
「素手で!!」
「そうですッ!! 熱い男なんですねぇ」

須磨ちゃんがしみじみと言うのがなんだか面白くなったものだから、私もちょっとだけ笑ってしまった。

「オラ」
「わッ!」

唐突に降って湧いたようなシナズガワ先生のガラの悪い呼びかけに、須磨ちゃんは肩を跳ね上げ、私は「ぎゃッ」とお世辞にも可愛らしいとは言えない声を上げ、黒板消しを取り落とした。
口をパクパクとする私たちの言いたいことなど、おおよそ限られている。ざっくりと言ってしまえば、なぜここに、いつからここに、となるのだろうか。
私達しか残ってはいない教室に、一体全体なんの用事があったと言うのだろうか。
そう疑問を抱くことくらいはきっと許されるのではないだろうか。

「いつまでかかってんだァ。皆部活行ってんぞォ」
「は、はいッ!」
「わーん、もう終わりますぅー!!」

実際はおしゃべりばっかりであったし、黒板にシナズガワ先生と暴漢の駆け引きやらの図を想像に想像を重ね、書いたりだのとしていたものだから、消さなくてはならない範囲が増えているだなんて、言えず、私達は全身を使ってせかせかと黒板を擦りあげていく事になった。

手伝ってくれていた須磨ちゃんを見送り、日誌をなんとか書き終えたところで、私は職員室へと急いだ。

「あ、あのぅ、失礼します」

職員室はそれなりに苦手だ。
小芭内君は「教室と作りが違うだけで然程変わりない」「同じ施設内の別室というだけだ」だなんて言うけれど、そんなことはない。
どんな部屋である、だとか、何が置いてあるというのが重要なのではない。
誰が居るか、というのが重要なのだ。
だからつまり、先生方がたくさんいる、というのがひどく緊張するので結局、好きではなかったのだ。

大体の先生方は部活やら何やらで出ていかれているようだけれど、シナズガワ先生も含めて、数人、職員室には先生方が居られた。
その中でも、ひときわ背の大きな真っ白の頭はよく目立つ。
矢張り、私は職員室が苦手だ──と思った。

「あ、あのぅ……」

シナズガワ先生のデスクには、今日の授業であった数学のテストが溢れている。
採点のお手伝いだろうか。
シナズガワ先生はテストを隠すように持っておられたクラス名簿を投げ置き、くるッと体ごと振り返る。

「おう」
「に、……日誌を……」
「ん」

何故かシナズガワ先生を前にするとひどく緊張するので、思わず日誌を両手で渡したのだけれど、左手の指先が暖かいものに触れた。

「お前……スカート短くねぇかァ」

私はバッと腕を引き、背中へ隠しながらシナズガワ先生の言葉を反芻する。
言葉がちっとも咀嚼できない。

「ご、ごめんなさい……!」
「いや、……」
「あ、え、と…………教室の鍵……! か、鍵を……!」

シナズガワ先生は何事もなかったかのように日誌を開き、長い指で私の文字を追っていきながら視線を寄越す。
ぞわぞわとする。
背中のあたりがぞわぞわとして、耳の裏まで何か・・がくる。
あつい。
どうにかなってしまいそうだ。

「俺がやっとく」
「で、……でも、」

シナズガワ先生は日誌を閉じ、立ち上がった。
何が起こるのかと思わず身構えてしまったけれど、なんのことはない。シナズガワ先生は職員室のキーボックスから赤のタグのついた鍵をひったくるように取り「行くぞォ」と顎をしゃくった。

「あ、……え、と!! は、はい!」

あの、えっと、その、とあたふたとしながら頭を下げ、職員室を出るまでシナズガワ先生は待っていて下さって、私はそれにすら申し訳なく、咄嗟に頭を下げた。

ぐしゃぐしゃッと髪を乱されたものだから「ひゃあ!」なんて間の抜けた声を上げて数歩、たたらを踏んだ。

「だ、……え?! そ、……せ、先生ッ!!」
「髪、ぐっしゃぐしゃなってんぞ」
「せ、先生がしたんじゃないですかぁッ!!」
「してほしそうにしてただろォ」
「してませんよぅ!!」

ぶは! と笑いながら先を歩くシナズガワ先生に思わず抗議の声を上げるけれど、そんなものはどこ吹く風。先生はさっさと階段を登っていってしまう。

「先生! ちょ、速いですよぅ!」
「ゆっくり来りゃ良いだろうがよォ」
「だ、だって……」
「どうせ戸締まりのチェックすんだから、てめぇの鞄置いて閉めたりしねぇ」

左側の頬だけ上げ、階段の踊り場のあたりで腕を組んで待つ先生は言う。
きっと、シナズガワ先生はいい先生なのだろう。
きちんと生徒の話しには耳を貸してくれるし、終礼を終えてからは朝の質問の答えを皆に伝えていた。
勿論、個別でもう一度尋ねられていたから、というのもあるのだろうけれど。
とにかく、たくさんの人たちに慕われるような先生なのかも知れない、と思う。
けれど、それと同時に、やっぱり怖かった。



先生が窓の戸締まりをチェックしている傍らで、机の横に引っ掛けた鞄をとった。

「なァ」

私と先生以外の人が誰も居ない、普段よりずっと広く感じる教室では、シナズガワ先生の声はとても響く。
シナズガワ先生の方へ顔だけを向ければ、その鋭い、けれどまぁるい目で私を見ていた。
先生の袖が捲られた腕が、窓の鍵を締めていく。

「……はい」

シナズガワ先生の長いまつ毛が影を作る。
頬に落ちた影が、また消える。
シナズガワ先生はマジメ腐った顔をして、また窓の鍵を一つ締めた。

「や、やだ、先生って……その、なんだか怖いですよぅ!」
「あー? 怖かねぇだろ。優しいってよく言われてんぞォ」
「誰にですか!?」
「弟ォ」
「あは! 兄弟だからですよぅ」
「お前は」

シナズガワ先生は今度は窓に背を預けながら腕を組み、私を見る。
真正面から私を見る。

「あ……え、と……その、律儀な先生だな、と──」

私の言葉に、シナズガワ先生はちょっとだけ笑う。
ちょっとだけ笑って「違ぇ」と言った。

「お前は、どう評価されてんだって話しだァ」

先生はまだ少し、肩を揺らしている。
「すみません」と震える声で返しながら、私はぱたぱたと顔を手で仰いだ。

「いや、俺の聞き方も悪かった」
「い、いえ……」

「で?」シナズガワ先生は続きを話すように促した。

「あ、……兄、のような人に……そうですね、……ええと、……その、……どんくさいとは、よく言われます……」
「母方の姉の家に世話になってんだったかァ?」

私は思わず「えッ」と声を上げた。
その事実は教室でも小芭内君と須磨ちゃんしか知らない筈なのだ。

「名簿の特記事項でなァ」
「あ、……そうですね! そうですよね、びっくりしました……」
「兄貴分ってぇのも、そこのか」
「はい。3つ上の」

先生は「そうかィ」と言って窓の外へと視線を向ける。
なんだかその姿は、どこか寂しそうにも見えた。

「今、苦労はしてねぇのか」
「はい、皆さん本当に良くしてくださって。母の退院がいつかも判らないと言われているのに、いつまでも居ても良いと言ってくださって」

シナズガワ先生は一度頷いた。

「相談位ぇなら、いつでものれる。言ってこい」
「ありがとうございます! あの、でも本当に優しくしてくださるから」
「なら良ィ」
「はい、ありがとうございます」

首裏をがしがしと引っ掻くシナズガワ先生の姿に、私はなんだか口元が緩みそうであった。
こうして一生徒へ気を使ってくださるし、とってもとってもいい先生じゃないか。
普通、名簿で見た、といっても気にかけるものだろうか。わからないけれど。
とにかく、とても律儀で素敵な先生だ。

私のシナズガワ先生への評価は、たった半日の間に様変わりしていた。

「あの、では私は帰ります! ……あ! その、鍵を……」

「戻しとく」と言ったシナズガワ先生は、私が教室から出たのと同時に、最後の窓の鍵をチェックし終え、窓枠から身を離された。

「名字」
「はい!」
「幸せかァ」

シナズガワ先生のピンと伸びた背中が、教室のドアを閉める。
鍵を回し終えたシナズガワ先生の目が、また私を見ている。

私は大きく一度、頷いた。

「とても!」
「そりゃァ良かったなァ」

シナズガワ先生はまた通り過ぎ様に私の頭をくしゃくしゃにして行こうとするものだから、思わずその手を引っ掴んだ。
ぺいッとシナズガワ先生の手を投げ、手櫛で髪をなんとか抑えながらシナズガワ先生の後を歩く。

「も、もうッ!! 怒りますよぅ!」
「ぶは、 もう怒ってんじゃねぇかァ」
「こ! ……だ! ……お、怒ってませんよぅ!!」
「すねんな、これやっから」
「拗ねてませんってばぁ!」
「気ィつけて帰れよォ」

シナズガワ先生のベストのポケットから出された飴玉が、私の手の中でころん、と転がる。
後ろ手に手を振り、職員室へと向かうシナズガワ先生の背中を何故か私は見送っていた。
先生の背中が小さくなるまで見送って、なんだか気が急くものだから、靴箱まで急ぐことにする。
別に何という事はない、何があるわけでもないけれど、なんだかそうしたかったのだ。

はやる心臓の音もそのままに、急ぎ靴を履き、校門を潜り、帰路を走った。
途中口に放り込んだクリームソーダの飴玉が、しゅわしゅわと弾けるものだから、やっぱり私の足も弾けるように駆けていった。

心臓の音はそのうち、シナズガワ先生の事でドキドキとしているのか、たくさん走ったから弾けそうなのか。
私にはすっかりわからない。

きっと、まだまだわからない。


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